□ 僕を呼ぶ声 1
暗部の部隊長による会合に、カカシは遅れて到着した。
やっと現れた最後の報告者に全員の視線は集中し、「遅いぞ」と一人が声をかけると、
「悪い」
カカシは軽く手を上げた。が、一同の視線は斜め下に注がれた。
カカシの小脇に抱えられている――犬に。
「あ、これ?」
視線を集めていることに気づき、カカシはぐったりしている犬の顔を上向かせる。
「拾ったんだ。飼おうと思って」
「‥拾ったって‥お前‥‥今は報告会だぞ。そんな犬っころ連れてきて‥。大体、忍犬じゃないか。正式な契約はしたのか?」
気絶している犬は、頭に木の葉の額宛をしていた。時々びくびくっと体が蠢き、いい夢を見ているようには思えない。
はたけカカシ。この間暗部に入ってきたこの少年は、十五そこらで大人も顔負けの実力者だったが、掴み所がなく、他人を馬鹿にするような態度は仲間内ではすこぶる評判が悪かった。
すでに部隊長を預かるカカシに、面倒見のいい大人たちは少年との間につまらない諍いを作らないよう気を使ってきたが、
「これだからガキは‥」
どこからかうんざりした声がもれた。窘めていた男はひやりとしたが、カカシはとくに気にしていないようだ。被っていた犬の面をずらし、
「あ〜‥本当は捕まえたんだ」
ぺ、と舌を出した。
「でも、あんな初歩的な罠にあっさりかかるような弱い忍犬。誰かが世話してやらないと死んじゃうよ。オレが鍛え直す」
「‥お前の任務になんか連れて行ったらすぐに死ぬぞ」
「んー‥」
小脇の犬を見下ろし、カカシは少し考えていたが、
「まあ、その時はその時」
ぽんぽんと犬の頭を叩き、笑った。
知らぬ内に勝手に運命を決められた犬は、クゥ、と喉を絞られるような声でうめく。
こげ茶色のどこにでもいそうな犬だったが、
その鼻筋を、真横に横切る傷だけは珍しかった。
体の節々が痛んだ。まるで筋肉痛のように。
(‥うう‥なんなんだ‥?)
頭が痛い。イルカは次第にはっきりしていく意識の中、自分の体の異変に気づき始めた。
それに伝わってくるこの振動。まるでどこかに運ばれているように。
(お腹も痛い‥)
腹の辺りを抱えられているのが分かる。誰かの腕の感触に、やっと固く閉じていた瞼が開いた。
まず目に入ったのは暗闇。差し込む月明かりに目が慣れ、そこが森だと分かる。てっぺんが見えないほど巨大な樹木は、ここが深い場所だと教えてくれるが――問題は、
(‥‥な、なんで俺‥‥こんな所に‥‥?)
イルカがいたのは下忍が使用する演習場で、こんな大きな木は存在しない。
それに、ぴんと張り詰めた空気が含むものは――血の匂いだ。
イルカは寝惚けた頭を叱咤した。必死に記憶を遡り、役立たずな頭を叩こうと手を上げたが、
(‥‥え‥‥?)
視界に現れた毛むくじゃらの丸い手に、イルカは絶句した。
ぷるぷると手を振ると、その毛むくじゃらの手もぷるぷる振れる。
これは、自分の手だ。しかし、どうして毛むくじゃらなのか。これではまるで動物。まるで‥、
(犬‥‥!!!)
悲鳴は犬の声で出た。
ギャウンっと鳴く声が森に響き、叫んだイルカもびっくりする。まぎれもなく犬の声!
