□ 歩いていこう
最終話
少しずつ懐いてくれるカカシに、イルカは嬉しかった。
好かれれば誰だってそう思う。でも、そんな単純な話ではこの問題の答えは出ない。
わからない。
――なぜ、嬉しいだけでは駄目なんだ?
拘禁されるカカシへの面会時、予想以上の激しい拒絶にあった。
蒼白になった自分を、見張りの男たちが心配そうに見つめていた。その目が、たまらなく嫌だった。平気なふりをしたかったけれど、指先は勝手に震え続けていた。
カカシは怒ると恐い。
本気ではないと分かるけれど、きっとカカシが思っている以上に、周りの血の気は下がる。
イルカは何度もそんな場面を見て、ある程度度胸がついたようだったが、
―――”出て行け”
轟いた声が頭の中で繰り返される。
怒り以上に、カカシの拒絶が身に染みた。
(ひどいのは、カカシさんのほうだ)
もやもやした胸の黒いものが、憤りに乗じてそんな愚痴を生み出した。
だって自分は、任務だからカカシに付き合っていただけで、それ以上の事は対処できない。任務なら平気だ。怒られても殴られても。だが、普通の日常で彼とこれからも向き合っていくのかと考えると、お得意の先読みができない。それだけ、不透明な未来だ。
カカシが嫌いなわけではない。
最後の最後で失敗したけれど、彼は立ち直れば素晴らしい忍びになる。
木の葉の大切な戦力に。
それに貢献したいと思ったけれど、すべてを差し出すことは出来ない。
―――カカシの想いは強い。それをぶつけられると、裸になったような心細さを感じる。
カカシにとって、同性だとか中忍だとか、風貌だってきっとどうでもいいのだ。そんなものを飛び越えて、イルカという人間が欲しいと叫んでいた。
(‥‥俺は間違ってない)
イルカは心の内で呟き、
「俺は、間違っていない」
口に出して言ってみた。間違ってない。間違ってないはずだ。
でも、ずっと彼の言葉が耳に残っている。目を閉じれば、傷ついた色違いの双眸。
”あんたが、オレを生きてる人間にした”
たくさん彼と話したけれど、初めて声を聞いたような気がした。
昔の自分に戻りたいと叫ぶほど、彼の想いは強く―――今までの自分は、いったい何を聞いていたのかと考える。
彼の声が、耳から離れない。
足の状態はけして良くなかった。が、神経はかろうじて繋がっていた。
一思いにやらなかったカカシの心情を考えてみたが、やめた。この件に関しては、まだ冷静に考えることはできそうにない。
車椅子から解放されるはずだったが、さらに数週間、不自由を強いられることとなった。
回復するだけマシだと思うべきだが、車椅子の生活にイルカはほとほとうんざりしていた。
引き払うはずだった家に、再び一人で生活する羽目になったイルカに、火影が手伝いを寄越したが丁重に断った。一人で暮らせないわけではないし、
――しばらくは、誰かと一緒に暮らしたいとは思わない。
***
その後、変わらぬ日常が始まった。
五日間による拘禁の後、カカシが見張りつきで任務に復帰すると話を聞いたが、里の外の任務になると火影は言う。イルカの傍にはけして近寄らせないように暗部をつけると言い出したが、それは断った。カカシに元同僚を見張りとしてつけるなんて嫌だった。
それに直感だが、カカシは来ないだろうとなんとなく思っていた。
火影に理由を聞かれたが、自分にも分からないので答えられない。でも、あの人は多分来ない。そういうところがあったから。
(‥‥そういう所‥‥?)
