□ 歩いていこう
第5話
はたけカカシの更生は完全に成功した。
今までのような問題行動は皆無となり、社会的順応力を身につけた。人間関係や、一般の任務においても模範的な上忍であることを目指し、今後もその継続を望める。
カカシとの接触から一ヶ月。
――イルカの役目は終わろうとしていた。
***
「ご苦労だった」
火影は手元の報告書にすべて目を通し、一言イルカに告げた。
報告書は、これまでイルカが毎日書き続けてきたはたけカカシに関する記録だ。彼の行動から精神状態など、詳しく細かに記されている。
「おぬしは予想以上の働きをしてくれた。感謝する」
火影の心からの賛辞に、車椅子のイルカは「いいえ」と首を振った。
「私のしたことなど微々たるものです。はたけ上忍は、すでに自分と戦う道を見出していました。ここまで来れたのも、彼自身の意思の強さによるものです」
「そう謙遜するな。‥おぬしも頑張ってくれた」
生真面目なイルカの態度に、火影は苦笑気味に労いの声をかけた。
「おぬしには色々と面倒をかけたが、カカシに関してはここまででいい」
「――――」
言われると分かっていたが、イルカは少し息を飲んだ。
「はたけ上忍は‥‥これから」
「うむ。奴には本格的に任務を預けようと思っておる。あれもずいぶんと頼れる忍となった」
「‥そうですか」
「おぬしはアカデミーに復帰し、今度は子供たちを頼む。して‥足の方は」
「あ、‥この後で病院に寄る予定です」
「すぐに歩けるか」
「おそらくは」
「そうか。――イルカ、本当にご苦労であった」
役目は終わった。
火影との面会後、病院へ移動したイルカは待合室でぼんやりしていた。
いや、正式に終了を告げられたが、まだその事をカカシに伝えていない。
(‥なんて説明しよう)
イルカは昨日の出来事を思い返し、少し眉を寄せた。
状況は――とても厄介な展開になっていた。
事の起こりは昨日。
通常任務に戻り始め、人との関係も増えてきたカカシが、少し苛立っているように見えたので、気分転換のつもりで外出したのに――そこで予想外のことが起きたのだ。
(‥‥あのカカシさんが‥‥‥)
鈍い、と昔からよく言われてきたが、今回に関してはまるで予想もしていなかった。
あの夜。
カカシが血を求めて外に出かけようとした時、彼は剥き出しの牙で威嚇し、殴る暴力ではなく、陵辱を強いた。後になって腹立ちも感じたが、カカシの精神状態を考え、彼を詰ってはならないと自分を落ち着かせた。単なる一夜の激情。カカシも罪悪感を抱いていたし、その後の彼は見違えるほど落ち着きを手に入れた。最初の頃とは比べ物にならない素直な対応と生活態度に、イルカ自身驚いたほどだが、元は聡明な男だ。一度山を越えてしまえば、自身の内面を見詰める余裕も生まれる。
―――上手くいっていると思っていたのに。
イルカは過信していた己を恥じた。
彼の人間性をある程度把握できたような気でいたが、それは誤りであったと認めざるを得ない。
信じられない。
いったいどこをどうして、自分にそんな間違った感情を抱いてしまったのか。
(‥あの返答は‥‥失敗だったかもしれない‥‥)
昨日告白されて初めてカカシの気持ちを知り、イルカは気が動転した。
理解を持ち、親身に接すれば、内面に深い闇を持っている人間ほど、いざ心が開かれた時、返してくれる親しみの量は多くなる。その情は個人差もあるがとても強く、時に異常性すら持つ。それだけ、人の情に飢えていたから。
しかしイルカは、その点に関してはカカシに何の心配も抱いていなかった。彼は成人した男性だ。思春期の子供ならいざ知れず、そんな心の錯覚に陥ることなどありえないと――考えるまでもなかったのに。
それでもまだ、友情や親しみなら理解できる。けれどカカシは、恋愛観念を含めた目でイルカを見たのだ。
あの時、イルカは返答に窮した。
頷いては見せたけれど――――本当はその場しのぎだった。
