□ 此処にいる









 その岩山の名を時津山と言った。
 一軒家ほどある荒削りな岩が多く、恐いもの知らずの子供たちが遊び場にするため、長く立ち入り禁止区域となっていた。
 演習場のような危険な区域ではないが、それでも長く人が足を踏み入れなければ野犬や獣が住みつく。もはや一般人も、忍びも近寄らぬ荒涼とした場所となっていたが、
 イルカは今、誰よりその人気のない場所を必要としていた。


(‥夏なのに寒い‥)
 地形によるものか、近くの川で冷された風がまともに吹き込んでくる。
 岩山の影は隠れるのに適していたが、頂上は見晴らしがいい。
 空を見上げると、満月の光を受けたうすい雲が怪しく藍色に染まっている。流れる速度が速い。時津山と呼ばれるこの辺りはとくに風が強いが、上空の風も強いのだろうか。
 しばらく夜空を見上げていたイルカは、座りやすい大きな岩にどっかりと腰を下ろした。
 人が夢を見る時間。少し眠い目を擦ってイルカは一人時津山に訪れていた。
 欠伸を噛み殺し、懐から取り出したのは――笛。
 細く頼りない竹の横笛を見下ろし、イルカは「はああぁぁ‥」と大きなため息をつく。
 深夜にこっそり人気のない場所へ訪れた理由。それはこの笛にあった。
(‥よし‥‥やるぞ‥‥っ)
 ため息ばかりついていても仕方がない。
 イルカは奮起し、笛を構えてそっと唇を押し当てた。この時、口の形が重要なのだ。
「‥む‥‥‥むむ‥‥」 
 笑っているのか怒っているのかよく分からない微妙な顔で口の形を作ると、肺一杯に空気を吸い込む。だが焦ってはいけない。吐く息の加減も重要なのだ。
 すでにぷるぷる震え始める指で必死に笛を構え、イルカは息を送り込んだ。
 ふしゅー。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 失敗した。
 笛から飛び出たのは高く澄んだ音ではなく、空気が抜けた音だった。 
 それから何度か同じように試したが、音が出たのは十回のうち二回。過去に比べ、確実に多くなっているが、すでに一週間以上、イルカはこの岩山で毎晩練習をしていた。
 亀よりも遅い速度で成長している自分に、イルカは強く思い知った。
 ―――自分は、やはり不器用だ、と。


 そもそもの事の発端は、アカデミーの授業からだった。
 いつもは女教師が担当するくの一の授業を臨時に担当することになったのだが、その科目というのが音楽だった。イルカは自慢ではないが芸術の世界など理解できない。花や舞でなかっただけマシだが、音楽に関してもそれほど感受性はよくなかった。
 その頃、くの一たちが学んでいたのは笛だったのだが、最初から後ろ向きなイルカに当然つとまるはずもなく、ペーパーテストなどで誤魔化し、事なきを得ようと考えていたが、
 ――ある日。
「先生、お手本見せて?」
 可愛らしい少女が一人、にっこり笑って笛を差し出してきた。
 ついに来た、この時が。イルカは顔を引き攣らせて断る理由を必死に考えたが、全員が期待に満ちた目で見ていた。
 そして、案の定音すら鳴らない下手な笛を聞かせると、教室は爆笑の海となった。
 少女たちは、イルカが笛を吹けないことをとっくに見抜いていたのだ。
 笑われても仕方がないが、これでは教師としての威厳が保てない。少なくとも、クラスで一番笛が下手、という状態からは脱しなければと、イルカは痛感した。
 授業は週に二回。
 残りの授業数は数えて五回ほどだが、イルカは毎晩のように笛の練習を始めた。
 最後の授業までには、なんとか人並にマスターしたいと時津山に来ては夜明け近くまで練習を続けたが、
(‥‥俺って‥‥本当に下手‥‥‥)
 秘密の特訓をはじめて一週間ほど経過したが、肝心の腕の方はいまいち成果が出なかった。
 子供たちに与えた課題曲をなんとか最後まで吹けるようになったが、情緒というものがまったくない。分かっていたことだが、自分の音感の無さにがっくり肩が落ちる。
 しかし、明日はくの一の授業があった。なんとか聴ける程度にまで上達したいと、イルカは再び笛を構えて吹き始めたが、