「あ、起きた」
頭上で声がして、ひょいと視界いっぱいにお面が現れた。
動物を象った奇怪な面に、また悲鳴を上げそうになると口をむんずと掴まれる。
「ちょっと静かにしてよ。犬の声って響くから」
小声で静かに諭されたが、イルカはそれどころではなかった。
(犬‥俺、そうだ‥。術に失敗して‥‥)
ゆっくりと絡まった記憶がほどける。そうだ。自分は術に失敗して――人間に戻れなくなったのだ。
きっかけは馬鹿な悪戯。犬嫌いの近所のオヤジを脅かしてやろうと変化したのだが、あんまり大きな犬に化けられず、逆に追い掛け回された。逃げる途中、急いで変化を解こうとしたがそれがまずかったようだ。解除の術は失敗して、おかしな具合に変化は更に強化されてしまった。
変化はイルカが苦手な分野で、時々こんな失敗をやらかすことがある。その度に仕方なく火影の元へ泣きつくのだが、軽くパニックになったオヤジに追い掛け回されたイルカは死に物狂いで逃げた。森を夢中で駆けていたまでは覚えているのだが、
(‥‥そ、そういえば‥‥)
走っている途中、なんだか強い衝撃を受けて意識を失ってしまった。
網のようなものに吊り上げられた気がしたが‥‥、狩り用の罠だったかもしれない。
(‥こ、この人が助けてくれたのかな)
イルカは自分を抱える少年を見上げた。
奇妙なお面は聞いたことがある。火影しか命令することのできない、暗部という特別なエリート集団なのだ。しかしこの少年は自分とほとんど変わらない年齢のように見える。凄いなあとのんびり感心していると、腹が小さく鳴った。
(‥‥‥‥お腹好いた。早く火影さまのところに行って術を解いて欲しい‥‥)
こうなっては自分で解くことは出来ない。とっぷり更けている空を見上げるとますますお腹が鳴った。一人暮らしなので自分の帰りを心配する者はいないが、できれば早く帰りたい。
なんとか離してもらえないかとじたばたすると、
「あれ? カカシ、新しいのか」
ふいに、知らない声が聞こえてきた。
(‥‥うわ‥‥っ、気づかなかった)
気配をまったく感じさせないもう一人の暗部の男に、イルカは心臓をどきどきさせた。
この少年はカカシという名なのか。
ぼんやり納得していると、ひょいと肩の辺りまで持ち上げられた。
「ああ、新入りなんだ」
「‥お前なぁ。そろそろやめろよ。弱い動物いたぶって殺すなんて趣味が悪いぞ」
(‥‥‥‥‥‥‥‥!!!!!)
声にならない悲鳴が出た。
いたぶって――殺す!?
聞き間違いじゃないかとガタガタ震えていると、「人聞きの悪いこと言わないでよ」とカカシは笑った。やっぱり勘違いなんだとほっとしたが、
「今までのは、単にオレについてこれなかっただけ。あの程度で死ぬんじゃ、戦場に行ったってまさに犬死さ」
(‥‥‥‥‥‥‥!!!)
がーん、と激しい衝撃を受けた。
(‥こ、こいつ‥‥何言ってんの‥‥っ!?)
カカシの肩の上で震え、イルカは必死に冷静になろうと努めた。忍者は常に冷静であること。冷静に、冷静に‥‥っ。
「‥まあ、手柔らかにしてやれよ。そいつ、ずいぶん小柄じゃないか。まだ子犬の域じゃないか?」
「甘いね。鍛えるには遅すぎるくらいだ」
カカシは犬の耳を引っ張り、呆れたように反論した。
耳を好き勝手に引っ張られるイルカは、もはや何も感じない。いったい何がどうしてこんな状況になったのか。
(‥罠にかかった俺を‥助けてくれたんじゃないのか‥? 鍛える? ‥‥こいつ、まさか俺のこと拾った気でいるの? 俺、帰れない?)
考えれば考えるほど、思考はどん底へ落ちていく。
耳も尻尾も下げ、イルカはぷるぷる震えながら口を開けた。もはや、我慢の限界だった。
「‥‥‥キュ‥」
ウオーンと、嘆きの遠吠えが森に木霊した。
「こら、うるさい」
ぺち、と叩かれる不条理が憎い。信じられない、信じられないっ。
(‥火影さまぁぁ‥‥!!)