刺激を与えてはいけないと思ったし、話せば分かると思ったから。
それに、ふざけていないとカカシは言っていたけれど、その意識は錯覚から生まれたものに違いないとイルカは考えていた。
今の状態はおよそ普通とは異なり、閉鎖的な介護から解放され、通常の生活に戻っていけば、カカシもまた目を覚ますだろう。
実際、カカシの人間関係も豊かになってきている。時間をおけば大丈夫。聡い彼なら、すぐに己の一時の感情に気づき、後に笑い話にもできるだろう。
――間違ってはいないはずだ。
イルカはいい訳のように心の内で呟いた。
頷いて見せた後の、あの嬉しそうなカカシの反応。イルカにしてみれば、他に適切な対処が思い浮かばなかっただけなのに。
イルカは憂うつ気に瞼を閉じた。
(‥‥違う。‥本当は、はっきり断ることもできた)
カカシは激化したかもしれないけれど、あの場ではっきり気持ちを拒絶することも出来た。
そうしなかったのは、返答に困っているだけで傷ついた顔を見せるカカシに、それ以上無下なことを言いたくなかったから。
けれど、イルカはずっと悩んでいた。
あの対応は間違っていたのではないかと。
今更言ってももう遅いことだというのに。
(‥‥もう一度、ゆっくり話さなくては‥)
昨日の話も含めて、今夜、カカシに介護の任が終わったことを告げよう。
イルカさん、と診察室から呼ばれ、車椅子を動かしながらイルカはため息をついた。
病院から出ると、外はもう夕焼け色に染まっていた。
もうすぐ梅雨が晴れると話を聞いた。暑い日々が訪れるが、入道雲が映える青空もいい。
イルカは車椅子を動かしながら、少しだけ片足に力を入れた。
――僅かだが動く。
嬉しさに、笑みがこぼれた。
神経科の医師の手により健康な状態に戻った足は、久しぶりに感覚をイルカに伝えてくる。元々神経には何の異常も無かったが、わざと使えない状態にしていた時間は長く、医師の話では今日一日は車椅子が必要だと言われた。
感覚は徐々に戻り、明日の朝には歩けるようになる。走るのはまだ無理かも知れないが、車椅子からは今日限りで解放される。
――早くカカシに知らせたい。
そんな無意識な思考に、イルカの心はすうっと暗くなった。
知らせると同時に、込み入る話もせねばならない。
考えると何度でもため息が出てくるが、避けて通れる道ではない。
(‥上手く話さなくては‥)
今日は火影に報告書を提出するためカカシの付き添いは断ったが――病院に寄る、とは言っていない。彼はもう家に帰っているだろう。足が治ったことを、ちゃんと伝えるのだ。
(‥しっかりしろ。最後が肝心だ)
結果的には、カカシはとてもいい方向へ歩き出している。
カウンセラーを名乗るのはおこがましいが、立ち直り、歩き出す彼の背を押すのは、きっと自分の役目だ。それでやっと、本当に肩の荷が下りる。
いつになく緊張する心を叱咤し、イルカは家路を急いだ。
***
「おかえりなさい」
玄関につくと、カカシがわざわざ迎えに出て来てくれた。
最近では、家の中なら覆面も額宛もしない。カカシは穏やかな笑顔で、イルカの車椅子に手をかける。
「食事にしますか?」
「あ‥‥いえ。その前にお茶を飲みませんか?」
イルカがお茶の誘いを持ちかける時、それは話がある、との別の意味を持つ。
「‥‥いいですよ」
少し黙った後、カカシはにっこり笑った。
待ってて、と言い残し、カカシは台所へお茶の準備に行く。手伝おうと思ったが、少し緊張している自分に気づき、任せることにした。今のうちに深呼吸して気持ちを整えておこう。
「はい、どうぞ」
やがて、やわらかな湯気の立つお茶がテーブルに置かれた。
カカシはイルカの隣のソファに腰掛け、「で、話って?」斜めから見上げる。その落ちついた瞳に、イルカの方が緊張した。カカシは最近とくに余裕がある。そこ知れぬ深い海が、彼の中に見えるようで、イルカはぎゅっと手を握り締めた。
