□ 痕








 
 ぽたぽたと前髪から雫が落ちる。
 カカシは嫌そうに服をつまみ、ため息をついた。濡れた服が気持ち悪い。
 雫を床に落とし、通ってきた道が濡れるのを構わずにそのまま上忍室へ入ると、
「あ? どうした、カカシ」
 煙草をふかす先客がいた。
 アスマは呆れた顔をして、全身ずぶ濡れのカカシを見上げる。
「ガキたちの悪戯に巻きこまれた」
「‥‥はっ」
 聞いたアスマは堪えきれず、盛大に吹きだした。
「お前って‥妙なところでトロいな。この間も黒板消しを頭に落されたってぼやいてなかったか?」
 よけいな事を覚えているものだ。
 カカシは嘆息した。
「殺意が無いし、簡単すぎて気づかないんだよ」
「そりゃ、お前。平和ボケってやつだ」
「はいはい、分かってるよ。――替えの服、ここにもあったよね?」
 アスマの指摘を無視して、カカシは奥の道具棚を見た。
 中を探ると、目的の服が見つかる。サイズが合いそうな服を掴み、カカシはベストを外した。
 肌に張りつく上着を勢いよく脱ぐと、
「‥おいおい、なんだそりゃ」
 アスマが呆れた声をかけてきた。
 視線が、カカシの剥き出しの背中を見詰めている。
「は?」
 相手が何を言っているのか分からず、カカシは手近の鏡に背中を映した。
 するとそこには、何筋もの爪痕がくっきりと現れる。
 肩から背の中央にかけて、肉すら抉ろうとするほど痕は深く、そればかりか噛み痕まであちこちにあった。
「‥ああ、どうりで痒いと思った」
 最近、服を着るときの体の違和感はこれだったのかとカカシは納得したが、アスマはその反応にますます呆れた。 
「お前、いったいどんな激しい女とつきあってんだ」
 痛々しいほどの情痕は、いっそ敵意すら感じた。
 当然の好奇心だったが、カカシは新しい服を着込みながら、
「――女じゃないよ。イルカ先生だよ」
 事も無げに言った。
 濡れた服はそのままゴミ箱に放り込み、ベストだけは元のものを着用した。
 ぱさぱさと頭を振って水気を落とし、カカシはゆっくりと上忍室を出る。
 アスマは、結局何も言わなかった。





  

 そう。そういえば。あの人はよく噛みつく。
 痛みをそれほど意識しない質なので深く考えなかったが、これはきっとイルカなりの仕返しだ。
 
 カカシは、イルカに伽の役をさせていた。
 最初のきっかけは、野外任務。
 一人で過ごすのはなんだか嫌な日だった。
 しかし高揚した気分を抱えた体は、他人に優しくできそうにない。だから、下の人間を使うことにした。
 たまたま一緒に同行していたイルカの姿に、少し躊躇うものはあったが、見知った人間がいいと思った。
 それほど親しい人間ではないが、生徒の受け渡しに何度か話をして、好印象を持った。すれてない所もいい。
 上忍の命令としてイルカは承諾したが、全身で嫌がっているのは分かった。
 彼の自尊心を傷つけていることは分かったが、でも、これも仕事の一部じゃない?

 最初は、女に変化させた。男を好んで抱く趣味はない。
 具合は良かった。なにより、涙に濡れたイルカの瞳が気に入り、
 だから、その後も彼を利用した。
 しかし、里へ戻ってからは、女の真似事はやめさせたが、
 意外なことにイルカは反発した。
「女の俺を抱けばいいでしょう‥‥!」
 イルカの叫びの意味は分かった。
 上忍の命令だから、仕方なく抱かれている。そして、女に変化した自分は、本当の自分じゃない。
 そう思い込もうとして――少しでも心の痛みを減らそうとしていたのだ。 
 カカシにもそれは分かった。
 男としての自尊心をすでにズタズタにされているイルカに同情すら抱いたが、
 同時に、本当のイルカの体を抱きたいという欲望は強まった。

 女の姿の時よりもずっと、カカシはイルカに興奮を抱いた。
 瞳は同じだけれど、でも少し違う。
 これが本当のイルカ。濡れた瞳が、なんて澄んだ。

 それからも、何度もイルカを抱いたが―――イルカはいつも痛がった。
 しかし、優しくすると怒るのだ。
 愛撫を施せば、泣いて嫌がる。痛みだけを感じていたいと言う。
 それは、
 オレ自身が痛みだと、言葉なく責めたてる。


 今更だと分かっていたが、
 
「人間としての付き合いをしませんか」

 忍びでもなく、獣でもなく、仕方なくでもなく、自分と本心から関わって欲しい。
 心を通わすことなく、立場を使って無体を強いたのは自分。
 駄目だろうとは分かってはいたが、言わずにはいられなかった。

 イルカは静かに言った。
「できません。俺は、あなたのように考えることはできない」
 まっすぐ見詰め返す、理性的な眼差し。
 イルカの返答は最初から予測していたけれど、だからといって手放す気もなかった。
 それならそれで、仕方がない。

 イルカの唇がオレの腕を噛み、歯を立てる。背に爪を立て、肉を抉る。
 痛いと思ったことはない。それよりも、なんて甘美なことか。
 イルカの精一杯の拒絶でも、
 この人が、唯一オレにくれるものだ。

 ある意味、キスマークより濃厚だろう?







