■ あげる。
昔から何かに飢えていた。
ひもじい思いをした、とは少し違うが、似たようなものかも知れない。
両親を亡くしてから、里の援助と三代目に何かと気をかけてもらっていたが、欲しいものを多く我慢した。
手にできるのは、本当に必要なものだけ。
贅沢を言ってはいけない。言える立場ではないのだから。
子供心に抱いたその抑圧は重かった。
それは多分トラウマになっていて、だからイルカはある言葉が大好きだ。
――あげる。
何でもいい。
食べ物でも道具でも、花でも石ころでも。
「あげる」と言われると心が躍る。
それは自分に用意された物だ。自分のものにしていい。
心象的な言い方をすれば、空いていた心の隙間がぽんっと埋まる心地よさ。
足りないのだ。この心は。
だから、人の好意に飢えている。
与えられるものに、貪欲なほど喜びが湧き上がる。
あげる。
なんて甘美な響きだろうか。
「本当にあなたってどうしようもないわね! なんではっきりしてくれないのよっ」
賑やかな居酒屋で、甲高い女の怒り狂った声が響いた。
ただならぬ雰囲気に、広い居酒屋内は少し静かになる。
敷居に囲われた隅の席。とくにその周辺は、突如始まった痴話喧嘩を興味深そうに見守った。
一人は細身の美女。頬を紅潮させ、美しい目に怒りを滾らせている。
相手は忍服の男。背を向けているので顔は見えないが、寝癖のような銀髪に丸まった猫背が印象的だ。
「いつも任務任務で、帰ってきた時だけ人をあてにして。私は宿じゃないのよっ。私は‥あなたのいったい何なのよ。任務と私、どっちが大事なの!」
怒りにまかせ、女はたくさんの禁句を口にした。
完全な修羅場だ。周りは少しずつ元の騒がしさを取り戻し、同時にこのカップルの成り行きを見守ることにした。
ご愁傷さまな男だ、と不憫がる呟きが聞こえる。あれだけ血が上っている女をいったいどうやって静めるのか。
「他人事って楽しいな」
こっそり友人が囁いてきた。
同感だが、イルカはこみあげる笑いを堪えた。
痴話喧嘩の斜め後ろ。ちょうど男の背が見える席に、イルカは友人たちと飲みに来ていた。
同業者だ。女を連れてる、となんとなく記憶に残っていただけだが、突然始まった喧嘩に一同の興味は隅の席へと一心に注がれた。
(‥本当にどうやって宥めるのかな。あれだけ怒らせちゃって)
女は怒ると怖い。
同じ男として、この事態に相手の男がどう対処するのか興味深かった。
「ちょっと‥聞いてるの!?」
「――うん、まあ」
男が初めて口を開いた。ずいぶん低く通る声だ。
「とりあえずさ、メシ食べない? オレ腹減ってるのよ」
「‥‥‥っ」
のんびりした対応は、女の感情を見事に逆撫でした。
周囲の人間も、それはまずいと分かる。延々怒っている相手に、しかも女に――。
「もういや‥! 扱いきれない! あなたなんて‥もう‥っ」
涙をためた女はピークに達していた。
コップをつかんで、水をぶちまける。修羅場では定番だ。相手の男は頭から水をかぶった。
「いらない‥っ、誰か‥‥誰かこの人欲しい人いない!? のしつけてあげるわよ!!」
立ち上がり、女はぶるぶると震えながら叫んだ。
店中に響いた大音声に、店内は今度こそ静寂に包まれた。
気まずい。
誰もが微妙な顔をしてそっぽを向いていた。そんな中、
――あげる。
深く染みこんだキーワードが、イルカの耳にこだましていた。
「はい」
気がついたら手を上げて返事をして、
「俺、もらいます」
勝手に口が動いていた。
ぽかん、と口を開ける女と、目を見開いて驚愕する友人たち。
そして、振り返った銀髪の男は、眠そうな右目だけで自分を見た。
胡散臭そうな目で。
*
「おい‥イルカ。酔ってるのか」
友人の引きつった声に、イルカの頭は少し冷静になったが、一度口にした言葉を撤回するのは惜しかった。
これじゃ変人だ。分かってはいるが、
(だってあの人、あげるって言った)
ならば、どんな物でもいい。――欲しい。
ちょっとごめん、と友人たちに断り、イルカは目の前に並べられた酒瓶の一つとお猪口を取り、席を移動した。
周囲の喧騒は徐々に戻り始めているが、さすがに周辺は静かだ。全員、事の成り行きを興味津々に見守っている。
