■ あなたよ守れ
「くそ‥っ、なんて逃げ足の速い‥っ」
もぬけの空になっている部屋に、カカシは舌打ちした。
確かに気配を感じた。その証拠に、鍋の中身は湯気を立て、ネギは切りっぱなしだ。
(火までちゃんと消していって‥‥余裕綽々?)
目的の人にまんまと逃げられたカカシは渋面した。
今日こそは捕まえてやると思っていたのに、あの人はいつも寸前でいなくなる。
その逃げ足ときたら上忍も真っ青だ。
開いたままの窓を睨み、外に上体を出してみる。辺りを見回してみたが、夕焼けに照らされた平和な里が広がるばかり。
(このまま家で待ち伏せするか。‥‥いや、そうすると帰ってこないだろうな)
授業中や任務中に拉致することも考えたが、それは逆ギレされる恐れがある。
事は穏便に進めなくてはいけない。怒らせず、納得させて連れて行かなくては。
これは――イルカの身体のことなのだから。
「嫌がったって駄目ですよ! 絶対、健康診断に連れて行きますからね!!」
カカシは夕焼けに向かって声を響かせた。
イルカは病院が嫌いだった。
そして、自分が健康だと信じ切っている。
確かに見た目は丈夫そうだが、人間なのだからどこかしら故障はある。
それに、イルカは授業やたまの任務に派手に怪我をしてくる。お人よしな性格だから負わなくていい傷をよけいに。
見える範囲の怪我ならまだいい。さすがのイルカもしぶしぶ病院で手当てを受けてくれるが、問題は内部だ。
食生活はぎりぎり標準だ。しかし麺類が多すぎる。はっきりいえば野菜が少ない。
酒も好きだ。悪酔いはしないが、少々豪快すぎる。控えたらどうかと言ってみたら、隠し扉を作ってこっそり保管し始めた。これについてはもう諦めている。
タバコはたまにしか吸わない。たまに戯れのようにくわえているが、酒の席ぐらいだ。
夜更かしは多いが、早起きの鏡。
趣味は湯治で、子供の頃からほとんど病気を経験していない。
一見、健康体でしかありえない人だが――三日前、少し怪訝な顔をして腹を押さえていた。
お腹でも痛いのかと訊いたが、本人もよく分からないらしい。
しかし、いつも残さない夕食を半分しか食べず、不思議そうな顔で腹を押さえ続けるイルカに、カカシの方があせってきた。
「どこか痛いんですか?」
「‥いやぁ‥‥痛いというわけでは」
「気持ちが悪いんですか?」
「‥うーん‥‥うまく表現しにくいです」
ただちょっと違和感が、と呟いて、イルカは首を傾げるばかりだった。
病院だ。
カカシはイルカの手を掴んだ。
「病院へ行きましょう、イルカ先生」
「え――まさか行きませんよっ。この程度のことで」
イルカは面白そうに爆笑した。しかしその後すぐ、難しい顔で腹を押さえる様子に、カカシはイルカを立たせようとする。
「ちょっと診てもらうだけですよ。軽い健康診断です。さ、行きましょう」
「行きませんって。やだなぁ、カカシさん」
「冗談じゃないですよ。まだ受付はしてるはずですから」
「行きませんーって」
「いいから。一回行っておけば安心するでしょ」
「行かないって言ってるでしょ!」
「――‥」
手を振り払い、急に声を荒げたイルカに、カカシはびっくりした。
イルカは温厚だ。叱る時は厳しいが、無意味に怒り出すことはめったにない。
そのイルカが、ぎらぎらと目を光らせて怒っていた。いや、警戒しているのか。
「‥‥あの‥イルカ先生。簡単な診察ですから。何も痛いことなんてしませんし。もしも病気だったら早期発見が重要です」
「病気なんかしてません! 俺はいたって健康です! 自分の身体のことは、自分が一番よく知ってるんです!」
「みんなそう言いますが、それは絶対じゃないですよ」
「なんでカカシさんにそんなことが分かるんですか!」
「‥‥そんな子供みたいな。いいから行き――」
突然の白光だった。
イルカが懐から取り出した光玉を投げつけ、カカシの目前で破裂する。
まぶしい光に目を瞑ると、続けて煙が舞い上がった。
狭い部屋の中、衝撃と音が賑やかにぶつかりあう。カカシは一歩後ずさり、光が収まると目を開けた。
目を瞑っていたのはほぼ一瞬のことだが、イルカの姿はかき消されていた。
(‥そこまで嫌がるか‥!?)
開きっぱなしの玄関に、カカシは呆然と立ち尽くした。
病院が嫌いな人間はいる。
カカシとて別に好きなわけではない。
病院がなんでも治してくれるとは思っていないが、自分で見つけられない病もある。
我慢できなくなったら行く――では遅すぎることもあるのだ。
健康だと自分で思うことは悪いことじゃない。
体力、気力が勝負の忍者にとって精神力は重要だ。時には自己暗示に近い思い込みも。
(でも、替えはないんだよ?)