イルカは自分の解釈に首を捻った。
カカシの性格を把握していたつもりで、まったくの見当違いだったというのに、なにを今更自信をもって言えるのか。カカシだって言っていた。なにも分かっていないと。
(‥でも来ない。‥‥‥あの人はきっと、後悔してるから‥)
不思議な感覚だった。
離れて、拒絶されてからの方がずっと、カカシのことを思える。
一緒にいた時は、そんなこと考えなかったのだろうか? いや、違う。彼の精神を安定させようと毎日カカシのことばかり考えていた。‥‥‥‥‥‥でも、その時と、今とは少し違う。
違う理由が分からない。
イルカは言葉にできない不安に、胸が痛くなった。
こんな時、一人の空間は辛い。
車椅子の生活でも、一人で問題なく過ごしていた。けれど、習慣とは恐ろしい。今までカカシの手を借りていた場面になると、つい彼の名を呼んでしまうのだ。
その後に生まれる沈黙は重く、その度にイルカは困った顔になる。
カカシが解放され、任務につき始めたと話を聞いて、来ないだろうと分かっているのに、心のどこかで待っているような自分にイルカは気づいていた。
認めないようにしていたけれど、自分は確かに寂しがっている。
――更生に導く側が、対象者に異存するなんて。
考えると、不安は大きくなった。
駄目だ。それは、カカシがもっとも嫌う見方だ。
(‥‥堂々巡り…)
イルカは大きなため息をこぼした。
明けても暮れても考えるのは銀髪の男のことばかり。
いっそ、彼のいない世界へ逃げてしまいたかった。
そんな脈絡のないことばかり考えていたある日、
「‥‥‥‥‥‥っ」
アカデミーの二階の廊下で、イルカは外の光景に目を奪われた。
校門の所で、上忍と話すカカシを見た。おもわず隠れてしまったが、こっそり盗み見をしてしまう。
任務に復帰したと聞いていたが、あの日以来彼を見るのは初めてだ。
相変わらずの猫背で、暑い日差しを避けるように木々の影に立っている。顔色などは遠目でよく見えないが、元気そうな姿に胸の中があたたかくなった。
その気の緩みは思いがけず涙まで溢れ出しそうになり、慌てて目頭を押さえる。
カカシは、上忍と一緒にそのまま立ち去ったが、一度だけ、ちらとこちらを見た。
「―――」
イルカの居場所が分かっているわけではないだろうが、アカデミーを振り返るその仕草にイルカは視線を逸らした。そして、わき上がる自分の衝動に驚く。
もっと近くへ行きたい。
話したい。
(‥‥俺は、矛盾ばっかりだ‥‥)
自分が今、駆け出したいのか。それとも逃げ出したいのか、イルカには分からなかった。
最終的には、いつも「わからない」ばかり。答えとは呼べない、劣等生の主張。
それとも、わざと分からないふりをしているのか。
「‥‥‥‥‥‥」
イルカは渋面した。
冷たい感触を伝える車椅子が、この時心の底から疎ましく思った。
追いかけるか、逃げるか。
どちらにしろ、車椅子に不自由を強いられるイルカにとって、すぐには行動に移せない選択だったから。
その日の帰りは、遠回りをした。
今まで意識的に避けていた道。カカシに置いてけぼりを食らった場所から、よく送り迎えをしてもらった通勤の道。回り道をして通った散歩道。
夕焼けが痛いほど眩しかった。
家に戻り、一人暮らし特有の静寂に迎えられると、真っ先に目につくのはソファ。
カカシがよく寝そべっていた。本を持ち込むので、引っかかって危ないと何度注意したか。
壁の絵の中には、カカシが持ち込んだものもある。食器も、衣服も、彼の分はまだ置いてある。
今まで見ないようにしていたけれど、今日はそれを探し回るように求めた。
―――寂しい。
イルカは胸の中の不安を認めた。
寂しいと思いたくないから、わざとそれらを無視していたのだ。本当は、ずっと寂しい。
カカシの思い出を詰めた道具たちが、無言でイルカに答えを迫っていた。
劣等生なりの答えを見出せと。
(‥‥‥カカシさん‥‥)
会いたい。その気持ちだけは本物。――――それは認めるけれど。
(‥‥俺は、本当は意気地なしなんです‥‥)
イルカは気づかされる。
人の背中は押すけれど、自分の背中を押されることはずっと拒否してきた。
押されずとも、自分で精一杯やってきていると自負していたし、実は一歩も成長していないなんて――どうして認められようか。
胸にわきあがるのは畏れか。
それとも?