男をいらないと叫んだ女に、もらうと言った男。酒のネタにはもってこいだろう。
「お邪魔します」
「ちょっ‥‥なんなのよ、あなたっ」
「あ、うみのイルカと申します」
律儀に頭を下げ、イルカは向かい合う男女の横側に座った。
「名前なんかどうでもいいわよっ。それよりもどうしてそこに座るのか問題よ。図々しいわね!」
「いえ、でもその権利はあるかと」
「はあ?!」
「あげるって言ったでしょ。だからもらいます。ありがとうございます」
繰り返して言うと、なんだか幸せがこみ上げてきた。あげるってやっぱり素敵な言葉だ。イルカはにっこり満面の笑みを女に向けた。
「だ‥っ、あんた変態!? キモイ話しないでよ! なんであなたにカカシをあげなきゃいけないのっ」
「あ、カカシさんとおっしゃるんですか」
どうも、とイルカは頭を下げた。
騒動の中心たる男、カカシはそんなイルカをちらりと見て、軽く会釈のようなものを見せたが、疲れて目を逸らしたようにも見える。
「とにかく‥っ、あなたは関係ないんだから首突っ込まないでよ! 消えて!」
「それは駄目です。もうこの人は俺のものですから」
「‥‥は‥っ、変態‥!!」
女の激昂にイルカは笑顔で対抗したが、内心はちょっとうろたえていた。
変態。確かにまったく反論できない。
(‥俺、何やってんだろうなぁ)
遠巻きに眺める友人たちの視線を痛いほど感じる。しばらくすれば他人のふりをするだろう。酔っているとしても、イルカの行動は十分に常軌を逸していた。
(でも、悔しい)
あげると言われ、もらうと宣言した時からイルカの中ではもうこの男は自分のものだった。
おかしいことは分かっているが、いまさら引き下がるのが悔しかった。
「いいじゃないですか。いらないって言ったのはあなたですよ」
「本気じゃない! ましてや‥男のあなたなんかに誰が!! ちょっと喧嘩してただけよっ、見れば分かるでしょ! カカシは‥私のものなんだから!」
「いえ、所有権を放棄した時点で彼はもうあなたのものではありません。今は俺のものです。残念ながら手遅れですよ」
「だから‥っ」
「――ちょっと」
不毛に繰り広げられる舌戦に、低い声が割って入った。
「‥色々言いたいことはあるけど、オレに言わせれば二人ともキモイよ。人を物扱いするのはやめて下さい」
語尾はイルカに向けられているようだった。カカシの右目が心底うんざりした様子で二人を見て、女はぱくぱくと口を開ける。イルカは、
「はい。すみません」
と頭を下げた。
「お腹空いてるんですよね。お気になさらずどうぞ。あ、この店は焼きおにぎりが美味しいんですよ。頼みましょうか」
「‥あ〜‥‥お願いします」
「はい!」
同意を得られ、イルカは輝く笑顔を見せた。嬉しい。上機嫌で店員を呼んだ。
*
「そもそも、どうして喧嘩をしてたんですか?」
黙々と食事を続けるカカシを微笑ましく眺めながら、イルカは隣の女に訊ねた。
女はきつい眼差しを向けてくる。
「どうしてあんたにそんなこと話さなきゃならないのよ。関係ないでしょ!」
「いえ、今後のために参考として」
「誰と誰の今後よ!」
「まあまあ、一杯どうぞ」
イルカは元のテーブルから持参した酒瓶を差し出した。「美味い酒ですよ〜。俺たちはここの常連ですから、店主が特別に出してくれるやつです」悪魔の囁きのごとく瓶をちらつかせたら、ぴくりと女の眉が動いた。
酒好きには、酒好きが分かる。
数の限られた大事な酒を仲間の了承なしに持ってきたのは悪かったが、向こうも巻き込まれまいと完全にシカトしているのでよしとしよう。
欲しいものを手に入れるなら、まずは周囲から陥落すべし。
もうカカシは自分のもの、という意識があるが、やはり快く譲ってもらうのがベストだ。
「ささ、どうぞどうぞ」
遠慮なく、ぐいぐい飲ませた。
正真正銘美味い酒なので、女も徐々に機嫌が直ってくる。みるみる火照っていく顔に、イルカは内心にやりとほくそ笑んだ。
「ところで、喧嘩の原因は‥?」
頃合を見てもう一度訊ねたら、今度はあっさり白状した。
