□ 愛は
たしかに、昨日のオレは最悪だった。
常日頃から愛想がいいほうじゃない。仕事が絡めば別だが、普段は返事をするのも億劫に感じる時がある。だいたい、喋るのって疲れるでしょ。
あの人は泣いただろうか。オレが出て行った後で。
苦しめたいわけじゃない。嫌いなわけではない。むしろ逆で――たぶん。
あの人の存在が大きすぎて、大きすぎると案外分からなくなるものだ。
愛しいのか憎いのか。
恋人になって一年、まさか倦怠期とかいうものではあるまい。
いっそ飽きてしまえれば、お互いどれだけ楽か。
昨夜のオレの愚行に、あの人はさぞ戸惑い傷ついているだろう。
分かってる。分かってる。でもやめられない。
縛ったのは、たしかにやりすぎだった。だけど抵抗するから。
あの顔で声で、オレと別れるなんて言うから。
考えるとため息が出た。
勇気がある。そんなこと言わなければ、ずっと守るだけの人間でいてあげたのに。
あの人を縛るなんて容易い。何を言えば傷つくかわかる。聞いたことがないような卑猥な台詞もさんざん聞かせてやった。傷ついた目を見ながら、明日の予定なんて聞かずに好きなだけ犯した。
昨夜のオレは最悪な男だった。だがおかしなことに、最高に幸せだった。満ち足りていた。あの時、あの人はオレだけのものだった。
「お客さん、それで、どれを買うんですか」
ふいに声をかけられて、思考が途切れる。
ぼうっと視線を上げると、鋭い目をした老人が苛立たしげに立っていた。
「買うならさっさと決めてくれよ。そろそろ移動しないとやばいんでね」
「ああ、え〜とね〜……」
足元に広げられた敷物に目を落とし、カカシは猫背を更に丸く物色を始めた。
カプセルに粉、瓶にケース入りの注射器。医療所でもない裏通りで無造作に並べられた薬の山は、白く妖しく輝いていた。眠たげなカカシの目も、ゆっくりと生気が戻ってくる。
薬漬けにして身体能力を凡人まで戻すか。手っ取り早く足の腱を切るか。忍びとしての能力を奪っても、聡明な知識がある。あの真実を見透かす目は厄介だ。――そうだ。視力が無くなれば。
その後、カカシは液体の入った小瓶を持って表通りへと消えていった。
いつもなら明かりと、温かな人の気配のする家がひんやりと凍っていた。
そんな家の中に、彼は眠っているのかベッドの上に横たわっている。起こさないようにカカシは完全に気配を消した。
裸は辛いと思ってパジャマを着せていった。そして腕を背中で念入りに縛り上げた。足は片足だけベッドと繋いだ。部屋の中を動き回れる長さで、無論切れないように処置を施してある。怪しまれるかと危惧したが、一応結界を張っていった。中から叫んでも誰にも聞こえないように。職場に休むと代わりに連絡を入れ、ひとまず万全だ。今日だけは。
見下ろし、異状はないか調べた。
予想はしていたが、ずいぶんもがいたらしい。縛った部分の皮が破れ、痛々しい傷になっていた。縄の目が荒すぎたせいだ。手持ちのもので間に合わせるべきじゃなかった。
「……起きましたか」
ふと視線を上げると、顔を起こしたイルカの瞳とぶつかった。
やっぱり泣いたのか、充血した目にカカシは手を伸ばし、額にかかる前髪を払った。
「ゆっくり休みましたか? 少々動きにくいでしょうが、たまには休暇もいいもんでしょう。……あいた」
唇をなぞっていたら噛みつかれた。カカシは笑い「子供っぽいね」と揶揄する。そう。それぐらい元気に反応できるなら、まだ大丈夫。
「すみませんね、一日留守にして。お腹空いたでしょ。何が食べたいですか?」
問いかけに、イルカは無言で返す。
「だめですよ、ちゃんと食べなきゃ。ああ、その前に汗を洗い落としますか」
「……で……す……」
「え? 何ですか?」
「なぜですか、カカシさん。……どうしてこんな真似‥‥‥っ」