カカシから受けた傷は、まだ車椅子にイルカを縛りつける。
だが、もうこの家にはいたくなかった。カカシの影を追ってしまいそうだから。
不自由でもいい。自分の家に帰りたい‥‥。
イルカは考えることを止め、
また、逃げ出した。
***
翌日、病院へ行ったイルカは医師から良い診断結果を受ける。
あと一週間もすれば松葉杖に変更するというのだ。
すぐには家には帰れないが、足が順調に治っていることに、塞ぎこんでいたイルカの心をは少し軽くなった。
(‥‥あと一週間)
複雑な心境ではあったが、歩けるようになることは嬉しい。
リハビリを開始するまで、無茶をしないように注意を受けた。イルカは頷き、医師に礼を言って立ち去ろうとしたが、
「そうだ。‥イルカさん、この報告書ですが‥‥」
呼び止められ、紙の束を差し出された。
「‥‥報告書‥‥?」
イルカは怪訝に思い、それを受け取ったが、
(‥‥これは‥‥)
すぐに、カカシの字だと分かった。
「治療に関して、必要な部分だけ参考とさせて頂きましたが、どう扱っていいものか困りまして‥。忍びの方の報告書ですし、当人も姿を見せませんので‥‥」
イルカは手の中の報告書を見詰める。
カカシも報告書を書いていたことに少し驚いた。きっと火影だ。自分に書かせていたようにカカシにも。
「‥‥お預かりします‥‥」
突き返す理由はない。イルカは報告書を預かった。
報告書は、本来ならば火影に提出すべきものだ。
それを承知していたが――、イルカは火影の家には行かなかった。
病院に行くために今日は休みを取っている。
近くの人気のない小さな公園に入り、イルカは木陰で車椅子を止めた。
今日も暑い。梅雨はすっかり明けて、紫陽花は鮮やかな色を失い、項垂れていた。
「‥‥‥‥‥‥」
滲む汗を拭い、イルカは手の中の報告書を見つめた。
預かった時から、火影に提出する気はさらさら無い。
――見てみたい。
共に暮らしていながら、自分はカカシについて何も分かっていなかった。彼の視点を覗いてみたい。そうすれば、少しは理解できるのではないか。
イルカはそっと報告書を開いた。
最初の文は、
”とくに変わり無し”
「‥‥‥‥‥‥」
イルカも呆れるほどの怠慢極まりない短文だった。しかも、そればかりが数日続いている。
複雑な顔で次のページを捲ると、少し文章が増えていた。
その日の食事や、体調について簡潔に。そして、次のページになるとまた文章量は増えた。それは後期になればなるほど。
カカシの真剣さが伝わってくる。が、これは報告書というよりは―――ただの日記だった。
夕食を一緒に作ったことや、散歩のことや、容態とはまったく関係のないカカシの走り書きまである。
”イルカ先生の心は―――難しい”
「‥‥‥‥こんなこと、書いて‥‥‥」
イルカは知らず呟いていた。
医師もこんな日記同然の報告書をもらって、内心ではさぞ困っていたことだろう。
こんなものは、正式な書類とは呼べない。呼べないけれど、
自分の報告書と―――なんと違うことか。
イルカが火影に提出したカカシに関する報告書は、マニュアルに則る、義務的かつ簡潔な文章を作成したというのに、カカシのそれはどの文面を見ても――彼の気持ちが溢れている。
(‥‥‥俺は‥‥‥)
イルカは、目の前の報告書に気づかされた。
自分がいかに、カカシを生徒か病人のように見ていたか。
真剣に向き合っていたつもりだけれど、一個人としてではない。
あの人の人間らしさを引き出そうとして、毎日小さな変化を書いてきたけれど、それに興味を持ったことなど一度もない。ただ見たことを、書いただけ。
「‥‥‥‥‥‥」
じわ、と滲んだ涙にイルカは驚いた。
カカシの文面に落ちる涙。
それは、嬉しい涙か、悲しい涙か。
どういうつもりで泣くのか。まさか、自分もカカシを好いていたと言うのか。
(‥‥‥それこそ、陳腐だ)
袖で顔を拭い、さらに込上げてくる涙を堪えた。