「‥なんでもないわよぉ。この人がぁ! あんまりにも人の話を聞いてなくて、遅刻はするし、たまに家に来てもごろごろするだけだしっ、人を人を思ってないような‥そもそも、あたしのこと好きって言ってくれるけど、おざなりな口調が腹立つし‥っ」
出るわ出るわ。
(‥こりゃ相当‥たまってるな)
イルカにしてみればしめたもんだが、少しばかり女に同情を抱いた。
当のバッシングを受けている本人は、まだ黙々と食事を続けている。顎まで覆面を下ろしていて、素顔があらわになっていた。
なかなかの男前。きっと女に不自由はしないだろう。
(‥ええと、この人どっかで見たような)
今更だが、誰だったっけと首を傾げる。実はイルカもけっこう酔っていた。
カカシ‥カカシ‥。覆面に猫背に片目‥。
「‥‥あ、写輪眼のカカシ‥!」
おもわず口をついて出ると、ぴたっとカカシの箸が止まる。
視線だけがこちらに向けられ、イルカは少しだけ背筋がぞっとした。
*
カカシは何か言いかけて、やめた。
きっとめんどくさかったのだろう。そっぽを向いて、軽くあくびをしている。
「眠いですか? じゃあ、うちが近いんでよければ」
「ちょっとちょっとぉ!」
イルカの誘いは甲高い横槍に消えた。
「あんた‥っ、まだ諦めてないわけ! カカシにはあたしがいるのよ!」
「いいえ、何度も言いますが、あげると言ったのはあなたですよ」
「あげない! いやよっ!」
「――‥‥」
ばんばんっとテーブルを叩き、目をつりあげた女の奇声に、イルカはしぶい顔をした。
――あげない。嫌な言葉だ。
(あげると言ったくせに)
このどうしようもない嘘つきをどうしてくれよう。
黙りこんだイルカに、勝機を悟った女はさらにまくしたてた。
「だいたい、カカシがあんたなんか相手にするわけないでしょ! カカシみたいな上忍で顔のいい男なんて、そうそういないんだから! あたしの将来設計を邪魔すんなぁっ」
(‥‥‥うわあ)
今度は女性を哀れに思えてきた。
誘導尋問をした覚えはないが、そこまで喋ってくれなくていいのに。
「‥でも、喧嘩するんでしょう?」
「仲がいいほど喧嘩するって言うでしょ!」
「種類によりますよ。あなたのは、客観的に見ても一方的で、ただのヒステリーでした」
「‥な‥っ」
「本当に好きなら――なんでも許せます」
「‥‥‥」
「俺なら、許せる」
静かに語る。
女は、毒気を抜かれた顔で自分を見ていた。
酒が入ってなくても、いつ何時でも口にできる。世間一般はどうであれ、自分は愛する人を無条件で受け入れられる。
それが重荷になって、逆に逃げられる――という悲惨なパターンが多いが、真情なので仕方がない。
「へー‥‥‥許せるんだ」
黙りこんだ女に代わって、カカシが口を開いた。
いつの間にか、箸を置いて酒に移っている。
「あんた偽善者だね」
「‥‥‥どういう意味ですか」
「おキレイなこと言っちゃって、でも欲しがりじゃない」
「――‥‥」
「そういうヤツはね、本当の意味で貪欲で、頑固な餓鬼なんですよ」
淡々と、酒を飲みながら話す。
イルカは一切反論できなかった。――何も感じないほど、図星だ。
「ま」
覆面を鼻まで上げて、こもった声でカカシは続けた。
「オレも同じ人種だから、分かるんですけどね。‥‥あれも欲しいこれも欲しい。欲張った結果がこのざまです。うすっぺらになる前に、その悪い癖直しなさいよ」
行くよ、と隣の女に声をかけ、カカシは立ち上がった。
*
あれも欲しい。これも欲しい。
その欲望をずっとためこんで、だから[あげる]という言葉が好きだった。
欲しいものをたくさん我慢して、結果、イルカは欲しがりの人間となった。
(あの人も同じ)
そんなこと言われるなんて予想もしなかった。
驚きと、後悔が生まれる。
やっぱり悪い癖なのだ。分かってはいたのだが、どんなに考え方を変えても、心の隙間は埋まらない。
それこそ、本当に好きな人が現れるまで。
無条件で、何もかも許せる人でも現れない限り。
――なんとも、果てのない話か。
(あれだ。白馬の王子を待ってる感じだ)
いや、男なんで王女になるか。しかし、白馬に乗ってくる王女というのも‥。
考えて、ぶはっと笑う。
(どうでもいいか)
まったくの他人と派手に口争いをして、あれほど開放的に自分の欲を出したのは初めてだった。