使える体はこれだけ。一生。死ぬまで。この身体しかない。
(‥まあ、人から貰えることもあるけど)
左目を押さえ、カカシはため息をついた。
しかし、いいことはない。間違ってもイルカには経験して欲しくないし、大事な人が自分の身体を疎かにしているのは辛い。
(――来た)
慎重な足音を聞き逃さず、カカシはぐいっと紐を引っ張った。
茂みの向こうで、土が擦れる音と、声にならない悲鳴が聞こえる。
カカシはのっそり立ち上がって姿を見せ、捕獲した相手を見上げた。
「‥どうも、三日ぶりですね」
吊り上げられた網の中で、イルカは獣のようにもがいていた。一瞬、言葉が通じるか心配になったが、かけられた声に目がぎらぎらと光る。
いいかげん諦めてくれないかと期待していたが、とても無理そうだ。
「‥‥イルカ先生」
カカシは両手を広げ、網ごとイルカを抱きしめた。
暴れ出すイルカの手が猫のようにがりがりと引っかくけれど、構わずにぎゅっと包み込んだ。
「‥胃が痛いです。このままじゃオレの方が病気になっちゃうよ。助けると思って、病院に行ってくれませんか」
イルカはしばらく腕の中でもがいていたが、やがて静かになった。
分かってくれたのか。
カカシは顔を見ようと覗き込み、びっくりした。
網の中で丸くなったイルカが、腹を押さえてぶるぶる震えている。顔は血の気を失い、唇は真っ青だ。
「どうしたんですか!!」
慌てて網を下ろして自由にしたが、イルカの容態は変わらない。
「痛いんですか?! どこが?!」
強く詰問すると、イルカは苦しそうな顔で、しかし怪訝そうに首をかしげた。
(鈍感にもほどがある‥‥!)
己を健康だと疑わない人間は、時として痛みにすら疎い。
「認めなさい! それは間違いなく痛いんですよ!」
カカシは声を張り上げて怒鳴った。
腕の中でイルカはびっくりしたように目を見開き、すぐにぷるぷると震え出す。
さっきよりずっと青ざめた顔で、
「‥‥‥痛い‥‥です」
小さな声で――認めた。
その頬を「頑固者」とつまんでやり、強張る体を背負った。
目指すは、病院。
痛みを認識したイルカは、急激に悪化しているようだった。
イルカは盲腸だった。
もう少し病院へ行くのが遅かったら大変なことになっていた。
看護士や医師に注意され、痛みからようやく解放されたイルカはベッドの上で消沈していた。
叱られた子供のように落ち込んでいるイルカの横で、カカシはしょりしょりとリンゴを切っている。
手術を終えたイルカはずっと無言のままで、ちらちらとカカシを見ていたが、
「‥‥‥そこで何してるんですか」
と小声で訊ねてきた。少しすねている感じだ。
「見てのとおり、リンゴを切ってるんですよ」
「俺は食べられません」
「オレが食べるんですよー」
言いながら、剥いたばかりのリンゴをぱくりと口に入れた。
しゃりしゃりといい音を立てて咀嚼すると、イルカが恨みがましい目を向けてくる。
この三日間逃げ回ってばかりいたので、落ち着いて食事をしていないはずだ。
(オレの言うこと聞いてりゃねー)
さっきだって、真摯な自分の願いを聞いておとなしくなってくれたかと思ったのに。
結局、死ぬ直前まで行かなければ、この人は自分の身体を守らないのだ。
(守ってくれないイルカ先生を憎む)
どんな敵からもイルカを守る覚悟と自信があるが、イルカ自身が敵となるなら――自分は到底イルカを守れない。
(そんなこと、考えもしないんだろうな。この鈍感頑固。こんな子供みたいなところがあるなんて知らなかったよ)
カカシは不満を隠せず、仏頂面でリンゴを食べた。
しかし、全部平らげて腹が膨れると、少し気持ちに余裕が出てきた。
知らなかったイルカの一面を見れたことは、よくよく考えればいいことかも知れない。
子供たちの前では大人ぶっているが、時々少年のようになる25歳。
しゅん、とまだ落ち込んでいるイルカに、カカシはふっと口元を緩めた。
軽くつきだされた唇に、すばやく唇を押付ける。
「‥‥‥‥」
イルカは無言だったが、頬が赤い。少し悔しそうな顔で目で訴えてくる。――もう一度と。
再び唇を重ねると、イルカの舌がぺろりとカカシの唇をなめた。
ずいぶん積極的だなと思うと、イルカは口をもごもご動かし満足そうに目を瞑る。
(‥まさか‥)
リンゴ?
イルカの狙いは、カカシの唇に残るリンゴの味と香りだったのか。
眉を顰めると、イルカは満面の笑みを浮かべた。
はいはい。
その笑顔に免じて、今日のところは許しますよ。
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2004.10.01