声にできない悲鳴は、その後も森に虚しく響き渡った。
***
森中に響いた叫びも虚しく、そのままがっちり抱えられたイルカは殺風景な家に連れ帰られた。
(うわー‥何もない)
家財道具が冷蔵庫とベットだけなんてよほど貧乏なのか。珍しそうに見回していたら、ぽいっと床に放り投げられた。急いで体勢を直して着地すると、カカシは暗部の服を脱ぎながら浴室へ消えていく。
(‥乱暴な奴‥‥っ)
イルカは憎々しげに閉められる扉を睨み、はた、と気づいた。
(チャンス!!!)
我に返ったイルカは急いで玄関の方へと走り出した。
しかし、
(‥あ、開けられない‥‥っ)
飛び跳ねてもノブに手が届かず、犬の手では掴むことすらできない。ではもう一度変化の解除を試してみようと思ったが――そちらも一向に上手くいかなかった。
「‥なにやってんの?」
いつの間にか、普段着に着替えたカカシが濡れた頭で立っていた。
見下ろされたイルカはぺたりとその場に脱力する。きゅうきゅう鳴くお腹はもう限界だった。
(そうだ。腹が減ってるから上手くできないんだ)
ぎゅむぎゅむと手を動かし、イルカは情けなく耳を下げる。その首根っこをカカシがつまみ、
「あ、腹減ってるんだ」
(そうっ、それ!)
嬉しくて狂ったように尻尾をぱたぱたすると、カカシは「はいはい」と言った。
そのまま冷蔵庫の前まで運ばれ、
「はい、どうぞ」
取り出されたのは生肉。血も滴るそれにイルカは呆然として、
(食えるか!!)
わうんっと肉を前足で蹴ったが、カカシはすでにベットへと入り込んでいた。
「オレ、仮眠取るから。修行は明日の朝からね」
(‥修行‥‥っ。つーか、俺のご飯は‥‥っ)
一人残されたイルカは急いでベットへ走ったが、カカシはすでに眠っていた。
重ねて言うが、生肉なんて食べられない。
イルカはがっくり耳を下げ、放置されっぱなしの生肉をくわえて冷蔵庫の中に入れる。後ろ足で勢いよく戸を閉めると、長いため息が出た。
こうなったらもう、明日に賭けるしかない。
(‥‥お腹が空くと切ない‥‥)
空腹を抱え、部屋の隅っこに座り込んだイルカはぐすぐすと眠りについた。
「あれ? 食べなかったの」
朝になり、冷蔵庫を開けて水を取り出したカカシが言った。
部屋の隅っこで丸くなっていたイルカはその声を無視する。そんなもの食べたらお腹が痛くなるに決まっている。
「贅沢だね〜。食べられる時に食べとかないと死ぬよ?」
(‥‥死‥‥っ)
びくん、とイルカの体が跳ねた。
「まあ、いいや。とにかく修行しようか。昼間は付き合ってやるよ」
(嫌だ‥っ)
慌てて逃げようとするイルカをあっさり小脇に抱え、カカシは外に出た。
眩しい朝の光に、空きっ腹が辛い。すべての原因である鬼っ子の顔を恨めしげに見上げると、
(あれ?)