傷ついた黒い目が、カカシの姿を映した。自分だけが映っているのを確認して、カカシは心から満足して微笑んだ。
「別れるって言うからですよ。オレを捨てるなんて馬鹿なこと」
「捨てるなんて……言ってません…! ただ、あなたと距離を置きたかっただけで…」
「その話は不愉快です。やめましょう?」
やんわり拒否され、イルカは口をつぐんだ。
優しく笑っているのに、カカシの声は冷え冷えとしていた。
「やっぱり身体をきれいにしてから食事にしましょうか」
次に出た声は温かみに満ちていて、そのギャップにイルカは血の気が下がる。今のカカシに抵抗するのは危険だ。だから露になった肌を熱いタオルで拭われても我慢した。状況が違えば心地いい感触だが、今は鳥肌しか立たない。それにカカシは気づいていて、でも楽しそうに口元に微笑みを浮かべている。カカシはどうしてしまったのだろう。束縛の強い人だった。理性的で優しいが、時々子供のような嫉妬を見せる。イルカは付き合い始めた当時からそれに気づき、常にカカシを一番に考えるように心がけた。自分だって好きで深い仲になったし、カカシは愛情表現を惜しまず、こちらが恥ずかしいほど好意を向けてくれた。嬉しくないはずがない。
最初の頃はそれでよかったけれど、互いに長い時間を過ごせば過ごすほど、カカシの束縛はひどくなってきた。それとはっきり分かるわけではない。カカシはいつも遠まわしにイルカを操作する。逆らえないように、さもイルカが自分で判断したかのように。
カカシの言うことはいつでも正しく、イルカは疑うことを知らなかった。だから、初めは分からなかった。しかし仕事の量や質が軽くなり、とくにカカシが里にいる間は早く家に帰れるようになって、ようやく気づく。
まずいと思う。カカシの行過ぎた行動にも――それに気づいて怒らない自分も。
互いに依存しすぎていた。
距離を置いた方がいい。冷静に考える時間が自分たちには必要だ。
昨夜、カカシに真摯に訴えた。けしてカカシが嫌いになったわけではない。その気持ちは分かってくれると思っていたが、身勝手な考えだったかもしれない。
「……ッ…」
「ああ、すみません。考え事を邪魔して」
「カカシさん…っ、や……」
「そう? でもいやらしい精液がこぼれてますよ。かわいそうに…こんな淫乱な身体になって。でも仕込み甲斐がありますよ。あなたはとても筋がいい」
「……、……ッ」
反論したい。だが、カカシの手に包まれた熱は否定できない情欲を含んでいた。カカシの指はいつだって、簡単にイルカを篭絡してしまう。逆らえない。悔しいほどに。なぜ。
そこに理由があった。こんなまねをされても怒れない、どれだけ無体を強いられても、カカシの手はいつも愛情に満ちている。
いや、許してはいけない。
でなければ、このまま一緒に落ちてしまう。
カカシを止められるのは――自分だけだ。
「……手を、解いてください。痛い……」
痛いのは本当だった。カカシは無言でイルカの身体を伏せ「…血が出ている。すみません。縄を変えるのが先でしたね」外すのではなく変えるというカカシの言葉に、イルカは強張った。――失敗はできない。
両手と足の縄を外された瞬間に、持てる限りの力でカカシの身体を押し倒した。この男から逃げるのは不可能だ。まず追手の動きを封じなければ。
互いの身体がベッドから落ち、仰向けのカカシの右腕を掴む。左手には外された縄を持ち、一瞬の間に縛り上げるつもりが――ちくり、と大腿に小さな痛みが。
気づかないほど小さな痛みが逆に恐怖を煽った。イルカは思わず視線を下げ、剥き出しの大腿に置かれたカカシの左手を見る。指の間に挟むのは小さな注射器。中の液体が瞬きの間に押し出され、針を通してイルカの中へと注がれた。
「何を……っ」
ざあっと鳥肌が立つ。イルカははだけた上着しか身につけていない。とにかく離れなくてはと足に力を入れるが、ぺたんとカカシの上に落ちた。