これは甘えの感情だ。切り捨てるべきだ。だが――答えは出てしまったような気がする。いくら否定しても。
イルカは自分でも気づかぬ内に、深い部分でカカシを受け入れていた。
「―――」
公園に子供たちの集団が入ってきた。慌てて報告書を隠し、イルカは車椅子を動かした。
こんな所でめそめそ泣いて、見知った人間に見られては困る。
鼻をすすりながら公園を出たイルカは、
(‥‥会いたい‥‥)
毎日考える男のことを想った。
カカシと話したい。今後こそちゃんと話し合いたいと思ったけれど、正直まだ躊躇う部分もある。会う直前に、また尻込みしてしまうかも知れない。
「‥‥‥‥あ‥‥?」
あてもなく車椅子を進めていると、ふと、向こうから歩いてくる老人に気づいた。
見たことがある、と思った瞬間、
「‥‥管理人さん‥‥っ」
イルカは声を上げて老人を呼び止めていた。
「‥? おや、イルカさん‥?」
老人が歩を止め、イルカを見ると笑顔を浮かべた。
「久しぶりだねえ。‥‥おや、足をどうかしたのかね?」
「あ、ちょっと‥‥‥。管理人さんこそお久しぶりで‥‥。あの‥、畑がずいぶん荒れているようですが、もう花を植えるのはやめたんですか?」
老人は、いつも四季に合わせた花を植える、あの畑の管理人だった。
「ああ、それがねえ。ちょっと腰を痛めてしまって、しばらく入院してたんだよ。‥これからもちょっと植えるのは無理だねえ。ごめんよ、イルカさん。紫陽花を楽しみにしていたのに」
「い、いえ。お体の方が大事ですから‥‥‥。でも、‥それ‥‥?」
イルカの視線は、老人が重そうに抱えている袋に集中する。
中身は肥料のようだが、腰を痛めているには重すぎる荷物だろう。
「それがね、あの畑を代わりに世話をしてくれる人が現れてくれてね。ありがたい話だよ。わたし自身、花を見るのは楽しみだったからね。でも、あの土地はなかなか手強いから初心者には難しいだろうと思って。肥料を届けるついでに様子を‥‥」
「‥‥代わりに‥‥世話、ですか?」
「そうなんだ。なんでも向日葵がどうしても見たいみたいでね。いい肥料を使ってるからなかなか育ってるよ」
―――向日葵。
「根気のいる作業だがとても頑張ってるんだ。イルカさんと同い年‥ぐらいかな? そうそう、同じ忍びだしね」
―――あの人だ。
イルカは直感的に思った。そして、忘れていた約束を思い出す。
向日葵が咲いたら、またここに。
そう言ったのは自分だというのに。
「その肥料‥‥俺が届けます‥っ」
「え? ‥や、しかし」
車椅子のイルカに遠慮する老人に、「大丈夫ですっ」半ば強引に肥料を受け取り、膝に乗せた。少し重いが問題はない。
唖然とする老人を残し、イルカは急いで車椅子を動かした。
目指すは、あの場所。
今、そこにいるかどうかなんて分からないけれど――今、行かねばならないような気がした。
もっと考えてから行動したほうがいいと理性が囁いていたけれど、
今はこの衝動に身を任せたい。
今の自分に必要なのは――きっとこんな衝動だったから。
***
あんたの言う[錯覚]は消えなかった。
――オレが正しかったよ、イルカ先生。
会いに行こうと思えばいくらでもできた。
火影がしっかり見張りをつけてきたが、撒こうと思えばいつでも可能だった。
だが、カカシは会いに行かなかった。
正しくは、行けなかった。
時間が経てば経つほど、強くなる想い。イルカは嘘つきだ。やはり錯覚などではない。
(‥‥いや、違うか)
イルカは自分の本気を感じ取った上で、あやふやにしようとしたのだ。
まっすぐに生きる人。その信条すら変えて、形振り構わず逃げを選んだイルカ。
それほどに、自分は拒まれたのだ。
逢いたい。けれど、もうそんな拒絶は見たくない。
でも――逢いたい。
混迷する思考。しかし、カカシは一筋の希望を見出した。
あの約束。
はたしてイルカは覚えているだろうか。ただのお愛想だったか?