おかげで、なんだかすっきりした気分だ。
お礼を言いたい。
これであの二人の仲がよけいにこじれたら、後味が悪いし、邪魔をした謝罪も。
イルカは支払いを済ませて出る二人の後を追いかけた。
「‥まあ、別に。おたくが謝ることもないんですけど」
頭を下げるイルカに、「お前も謝んなよ」とカカシが後ろの女に声をかけた。
女は仏頂面でイルカを見つめ、ふいっと横を向く。
「そんなことより‥早く帰りましょうよカカシっ。あたし寒くて‥」
賑やかな店内に比べ、外の気温は息が白くなるほど寒かった。
擦り寄る女は薄着だった。寒そうにぴったりカカシに寄り添うと、「はいはい」とカカシがベストを脱ぐ。ベストとはいえ、防寒対策は万全だ。
「ありがとっ」
ぬくぬくと嬉しそうに笑う女は、どうも確信犯のようだった。
(――ああ、さっきまで、一瞬だけど俺のものだったのになぁ)
我ながら未練がましいが、その光景をやや荒んだ気持ちで眺める。――と、
ひらり、と視界に白いものが。
「わ‥」
雪だ。
しかも初雪かも知れない。
女がはしゃぐ声を上げて空を見上げている。
隣ではカカシが白い息を吐いて――あ、と思う。
「ちょっ‥ちょっと待ってて下さいっ」
二人に手を上げて制止させ、イルカは急いで店内に戻り、自分の荷物からある物を持ってきた。
「はい、これどうぞ」
差し出したのは、自前の手袋。
カカシの指が、降る雪よりも白く見えて、あまりに寒そうだったので。
手甲をつけているが、指先が冷えて痛そうだった。
カカシは差し出された手袋を見つめて、何も言わない。
迷惑がられてるかな、と不安になったが、どうしても貰って欲しくてカカシの手を取り、むりむり手袋を身につけさせた。
「返さなくていいです。あなたにあげます。風邪、ひかないで下さいね」
どうも女の台詞のようだ。
なんか変だな、とは思ったが、イルカは鼻水をこらえた。
寒い。心もちょっと寒いので、早く友人たちの所に戻って馬鹿騒ぎしよう。
「それじゃあ」
手を振って、イルカは店内へと戻った。
「カカシってばっ、早く帰りましょ!」
小さい雪が降る中、カカシは石のように動かなかった。
「ちょっと、カカシってば」
女が再度訴えて顔を覗く。
「‥‥‥‥‥」
カカシの顔が赤い。
「‥‥え? カカシ‥どうしたの? 熱?」
もう風邪をひいたのか。ベストを奪ったのがよくなかったのか。
女はちょっと焦ったが、
「‥やばい」
カカシがぼそりとつぶやいた。
「え?」
カカシは酒屋を見つめ、催眠術にかかっているように棒読みした。
「‥‥オレ、恋したかも」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は?」
寒いから。
風邪ひくといけないから。
そう言って、あたたかいものを貰ったのは――生まれて初めてだ。
いつも欲しがって、欲しがっても、本当に欲しいものは手に入らないのだと諦めて、うすっぺらな人生を歩んでいたのに。
――あげます。
冷えていた指を温めてくれる手袋。
乙女のような恋の瞬間に、カカシは苦笑を浮かべた。
偽善者なんて悪態ついたが、本当はあの言葉に感動していた。
何かも、許せる。
少なくとも自分は、そんなふうには思えなかった。
ただ、ただ欲しがるだけ。
あの人は、オレとは違う。
「ごめん、一人で帰ってくれる? あ、ベストは返して。忍具入ってるから。寒い? じゃあ、はい。上着あげるから、これであげるのは終わりね。ごめんね。今までありがと。でもオレ、実は何も持ってないから。――名声も金もゴミと同じだよ。今度男を選ぶ時は内面重視の方が、あんたのこと大事にしてくれるんじゃないかな。じゃ、おやすみ」
ベストを剥ぎ取り、外にも関わらず上着を脱いで上半身裸になり、ぺらぺらといまだかつてないほど饒舌に語って、カカシはさっさと酒屋へ消えていった。
カカシの体温が残る上着を頭からかぶせられ、女は硬直していた。
「ふざけんじゃないわよおおぉぉ! あんたらぁぁぁ!!」
数分後、そんなおたけびが外で聞こえたが、賑やかな酒屋の中には届かなかった。
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