少年の左目が赤いことに気づいた。色違いの目なんて珍しい。まじまじ見ていると、「あ、忘れてた」カカシは覆面をつけ、額宛でその目を隠してしまった。もったいない。黙っていれば女の子にもてそうな顔をしてるのに。
(中身は外道だけど)
自分を抱える腕からなんとか逃げられないものか奮闘していたが、
「じゃあ、滝の演習場に行こうか。初心者向けだし」
のんびりしたカカシが爆弾発言をした。
(た‥滝の演習場って‥あそこは‥たしかに初心者向けだけど、特別上忍用で‥‥っ)
イルカの悲鳴は風にかき消された。
修行は厳しかった。
アカデミーでも、班の先生でもこれほどの無体は強いなかった。
もはや命が残っただけでもめっけものだと喜ぶべきだろう。
(‥うう‥‥俺、なんでこんな所に‥‥)
ボロボロになったイルカはもう動けなかった。
何度か自分でもどうにもならない場面になり、その時は傍観していたカカシが助けてくれるのだが、「本当にやばいってっ」という時まで絶対に手を貸してくれないのだ。
それでも、死に物狂いで演習場を駆け抜けながら、イルカは何度も逃げようとチャレンジしていた。が、少しでも別のルートを選ぶと修行レベルは格段に上がり、本気で死にかけた。
とにかく、演習場を出てから逃げるしかないと作戦を変えたが、実際夕暮れになって修行が終わると立てないほどぐったりしていた。もう逃げるどころではない。
「三流だけど、まあ努力は認めるよ。実力としては下忍級か。中忍クラスへ行くにはまだ二年くらい必要だねえ」
優雅に木上で忍書を読むカカシが冷静に格付けをした。イルカの目に殺意が宿るが、
「ま、頑張った、頑張った。いいね〜。この調子ならデビューは近いよ〜」
(‥デ‥デビュー‥‥っ)
カカシは本気で自分を部下にするつもりなのか。
(こんなやつの行く任務になんかついてったら、俺‥絶対死ぬ‥‥‥っ)
それだけは妙な確信があった。カカシは、自分とは実力も住む世界も違い過ぎる。
ふらふらと半ば気を失いかけたイルカを、
「今日はここまでにするか」
と、カカシが拾い上げた。
気がついたら、
(‥牢獄‥っ)
再びカカシの家に到着していた。急いで玄関を見ると、かっちり鍵もかけられている。
今度は窓からと見上げてみたが――高い。
(‥も‥‥俺、駄目‥‥)
昨日から水しか口にしていない。その上ハードな修行。飢え死には目前だった。
カカシにねだったところで、出されるのは血の滴る生肉‥‥。
「ほら」
へばっていたイルカの前に、コトリと皿が置かれた。
顔を上げると、あたたかな湯気がかかる。
(‥ご飯‥‥っ)
そこには美味しそうなスープと、食パンが丸々置かれていた。
香る匂いにぐわっと立ち上がると、
「上品な口に似合う食べ物わざわざもらってきてあげたよ」
少々恩着せがましい口ぶりだが、カカシが用意してくれたらしい。勝手に尻尾がぶんぶんと動き、イルカは人並の食事に猛全とむしゃぶりついた。
食パンを抱きかかえるように食らいつくイルカに、「誰も取らないよ」乾し肉らしきものを齧るカカシは呆れた顔をしていた。
(‥‥‥命拾いした‥‥‥‥)
食事が終わったイルカは幸せの余韻に浸り、急激な睡魔に襲われる。このまま眠りたい。そう思ったが、
「次は風呂」
がしっと首根っこをつかまれ、風呂場へと放り込まれた。
何事かと見上げると、カカシは腕まくりし――いきなり水をぶっかけてきた。
(い、今、冬!!)
凍える寒さに眠気が吹き飛ぶ。きゃんきゃん悲鳴を上げると、「あ」とカカシが気づき、水をお湯にしてくれた。
殺意を抱きながら、それでもされるがままのイルカは瞬く間に泡だらけになる。
洗い方は大雑把だが、ほこほこに温まったイルカはふらふらと浴室から解放された。今日は本当に散々だった。唯一の救いは人並の食事を得られたことぐらいか。
(明日こそは逃げ出そう‥っ)
気合は十分。体力温存のためにさっさと寝ようとしたが、またもひょいっと摘まれた。
「今日はこっちだよ」
言って放り込まれたのはカカシが使っているベット。
その為に綺麗に洗われたのか。あたたかい布団の中に引き込まれたイルカはびっくりした。正直、部屋の隅っこは冷たく、寝心地は最悪だった。まだ渇ききってない体では風邪をひいてしまったかも知れない。気を回して、今日はベットへ入れてくれたのか。
やわらかいシーツの感触に、
(‥‥‥少しは優しいところも‥‥)
イルカは少年に抱いた鬼っ子イメージを改善してやろうかと思ったが、
「刺客が来たら代わりに死んでね」
笑えない台詞にがーんと衝撃を受ける。
(‥もう嫌だ‥‥。帰りたいよう‥‥)
たとえ誰も待っていない家でも、ここよりはずっとマシだ。
くすんくすんと鼻を鳴らし、しかし睡魔に勝てなかったイルカはやがて眠りに落ちた。
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