 
 しかし、別れは突然にやってきた。
 イルカが、遠方の任務から帰らない。
 
 悪い報告は続くもので、現地に派遣した救援隊が、イルカが属する隊の全滅を確認した。
 現地での敵忍による爆発で、次々と確認される忍びたちの遺体。しかし、中では体の破片すら残さず死んだ忍びもいる。
 イルカの遺体は――まだ発見されていない。

 報告所は重い空気に包まれていた。
 子どもたちの落ち込みようも激しかったが、カカシは意味のない慰めの言葉は吐かなかった。
 休みを与え、部下たちを家に帰したカカシに、
「お前は大丈夫なのか?」
 アスマが気を使った。
 自身を案じられているとはすぐに気づかず、おもわず「なんで?」と声が出ると、たちまちアスマは苦渋の色を出した。
「なんでって‥‥‥」
 平然としているカカシが信じられないと、声には批難がこもった。
「お前‥‥、そういう意味で、あいつと一緒にいたんじゃねえのか?」
 あいつとは、イルカを指している。
 そういう意味?
 カカシは首をかしげ、考えた。
 この男はどうやら、不粋な、愛とやらの言葉を言わせるつもりらしい。
 そうだね。否定はしない。
 おそらくそれに近い感情だったけれど、
「さあ。――よく分からない」
 それが本音。

(‥‥あの人、死んじゃったかな)
 
 落ち着いているんじゃない。
 ただ、感じない。
 カカシは痛みを求めて、肩に手を回し、背の爪痕に爪を立てた。
 鈍く走る引き攣るような痛みに、ほっと息が出る。
 安心する。さらに求めて引っかいた。
 自分でも、何をしているのか分からない。

(どうしちゃったの、オレ?)



  
 その後、とうとうイルカの生存は確認されず、二十日後、正式に殉職者として報告された。
 遺体も残らない爆発。見つかったのはイルカの荷物やクナイだけ。
 彼は、本当に死んでしまったのだ。

 里内では死んだ忍びたちの合同葬式が行われ、しばらくの間は悲しみに包まれた。
 しかし、流れる時は痛みを和らげ、里の活気も次第に元通りになっていく。 
 カカシは、その後も変わらない生活をしている。
 子どもたちもようやく立ち直ったようだが、時折憂いに満ちた横顔を見せる。
 イルカの存在を忘れてしまうことを恐れるように、毎日慰霊碑に足を運んでいるようだが、カカシは何も言わなかった。
 イルカを忘れられないのはカカシも同じ事だった。

 背の爪痕を求め、その肉をえぐることが習慣づいた。
 直りかけた肉はすぐに血を溢れ出し、時々服に染み込むこともある。
 気づいたアスマが何か言いかけたようだが、結局何も言わなかった。
 言われても、やめることはできない。
 だって、
 この傷が完治してしまったら―――イルカは本当にいなくなってしまう。
 イルカの残したものは、これしかないのに。


(‥‥もっと、いいもん貰いたかった)


 痛みだけを感じる。
 以前、自分がイルカに与え続けていた痛み。
 冷たく、孤独で、自暴自棄な、我ながら最悪だ。
 しかし、それがオレだった。

 途中でそのことに気付いたけれど、あの人は優しさを拒絶した。
 変わるなと。
 最後までけだものであれと。
 彼には、自分と心を通わせる気持ちなどまったくなかったのだ。
 仕方がない。
 嫌いな言葉だが――仕方がない。

 ―――もう一度会いたい。

 彼の行った黄泉へ、後を追うことはできるだろうか。
 せめて土下座の一つでもしなければ。
 土下座して、謝って、そして、共にいることを許してもらおう。
 それでもやっぱり、イルカがいいんだ。

 さて、どうやって死のうか。








 あれこれと考えていたその日の朝。

 カカシの元へ新聞が届いた。
 玄関の方で、カタン、と音を立てて落ちる新聞。
 いつもなら溜めっぱなしにしておくが、限界に来ていた郵便ボックスからばらばらと落ちた。
 やれやれと面倒くさげに立ち上がり、この先読むことのない新聞を集め出すと、
 その中に、一通の手紙を見つけた。
 筆跡に、目を疑った。
 急いで手にとって裏返すと、送り主の名に息を飲む。

