■ ある男
三日ぶりに任務から帰ってきたカカシを、イルカは自宅で迎えた。
「ただいま帰りました」
「はい、お疲れ様でした」
少し疲れた笑顔のカカシに風呂を勧める。脱衣所に置かれた泥のついた服を回収し、替わりの服を用意する。次いで、急いで食事の準備に取りかかった。
里内の勤務が多いイルカは、日頃から家事全般を担っている。カカシとともに暮らしているわけではないが、里にいる間、彼が身体を休める場所はイルカの家だけなので同棲と言えないこともない。
カカシの世話をやくのは楽しかった。
出会って二年。もう長く、彼との関係は続いている。
里一番の技師で、子供たちの担任。しかも男で。
紆余曲折。いろんなことがあったが、収まるとこに収まった感じだ。
胡散臭いが根は優しいカカシを、イルカはとっくに受け入れていた。
「美味しそうな匂いですね」
「カカシさん、髪の毛」
濡れたままの髪を指摘すると、はいはいと大人しくひっこむ。
居間にどっかり座って髪を適当に乾かすカカシに、イルカは笑いを抑えた。
「もうすぐできますから、ちょっと待っててくださいね」
「は〜い、よろしく。――あ、そういえば土産が」
「え、なんですか」
料理を運びながら、イルカはびっくりしたように訊ねた。
差し出された長方形の箱に、おもわず口をつぐむ。
「食後のお楽しみに」
指で杯を作り、カカシが呷る仕草を見せた。どうやら中身は酒らしい。だが、
(‥三日ぐらいの外出で土産なんて)
何より”任務”に出て何かを買ってくるなんて今まで一度もなかった。
それだけ任務に集中しているのだと解釈していたが、どういう風の吹き回しか。
「うわぁ、六色白蜜だ‥‥っ。甘くて美味しいお酒ですね」
「そお。オレでも飲める絶品です」
「‥いったいどうしたんです? なにかいいことでも」
高い酒だ。値段のことを言うのは野暮だが、カカシの機嫌の良さが気になった。
「ん? 分かっちゃう?」
カカシはにこりと笑い、少し目を伏せた。
「ご飯前にあれだけど――実は、殺したい奴が見つかりそうなんですよ」
「‥殺す‥?」
ずいぶん物騒な話だ。
イルカは眉を顰めたが、当のカカシは他愛無い話のように続ける。
「昔ね、オレが暗部にいたのは知ってるでしょ。そこで、すんごい好きだった女がある男に殺されたんです。なんか、腹にオレの子がいたかも知れないとか噂もあって」
「‥‥‥‥‥」
「オレ、なにもできなくて。でも、生きている内に必ず殺した相手を見つけて、仇は討つと決めたんです。犯人の手がかりは皆無に近かったけど、最近過去につながりがあった情報屋がまだ生きているって話があって。影に生きた工作員だから、足取りを掴むのが大変なんですよ。ま、オレの粘り勝ちになりそうですが‥‥、イルカ先生?」
「‥あ‥はいっ」
「大丈夫? 顔真っ青」
「‥‥いえ」
イルカは顔を伏せ、唇を噛んだ。
「‥すみません。そんな話‥初めて聞いたので‥」
「気にした? ごめんなさい。いや、女っつっても過去のことで‥‥あの、うん、ちょっといきなりすぎましたね」
もう一度ぺこりと頭を下げ、「イルカ先生のご飯、食べさせてください」カカシが台所に立つ。持てる限りの皿を運ぼうとするカカシに、イルカはやっと強張らせた口元を和らげた。
「――はい。たくさん食べて下さいね」
甘露、甘露と、カカシが酒を口に運ぶ。
甘いものが苦手なのに、この酒だけは本当に別らしい。
なんとなく想像できたが、我慢できずに訊いてみた。すると、
「あの女が、一番好きだった酒なんですよ」
そうですか。
イルカは笑顔を浮かべて相槌を打った。
そそがれた酒を口の中に含むと、ふわりと花の香りが広がる。
甘く、しつこくない液体が幻のように喉を過ぎると、ぽうっと体があったかくなった。
「‥カカシ先生」
名を呼ぶと、ごろりと横になったカカシが、ん? と振り仰いだ。
眠そうな目。考えていることがよめない人だが、それでも付き合い始めてからは互いに通じるところはあった。
けれど、それも幻だったか。
「‥‥‥どうして、俺を選んだんですか」
何度目かの問いだ。