―――とにかく、話さなくては。
「‥カカシさん。今日、火影様の所へ行ってきました」
「はい。知ってますよ。オレのことでしょ?」
「そうです。‥その後で病院にも寄って‥‥、神経科の医師に看てもらいました。足は‥もう心配はいりません」
「治ったってこと?」
色違いの双眸が、まっすぐイルカを見る。
「‥はい。明日には歩けるようになります」
「そう‥‥っ、良かった!」
カカシは破顔した。嬉しそうにイルカの手を握り、「オレも嬉しいです」と本心から喜んでくれるカカシに、イルカはほっと全身の力を抜いた。
――これならきっと大丈夫。
「‥それで、ですね。カカシさん。この家は、明日引き払うことになります」
イルカはさり気無く話を続けた。
「あなたは俺の介護から離れ、火影様より任務が与えられます。長く束縛していましたが、これからは里の為にお互い頑張りましょう」
「嫌だな。イルカ先生、なんだか他人行儀ですよ」
カカシがおかしそうに笑う。
イルカは自分の手を握るカカシの指を、そっと握った。
「‥今まで、ありがとうございました。カカシさん」
心からの言葉だった。
カカシはくすぐったそうに笑い、
「‥‥‥お礼を言うのはこっちの方なんですよ、イルカ先生」
握ったイルカの手を優しく撫でる。銀色の頭が少し俯き、長い前髪がカカシの目を隠した。やわらかそうな髪におもわず見とれていると、
「――なんだろうね、イルカ先生。オレ、どきどきしてます。あんた、いったい何を言おうとしてるわけ?」
「‥‥っ」
「言いたいこと、他にあるんでしょう? 構わないから言ってみなよ」
「‥‥‥‥」
言え、と言われ、イルカは身体を強張らせた。
思いもかけない反応に戸惑ったが、これを逃してはますます話せなくなりそうだ。
「‥‥カカシさん。昨日の‥話ですが‥‥」
張り付いた喉に、自分がどれだけ緊張しているか気づく。
手はカカシに握られたまま。冷や汗が滲む。動揺を知られてしまうだろうか。
「‥お互い、少し時間を置きましょう? あなたには、環境の変化が必要です」
「時間を置くってどういう意味です?」
曖昧なイルカの言葉に、カカシが顔を上げた。
「オレの頭が冷えるまで?」
「‥‥カカシさん‥‥」
「はっきり言えば。――昨日は適当に返事しましたって」
「‥‥‥っ」
カカシの瞳が冷たく揺れた。その視線に耐え切れず、イルカは顔を俯かせたが、
「顔を上げて、イルカ先生。あんたを困らせたいんじゃないんだ」
カカシの声が上向くことを要求する。唇を引き締めて顔を上げると、
「‥‥分かってる。あんたは生真面目だもんね。‥‥でも、イルカ先生。昨日も言ったけど、オレはふざけてない」
「‥カカシさん。でも、それは一時的な感情‥」
「やめてください。オレのことを何でも知ってるつもり? 違うよ、イルカ先生。あんたはまだオレのことを知らない」
ぴしゃりと言い切られ、イルカは口ごもったが、
「‥‥でも、それでいいんです」
カカシが握った手に、額を押し付けてくる。
「全部知ったら、あんたはきっと逃げちゃうから」
「‥カカシさん。聞いてください‥‥っ」
懺悔するように頭を垂れるカカシに、イルカは声を上げた。
―――駄目だ。はっきり言わなくては。
「‥‥俺は‥あなたの気持ちを受け入れることは‥‥」
「聞きたくないです」
「カカシさん‥‥」
「なんで今更そんなこと言い出すんですか。オレは本当にあんたが好きだ。錯覚でもないし、ふざけてもない。もうそんなもので説明つかないとこまで行ってるんですよ」
「‥‥‥‥‥」
再び顔を上げたカカシは、真摯な眼差しを向けてきた。
彼は――本気だ。
イルカはまざまざと思い知る。カカシは、本気で自分に想いをぶつけている。
(‥‥どうしよう‥‥‥っ)
理解すると同時に、イルカはぐらりと視界が揺れた。世界が回転したような気がした。それだけ、イルカにとって衝撃的なことだった。