覚えていて欲しい。
もうあの約束に縋るしか、イルカに会う理由はつけられないから。
(‥‥‥暑い‥‥‥)
じりじりと照りつける太陽が黒い服に吸収される。一番気温の高い時間帯だ。
汗はあまりかかない体質だが、だらだら流れる汗に頭からタオルを被っている。耐え切れず、ベストは脱いでしまった。泥だらけになるので手甲も外した。屈んで土を弄っていれば、ぱっと見はただの農夫に見える。笑いのネタにされるので、癖のある上忍仲間には見られたくない姿だ。
(‥‥オレってば、なにやってるのかね〜)
さくさくと土を掘り、雑草をひたすら抜く作業にカカシはため息をついた。
約束のために、向日葵を咲かせようとするなんて、恐ろしいほど涙ぐましい話だ。
園芸の経験は少ない。荒れた土地は手強く、暇を見てはここへ来て雑草処理や肥料やりに励んでいるが、時々日射病で倒れそうになる。常時ついている見張りも、園芸作業を始めるとどこかに退散する。この暑い中、くだらない草むしりなど見張っていられないのだろう。正しい判断だ。
花を咲かせる苦労を思い知らされたカカシだったが、努力の甲斐はあった。
向日葵は大きく背伸びをして、カカシの身長に届くほどとなった。後は大きな黄色い花が咲くのを待つだけ。ここまで育ってくれると、ある種の達成感があるが、もううんざりなのは確かだ。自分は、何かを育てるというのは向いていないらしい。
(‥‥‥‥オレ、本当にあの人と会いたいのかな)
想いが錯覚じゃないと分かったけれど、今の自分の姿に疑問がないわけではない。
ただ意地になっているだけではないか。
向日葵が咲いても、イルカが来るという保障はない。むしろ拒絶される可能性の方が高いのに、それだけ予想がついておきながら、汗まみれで園芸作業。
こんな所で土いじりなどしていていいのか。
会いたい。けれど、理由がなくては会えないなら――やめておいた方がいいのではないか。
「‥‥‥もう‥‥今日はやめやめ」
カカシは額の汗を拭い、立ち上がった。
暑さのせいで思考が定まらない。続きは、夕方の涼しい時間帯にしようと考え、放っていたベストを拾い上げると、
「―――‥‥え?」
カカシは突如、固まった。
一本道の向こうからやってくる車椅子の姿に、一瞬息が止まる。あれは――イルカ?
カカシは動けなかった。
でこぼこ道を通り、イルカが目の前にやってくるまで指先一つ動かせなかった。
夢にまで見たイルカがそこにいる。動いたら、消えてしまうんじゃないかと思った。なにより、こっちの心の準備が出来ていない。
気が動転するとはこの事だ。イルカが目前で止まる様子を、ただじっと見詰める。視線だけは外さなかった。喉の乾きを癒すように、貪るように見た。
イルカの瞳は相変わらずまっすぐで、今は少し呆気に取られているような目をしていた。
なにをそれほどぽかん、と見ているのかと思っていると、ふいにイルカが横を向き、小さくふきだした。
「‥‥カカシさん‥‥、なんて格好してるんですか」
漏らしたイルカの声に、カカシは自分の姿に気づく。
あちこち泥まみれで、頭にはタオル。泥まみれの手に、汗だくの顔。カカシは慌てタオルを外し、汗と手を拭った。その手が、少し震えていた。―――イルカの笑顔に。
たった一度の笑顔で、この人はオレのそういうくだらない考えを吹き飛ばしてくれる。
つかえていた胸がすーっと晴れた。
本当に会いたいのかなど、どうして一瞬でも自分の想いを疑ったのか。そんなもの決まっている。
――会いたい、ずっと会いたかった。
その笑顔を見たかったんだ。
大事なイルカ。好き。ずっと抱きしめたかった。もう一度。
(‥‥やめろ‥‥‥)
無意識に踏み出しかけた足を、カカシは止めた。
見てみろ。イルカの足を。車椅子に自由を縛られたイルカの姿を。
――――これらは、自分の強すぎた想いがやったことだ。
そして、
また同じことをしないと、カカシはまだ言えなかった。
「‥‥カカシさん‥‥?」
イルカが名を呼ぶ。
答えたいと思う意識に逆らい、カカシは後退りした。
そうして、
視界を遮るほど生い茂った向日葵畑の中へ――忌まわしい己の身を隠した。
遠目からでも分かる、老人の畑には立派な向日葵の葉が生い茂っていた。
老人には申し訳ないが、きっと、今までで一番見事な向日葵の花が咲くだろうと思った。
これを、本当にあの人が育てたのかと驚いていると、畑にかがんで作業をする人影が見えた。
最初はどこかの農夫かと思った。
が、タオルを被った頭が銀髪で、きらきら太陽に反射していることに気づき、イルカの胸は急に速度を早めた。まさかと思って近づくと、その人物が立ち上がる。