訊ねるとカカシは決まって「あんたに心底惚れてるから」など、半分茶化した愛の言葉を口にする。その度にくすぐったくて――密かに幸せを噛みしめていたが、
「あんたが、オレの女を殺した男だからですよ」
カカシの答えに、イルカの感覚は急激に冷えていった。
ぎゅっと締められた心臓が、一瞬鼓動すら忘れる。
ああ、やはり――ばれていた。
イルカは視線を逸らし、思考をめぐらせる。
(いつ? いつから? 俺に接近する前から知ってた? 何も変わったところがないから油断してた。証拠をつかむまで、自分の近くに置いておきたかったのか。いや、殺すだけならいつでもできる)
カカシの怒りは本物だった。
寝そべったまま酒を口に運ぶカカシになんら変化はないが、イルカは知っていた。
女が死んだ時の、彼の鬼神の形相を。
いい訳ならいくらでもできる。木の葉の裏工作員として生きるからには、様々な犠牲がつきまとう。若き頃のイルカは、暗部もやらないもっとケチで卑劣な任務をいくらでもした。どう足掻いても中忍の能力で、生きるためにはそれしかなかった。踏んできた足元なんていちいち振り返られるものか。――十代の頃ならなおさら。周りを見る余裕なんかない。
死ぬわけにはいかなかった。
死にたくなかった。
無我夢中で生きてきた。
だが―――ある時すべてを放り投げて、逃げだした。
様々な柱によって成り立つ計画に穴が開き、その後での惨事をイルカは後から聞いた。
一般人にも死人が出て――イルカはその罪を負った。
今、陽の下で生きられるのは火影の口添えがあったからだ。
(‥やはり危険すぎた。この男に自分から近付くなんて)
イルカはため息をついて、杯を置いた。
「‥‥‥それで、今やりますか」
「ん?」
「殺すんでしょう。――でも、よければ、身の回りのかたづけを終わらせてからにしてもらえませんか」
「んー」
もそもそと上体を起こし、カカシがイルカの上にのしかかってくる。
間近から覗き込む瞳は、眠そうにイルカを見つめ、
「ねえ、イルカ先生。あんたはいつから知ってたんですか。最初から?」
「‥‥‥」
「そお。最初から。――対するオレは、半年前に気づきました。まさかと思ったけど、例の情報屋、もうとっ捕まえて吐かせたんですよ。あんたの名前も出ました。火影様は徹底してあんたを守ったようですね。‥‥ねえ、イルカ先生。出会って、二年。あんたはオレに真実を隠したままでした。分かってます? 一年半――オレはうっかり心底あんたを愛しちゃったんですよ」
「‥‥‥どうしろと」
「ひとまずね、今から一年半だけ生かしてあげます。あんたにあげた愛情期間をやり直し」
「‥‥つ‥ッ」
髪をつかまれ、イルカは首をそらした。
「お互い、憎悪だけで十分でしょう」
「‥俗物的ですね‥‥‥」
上着の裾から入る手に、イルカは低くうなった。カカシは薄ら笑いを浮かべ、
「そりゃあんたの方だ。いいから脚開きなよ」
笑っている二人を見た。
陰に潜んで、イルカはそれを眺めた。
男は暗部で、なんどか任務で行動を共にした。互いに顔を見せることはない。向こうは自分を知らないが、イルカはよく知っている。
どこか寂しげな、色違いの瞳の男。
――どうして笑っているのだろうか。
自分と同じ影に生きるものなのに、どうしてあんなに幸せそうに笑っているんだ。
隣にいた女が、黒い手にやさしく触れた。
羨ましい。
思った瞬間、
イルカの中で何かが切れた。
真っ白の世界で、
イルカはすべてから逃げ出した。
「‥一年半なんて、無意味な時間です。身の回りの片付けは三日もあれば終わります」
「黙んなさいよ。まだ薬打たれたいの」
体が気だるい。
打たれた注射の中身は分からないが、イルカが逃げないための処方だと淡々と言った。
獣のような扱いを受けたが、慣れた体は熱くなる。
皮肉な話だと、イルカはぼんやり考えた。
喉はからからに乾いていたが、まだ甘い香りが残っていた。
瞼を閉じて、思う。
多分自分は――彼女が死ぬかもしれないと分かって、逃げたのだと。
あの時羨んだのは、カカシの隣にいられる彼女の方だった。
カカシに告白されて、
本当は嬉しかった。
「もうダウン?」
触れるカカシの指を感じたが、意識は底へ沈んだ。
○ TOP ○ next ○