これは、カウンセラーやそんな知識で対処できる分野ではない。カカシは一人の人間として、イルカに答えを求めている。半端な態度は許されない。否にしろ肯にしろ、はっきり答えを出さなくてはいけない。
だが――頭が、働かない。
今すぐ逃げ出してしまいたい衝動にかられ、イルカはぎゅっと瞼を閉じる。
皮肉なものだ。何人もの人間の心と向き合ってきたのに、イルカは自分の心には誰も入れなかった。他人の心の整理に立ち会う時、私情は邪魔になる。その都度抑えてきた癖が仇になった。だから、踏み込まれてもどう対処したらいいのか分からない。
イルカは必死に考えた。しかし、考えれば考えるほど混乱する。握られた掌が熱く、まだ自由に動かない足がまだるっこい。
――――とにかく、この窮地を脱したい。
イルカの頭には、もはやそれしか無かった。
「‥カカシさん‥、俺の役目は‥‥」
「やめてください。そんなことは聞いてない」
「それでも‥聞いてください。俺は‥、俺は火影様からの任務であなたに‥」
「任務!」
突然、カカシが大袈裟に大きな声を上げた。びっくりするイルカに、
「任務って? あんたがそれを言うの!? 任務に拘るなってオレに言ったあんたが!?‥‥ふざけるのも大概にしなさいよ」
激情を露にするカカシに、イルカは自分の失敗に気づいた。任務という言葉は、カカシの逆鱗に触れてしまったようだ。それはそうだ。――もはやイルカが言っても何の説得力もない。むしろカカシは、逃げを選ぼうとするイルカに怒りを感じたのだ。
「‥‥頼むからもう黙ってください。あんたと喧嘩なんてしたくない」
引き攣ったように固まるイルカに、カカシは大きく息を吐いた。その諭すような口調に、イルカは暗い羞恥心を味わう。これまでとは正反対。駄々をこねている自分は、まるで子供のようだ。
(‥嫌だ‥‥、もう考えたくない‥‥っ)
その思いがますますイルカの心を追い詰め、思考を頑なにしていった。
口が、勝手に動く。吐き出すように、イルカは言った。
「‥今回のことは、任務以外‥何ものでもありえません。俺の足はもう治ってるし、あなたは自分の生活に戻っていく。これは‥最初から決まっていたことなんです」
「‥‥‥‥‥‥」
カカシは何も答えなかった。
緊張した面持ちで反応を待つイルカに、
「痛い」
と、ふいにカカシが呟いた。
「え?」
おもわず聞き返したイルカの足元に、カカシはすとんとソファから下りた。そして、イルカの膝に額を押し当てる。
「酷いよ、イルカ先生。あんたは、ひどい」
「‥‥‥カカシさん‥」
搾り出すような声音に、イルカの胸は痛んだ。
俯いたカカシは、今どんな顔をしているだろう。こんな傷ついた声を聞きたくなかったから、カカシの告白を咄嗟に受け止めたのに。結果として更にカカシの心を翻弄することになってしまった。なんて――浅はかな自分。
ふさふさした髪が足をくすぐる。気落ちするカカシの肩に触れてもいいだろうか。
できれば許して欲しい。
カカシのことはけして嫌いではなく、この先もよい話し相手となればいいと‥‥‥。
「‥‥?」
イルカは伸ばしかけた手を止めた。
いまだ、半分も感覚の戻らぬ足に走る鳥肌。見れば、カカシの手がゆっくりとイルカの足を撫でていた。その壊れ物を触るような仕草に、イルカは息を飲む。
「‥足、治ったって本当ですか?」
問うカカシに、体が震えた。――なんて静かな声。
今までの激情など微塵も感じれない低い声に、イルカは言い知れぬ不安を抱いた。
ぴりぴりと肌に感じるのは、危険信号。
「本当に?」
再度尋ねてくる声に答えられない。
顔を上げたカカシの目は、深い闇を抱いていた。答えなくてはと、イルカは焦る。
「‥は‥い‥‥‥」
引っかかりながら、なんとか返答した。だが、カカシはふぅんと鼻を鳴らし、
「―――そ。‥じゃ、試してみましょうか」
獣は――再び牙を剥いた。
○ BACK ○ NEXT ○