(‥‥カカシさん)
話は本当だった。
カカシはすぐに自分の姿を見つけ、そのまま固まったようだ。
こんな不意打ち、申し訳ないような気がしたが、ここまで来てしまった以上は今更帰れない。イルカもまた覚悟を決めて、カカシの前にやってきた。
食い入るように見つめるカカシ。頭からタオルを被って、手は泥まみれ。汗を流して、ずっと雑草処理をしていたのだろうか。いつもの彼からはとても想像できない姿だ。
なにを気負っていたのだろうか。
この人がこうだと、本当は分かっていたくせに。
空回りしていた自分と、泥に汚れたカカシの姿に、おもわず笑いが出た。
だが、
「‥‥カカシさん‥‥?」
カカシが後退りして、向日葵畑に姿を隠してしまった。
道に取り残されたイルカは呆然と、風に揺れる向日葵の葉を見つめる。
そうだ。自分はすっかり緊張が解けてしまったが忘れていた。カカシの中では、まだ整理はついていないのだ。
イルカは自分の足をそっと擦った。もう長く歩いていない――大事な体の一部。
「‥‥カカシさん、まだそこにいますね?」
生い茂る葉に向かって、イルカは静かに話しかけた。カカシの姿は見えないけれど、気配はまだそこにある。
「‥足は‥あと一週間ほどで松葉杖になります。ちゃんと歩けるようになりますので、どうか気にしないで‥‥‥ああ、違いますね。こんな話では‥‥‥」
イルカは思案顔で唇を噛み、
「本当は、怒ってます。足に関しては、許しません。ちゃんと謝ってください」
「――ごめんなさい」
「‥‥‥‥‥‥」
謝罪の言葉はすぐに聞こえた。それでも姿は見せないけれど。
「‥‥‥では、許します」
イルカは厳かに言った。次いで、
「‥じゃあ、次は俺のことを許してください」
返答はない。しかし、カカシが耳をそばだてているのは分かる。
イルカは静かに深呼吸を繰り返した。
「俺の浅はかさは‥‥言葉にすれば陳腐なほどいい訳が出てきます。多くは話しません。ただ‥‥あなたから逃げてばかりいたことを、どうか許してください‥‥」
「――許します」
即答だった。
イルカの言葉が言い終わると同時に。
イルカは思わず苦笑した。
「‥‥カカシさん。あなたが書いた報告書を、読みました。俺の心は難しいなんて書いてましたね」
「‥‥‥‥‥‥」
「でも仕方がないんです。当の俺にも自分の心を理解できない時があるんですから。‥‥あなたを受け入れることは、俺にはとても難しかった。どうか、それは分かってください」
「‥‥分かります。‥‥オレも、オレを理解できない時がある」
躊躇い気味にカカシが言った。イルカはその返答に目を細める。
「‥そうですね。‥‥あなたはけっこう危なっかしいですよ。常軌を逸したことも、決断すればやってのけてしまうし。時々人の話を聞かないし」
「‥‥‥‥‥」
「足を奪えば‥‥俺が逃げないと思いましたか?」
イルカはあくまで穏やかに、見えないカカシへ語りかけた。返答に困る質問なのか、カカシは何も答えない。だがイルカは、ここで引くつもりはなかった。
「‥‥でもね、カカシさん。車椅子のままじゃ、俺、あなたに駆け寄ることができないんです」
「――――」
「逃げることもできないけれど、駆け寄ることも出来ない。これでは、何も始められません。俺は、そのことに気づいてしまった。‥‥どんなことがあっても‥‥、最後には結局、あなたに会いたいと思う自分に」
言って、イルカは両手に力を入れた。
車椅子から腰を離し、地面につかせた足に必死に力を入れる。感覚は、ほとんど伝わってこない。けれど、ぐらぐらと頼りない足で、イルカは車椅子から立ち上がった。
「‥カカシさん。出てきて下さい」
見えないカカシに呼びかける。ずっと返答はないけれど、そこにいるはず。
「‥‥‥カカシさん‥‥」
約束のために生い茂った向日葵が、カカシを隠す。不安に、イルカは瞼が熱くなった。思い出したくない孤独が蘇る。
このままカカシは消えてしまうかも知れない。
行かせたくない。話さなければ。――唇が、震える声を押し出した。
「‥‥カカシさん‥‥どうか‥‥‥」
手が震える。緊張に息も苦しい。
こんな弱い自分は、できれば曝け出したくなかった。これほど自分の感情を吐露するのは久しい。
剥き出しになった気分に、イルカは今にも倒れそうになるが、
「‥‥‥っ」
倒れる前に、強い腕がイルカの身体を抱きしめた。
強く、内に閉じ込めるように。
「‥‥‥カカシさん‥っ」
触れた体温に、涙がこぼれた。
回された強い腕。カカシの手。