”イルカ”

 消印が薄くて読み取れない。いつ書いたのだろう。どこからどれだけの時間をかけて来たのだろう。
 カカシは急かされるように封筒を破り、中身を取り出した。

[迎えにきてください]

 便箋には、その一言だけが書いてあった。

 その後の記憶はあまり覚えていない。
 外出手続きもせず、カカシは予定の任務も何もかも放り投げて里を飛び出していた。








 爆発が確認された現場から、山二つほど離れた小さな村にあの人はいた。
 古ぼけた家の寝台。
 やつれた顔で、しかし黒い瞳に理性的な光を浮かべるイルカを見たカカシは、おもわずその体を抱きしめた。
 腕の中で確かな体温を感じると、なんだか悔しくなってその首筋に噛み付いた。
「痛い」
 と文句を言われたが、いっそう腕の力を強めて抱きしめる。
 馬鹿みたいに手が震えた。
 イルカは痛そうにもがいていたが、拘束する手に好きなようにさせていた。


 記憶が曖昧だったのだと、その後イルカは説明した。

 最近まで起き上がることも出来ず、あやふやな記憶を整理するのに時間がかかった。
 村の人たちはみんな親切で、傷も順調に治っている。
 淡々と話すイルカに、ようやく落ちついたカカシは「?」と密かに首を捻った。
 何故だろうか。
 イルカの態度が、以前と少し違う。
 恐れることなく真っ直ぐ見返す瞳は前の通りだが、カカシの腕の中でこれほど大人しくしているイルカは初めてだ。
 すぐにつれて帰りたくて、まだ無茶はできないけど背負っていきたいと言ったら、イルカは頷いた。
 眼差しの穏やかさに、胸の動悸が激しくなった。
 大人しく身を任せてくれるイルカに、どうしようもなく愛しさが込上げてくる。
 
 村の主に断りと礼を入れ、カカシはイルカの体を背負った。
 軽くなった体。早く木の葉の里へ連れて帰りたい。
 行きは一人だったので二日で到着できたが、最低四日間、二人きりだという事実も嬉しかった。
 イルカはとても静かで、カカシの背で大人しくしている。
 少ない口数に、気まずさから少し救われていたカカシだったが、声を聞きたい気持ちもあった。
 そんなもやもやした葛藤を抱えていると、

「‥‥一番最初に思い出したのは、あなたでした」
 
 イルカはふいに呟いた。
 蘇った記憶の、一番最初が自分だったという言葉に、カカシは率直に嬉しさを抱いたが、
 憎らしさのあまり強烈に印象に残ったんでしょうね、と苦渋気味に言われ、緊張を抱く。
 イルカは、何を言おうとしているのか。

「俺、わりきりました」

 カカシの懸念をよそに、イルカはやけにさっぱりした声で言った。

「俺も、あなたを利用します」

 手始めは――便利な足代わり。



 カカシはそれを聞いて嬉しかった。掛け値なしに。
 確かに、内心ではイルカの甘い言葉を期待していた部分はあったが、あれだけ好き放題やっておいて、そうそう上手くいくはずがない。
 ただ、この人がオレを頼った。
 オレならば、迷惑をかけてもいいと思ったということだ。
 それはすでに、[痛み]から[人間]へと昇格したってことじゃないか?
 それはいい、とカカシは声を弾ませて言った。

「あんたなら、オレに何をしてもいいですよ」

 本当の気持ちだ。
 この人ならば、オレは何をされてもいい。
 殺されたって、実はかまわないと思っている。
 カカシは自分の盲目具合に自己陶酔しかけたが、
「いたた」
 イルカの指が、カカシの耳をちぎらんばかりに引っ張った。
「‥あなたはいちいち極端すぎるんですよ」
 ごもっともな意見だ。
 カカシが閉口すると、イルカはぐったりと脱力した。

 ――――危なっかしくて、だから置いていけなかった。

 疲れきったイルカの呟き。
 耳の横を過ぎる風で消されてしまいそうだったけれど、確かに聞こえた。
「イルカ先生、なんて言ったの。もう一度言って?」
 カカシはもう一度聞きたかったけれど、イルカは背中で眠ってしまった。






 じんわり伝わってくる体温があたたかい。
 帰ってきた命。
 温もりに刺激を受けて、急にじくじくと背中の爪痕が痛んだけれど、もう痛みはいらない。

 もっといいもん貰うし――差し出すから。

 ねえ、イルカ先生。この期に及んでなんですが、
 利用というのは、それほど悪い言葉じゃないと思いますよ。
 その人が、自分を必要としてくれている証拠だから。

 イルカと話したい。
 そして、その時間は、きっとこれからたくさん与えられるはず。
 そう願おう。









END






□ NOVELTOP □
2003.05.25

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