「嬉しいですね。あなたから求められるなんて。あまりに情熱的でびっくりしましたが……もしかしてオレを倒そうなんて思いました?」
上体を起こしたカカシが、穏やかに訊ねる。
イルカは、身体を動かせなかった。注射器の中身は何だったのだろう。麻痺だけならいいが、指の先まで痺れるこんな即効性は知らない。――どうしよう。カカシが自分にこんなことまで。
「もしそうなら…オレはまたむごいことをしなくてはいけませんが」
カカシの声はどこまでも優しくて、何より恐ろしかった。甘く見ていた。イルカはかろうじて首を横に振る。
「早くオレに抱かれたかったんですね?」
両手で頬を包まれた。愛しげに撫でるその指で、針を刺したのだ。
首を縦に振ると、同時に涙がこぼれる。
カカシはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「食事は後にしましょうね。お互い、一日ぐらい食べなくても平気でしょ?」
どろどろに抱かれた。
カカシが打った薬には媚薬効果もあって、狂い死にするかと思うほど熱をもてあました。麻痺が解けても、とても逃げ出せない。カカシの指こそ毒で、触れられるとびくびく身体が跳ねる。感覚が鋭敏すぎて今は触って欲しくない。外も中も。
押し入るカカシの凶暴な熱は、敏感な内壁を嬲り、中で吐き出される情欲に足の指まで突っ張った。カカシは意図して腰を押し付け、内部を欲でまみれさせる。
「…あ……、ぅ……」
浮き上がっていた腰を解放されたイルカは、震えながら足を縮めた。
いつになったら解放されるのだろう。薬は切れない。カカシは楽しそうに覆い被さり、汗で張り付くイルカの髪を指ですく。
間近から覗き込む色違いの双眸を、イルカもまた見つめ返した。
凝視は数秒か数分か。カカシはずっと変わらぬ穏やかな目で「やっぱり、目はそのままにしておきたいな」と意味の分からないことを呟いた。
「オレは少し性急すぎました。オレたちはまだやり直せる。そうですよね、イルカさん。ちゃんとあなたが望むように考えますから、仲直りしましょう?」
――これだけのことをしておいて。
激しい隔たりにイルカはめまいがした。分かり合えない、この人とは。
でも、
それでもいいんだ。
カカシの首を引き寄せて、イルカは強く抱きついた。
「…あなたが好きです。本当に好きだ。だから……俺を好きなら一緒に考えてください。一人で考えないで、どうか俺を理解してください」
饒舌だったカカシが、なぜかその時だけはすぐに返事をしなかった。
身体を離して見上げると、カカシは困った笑みを浮かべて、
「それが一番難しいのに」
嘆息を含ませて言った。
裏通りで購入した瓶を庭に放り投げる。
パリンと乾いた音がして、こぼれ出た液体が地面に溶けた。
見届けたカカシの胸に安堵と、少しの後悔。
思い直してよかったと思う。結果を見れば、イルカと元通りの関係になったし、難しい要求を突きつけられたが、それで昨夜と今日の愚行を許されるなら仕方がない。
イルカの生き方を理解して、彼の考え方で一緒にいる。それでは、はっきりいってカカシは満足できないが、できなくなったらその時はその時。薬屋はいつでもどこにでもいる。
でもまた説得されるかも知れない。
甘えられると弱い。傷つけることなんて――本当はできないかも。
「愛は……忍耐」
ベッドに戻ったカカシは、ぐっすり眠るイルカに寄りそった。薬に翻弄され、体力もほとんど残ってないだろう。でも、朝になればきっと仕事に行く。そういう人だ。
本当は起こして、もう一度熱を分けて欲しい。
でも我慢しよう。
これが最初の我慢。
さて、いくつまで堪えられるか。
カカシはやる気のない欠伸をして、目を閉じた。
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