やっと帰ってきたような、言葉にできない安堵感がイルカを包み込む。
間近の瞳を覗きこみ、イルカは泣き笑いを浮かべた。
「‥‥たくさん遠回りしてごめんなさい。‥俺も、あなたが好きです」
「‥‥‥イルカ先生‥‥っ」
カカシの右目が見開いた。
性急に唇を押し付けられたが、イルカは拒まなかった。合わさった途端に絡み合う熱に、背を震わせて受け入れる。
好きだと伝えたことで、胸に詰まっていたものがすうっと消えてしまった。
高揚した心が熱い。探していた答えはこれだったんだと、
イルカは心の底から安堵した。
カカシが欲しがっていた言葉。それは、渦巻いていたあらゆる感情を束ねる、すべてに通じる答えだった。ずっと自分の内にあったのに、外に出すのにどれだけの時間がかかったか。
「本当にオレが好きですか? 義務でもなく?」
疑心を露に心配そうにカカシが訊ねた。
「はい」
「オレ、イルカ先生に怪我させたよ? オレはおかしいから、また怪我をさせるかも知れない。それでも?」
「はい」
イルカは小さく笑い、カカシの背に手を回した。
すべてを晒してカカシの想いを受け止めた。少し前までは、それは絶対してはいけないことだと思い込んでいたのに、今となってはどうしてそこまで意固地になっていたのか不思議な気分さえする。
―――何かもかもどうでもよくなる。
いささか短絡的だが、恋とはそういうものなのかも知れない。
でもそれでいい。
カカシの腕の中が、どの場所よりも安心できることは、
変えようのない事実だから。
イルカが笑っている。この腕の中で。
そんな光景は、この先絶対に見れないと思っていたのに。
(‥‥オレのことを好きって言った‥‥‥)
半ば無理矢理言わせたような感じだが、自分が言いたかったからだとイルカは言ってくれた。
愛しい。イルカが指摘したとおり、時に盲目になるほど自分はイルカを溺愛している。
しっかり抱きとめていないと倒れてしまう体。まだ治ってないのに無理をして、イルカはまた大切なことを教えてくれた。
もう二度とこの人を傷つけないし、自由を奪ったりしない。
愛する人に、謝罪の言葉と、そして感謝の言葉を。
―――オレを選んでくれて、ありがとう。
「‥‥カカシさん。忘れてました」
炎天下でイルカを思う存分抱擁するカカシは、低い呟きに「ん?」と首を傾げた。
「管理人さんから肥料を預かってたんですが、実は、畑の手前の方で落としちゃって。しかもそのままなんです」
カカシの姿が見えた途端、肥料のことなどどこかに消え去ったのだ。
「じゃあオレが取ってきますね」
カカシは笑い、イルカを車椅子へ戻そうとしたが、
「待ってください。俺も行きます。手を貸してください」
「え?」
がっちりと腕をつかまれ、カカシは焦った。
「でもイルカ先生。リハビリは一週間後って‥‥‥」
「今から始めます」
「でも‥‥」
「つべこべ言わずに肩を貸しなさい」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥でも」
静かなイルカの気迫に押され気味になったが、歩けなくなった原因を作った張本人として、ここは譲るわけにはいかないとカカシは踏ん張った。
力技で車椅子に戻そうかと考えていると、腕を掴んでいたイルカの手が、掌に合わさった。絡み合う指が、あたたかい。まっすぐな瞳は、いつにもまして澄んでいた。
「‥‥あなたと、歩いていこうと決めたんです」
なんて尊い言葉。
あれだけ迷って、怖がっていたのに、この人はなんて優しい眼差しをするのか。
「‥‥‥はい」
この人に見合うだけの人間になろう。
カカシはイルカの身体を支え、共に一歩踏み出した。
眩しい空の光。
向日葵の揺れる道。
花が咲いたら、この一本道に訪れよう。
二人は密やかに語り合った。
歩き出した道は同じ。
手を繋ぎ、時が許す限り、縁の限り。
歩いていこう。
囁くと――花のような笑みがこぼれた。
END
40000キリリク、以上で終了とさせて頂きます。
観察日記‥‥‥。もっとほのぼのした、下忍ズも絡んだものを考えていたのですが、なぜだかこんなシンプルに‥‥‥。力量不足で申し訳ないです。
下忍たち。‥‥そういえば、私オリキャラばかりで全然出してませんね‥‥‥。
子供たちについては、いずれまたリベンジしたいと思いますっ。
モミさん、リクエストありがとうございました!気に入って頂けたら嬉しいです〜‥‥‥。
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