「――へたくそ」

「‥‥‥っ」
 突然の声に、息が詰まる。
 誰かがいる。
(‥き、聴かれた‥‥!)
 あわあわと狼狽しながら、イルカは周囲を見渡した。
 吹き抜ける風が強く、見晴らしのいい場所に座っているが、人の姿などない。
 どういうことかと仰いでみると、近くの大きな木にかすかに人の気配がする。
「‥あ、あの‥‥‥」
 おそるおそる声をかけると、音もなく人影が降りて来た。
 細い長身を黒衣に包んだ――面の男。
(‥‥暗部だ‥‥)
 確認するなり、イルカは真っ青になった。
 年の頃ならおそらく同い年ぐらいか、犬の面をつけた銀の髪の男。
「‥あーあ、せっかく眠ろうとしてたのになあ」
 頭の後ろを掻き、ぼやくように呟かれた。
「‥‥‥っ」
 イルカは声無き悲鳴を上げたくなった。
 ――時津山は人気が無く、練習場所には適しているが、時折、そういった場所を好むその道の忍びやら商人たちがたむろすることがあるのだ。 
 毎回人の気配を確認してから練習を始めていたイルカだが、今回はまったく気づかなかった。最初からいたのか、もしくは途中から来たのか、それすら分からない。
(ど、‥どうしよう。安眠を妨害したんだ。俺のへたくそな音で‥っ。あ、謝って許してくれるかな)
 普段接することのない火影直属の忍びに、イルカは極度の緊張を強いられた。ましてや、自分に非があるならば尚のこと。
「す、すみません‥。いらっしゃるとは気づかなくて‥‥っ」
 急いで頭を下げたが、相手はすとん、と手近の岩に腰を下ろした。
「?」
 その仕草が妙に気にかかる。まるで立っていられない、という感じだ。
 そう思った時、風に乗って血の匂いが流れてきた。
「あの‥、もしかして、怪我を‥‥?」
「そ。だから休んでたの」
 だるそうに座る男を注視すると、肩の辺りに血が滲んでいた。黒衣がさらに濃くなるほど。
「‥‥俺、薬持ってます‥‥っ」
 イルカは荷物の中に応急処置の道具が入っていることを思い出す。
 急いで駆け寄ろうとしたが、
「あ、近寄んないで?」
「え‥‥‥」
「いいから。触ったら噛みつくよ?」
 間延びした声はまるで冗談のように言うが、イルカはそれ以上近づけなかった。
 男から滲む空気がそれを阻み、まるで見えない壁があるように思えた。
「‥‥でも‥‥‥」
 それでも、傷は深そうだ。
 躊躇するイルカに、男はひらひらと手を振った。
「平気。休めば治るから」
 言われて、はっと気づく。その休憩を邪魔したのは自分だ。
「す、すみません‥‥っ、俺、帰ります‥‥っ」
 慌てて立ち去ろうとしたが、
「あ〜、ちょっと待って?」
 男がそれを制した。
「安眠妨害のお詫びに何か一曲聴かせてよ」
「え‥‥‥っ?」
「下手でもいいから。笛聴くの久しぶりだし。‥‥そうだなぁ、あれがいいね。[葉心]、木の葉の古い歌だから知ってるでしょ」
 知ってる。
 知っているけれど。笛で奏でるにはかなり難しい歌だ。とても自分のような腕では吹けそうにない。それに、さっきまでの自分の笛を聴いていて、よくリクエストする気になど‥‥。
 もしかしてからかわれているのだろうか。いや、だが‥‥‥、
(‥‥うう‥‥‥)
 どちらにしろ、断れない空気がそこにあった。
 すでに待ちの状態にある暗部の男に、イルカは意を決する。
「‥‥わかりました‥‥‥」
 ――イルカは、自他共に認める下手くそだ。
 予想通り、笛の音はとても聴けたものではなかったが、木の葉の里に住む者なら、子供の頃から知っている歌だけに、メロディだけになんとか維持できた。
 たどたどしく最後まで辿り付くと、イルカは大きなため息をつく。
(‥‥吹いちゃったよ‥‥‥)
 黙っていると冷や汗が出る。
 ちら、と男の反応を見上げると、
「‥アンタ、本当にへただね〜‥」
 呆れたような、感心したような声で、面の男は評価した。
 イルカはがっくり俯いた。分かっていたことだが、何度もはっきり下手だと言われると生まれかけていた自信も脆く崩れていく。
 もう笛なんてやめてしまおうか。
 そんな事をうじうじと考えていたが、
「――ありがと」
 礼を言われた。
「‥‥っ」
 慌てて顔を上げたが、そこにはすでに男の姿は見当たらなかった。
 気配を探れないかと集中してみたが、自分ごときでは追えない。
(‥‥礼、言われた‥‥‥)
 笛を握りしめたまま、イルカはぼんやり考える。
 あんな笛の音に礼を。

 ―――もっと、ちゃんと吹けばよかった。
 
 男が座っていた場所を見詰め、イルカはもやもやとそんなことを考えた。






  ***





 月夜に暗部の男と出会ってからも、イルカは時津山へ練習に出かけた。
 今度は、練習を始める前に念入りに誰もいないことを確かめているが、それから誰かと遭遇したことはない。
 たった一人の客の前で演奏した晩から、イルカは本気で笛に取り組むことを決意した。
 今までも精一杯やってきたつもりだが、どこかで「臨時のことだから」と甘く考えていたところがあったかも知れない。いつからそんな適当な考えを身につけてしまったのか。
 イルカは自分の考えを改め――実際に成果も出た。
 いまだ拙いところはあるが、イルカの笛は格段に上手くなり、人に聴かせても恥かしくない程度にはなった。
 くの一の授業で、驚く生徒たちの顔を見た時は胸がすっとした。
 授業は残り二回。もうこれ以上の練習は必要ないのだが、イルカはそれでも足繁く時津山へ通った。意外に凝り性だったかと自分を冷静に分析しながらも――、
 実は本当の理由があることを、自分でも分かっていた。
 だから毎晩、自分はあの曲を練習するのだ。
(‥もう来ないかな‥)
 イルカはそんなことを考えながら、笛に唇を押し当てて吹いた。
 今までは風の邪魔すらしていた奇怪な音は、なめらかなメロディによって風に乗ることを覚えた。心地良い笛の音ははるか遠くまで響き、[葉心]の優しい曲は時津山の荒涼とした雰囲気を少し和らげる。
「‥‥‥‥‥‥」
 吹き終えた笛を下ろし、イルカはため息をついた。
 ―――その時、
「なんで上手くなってんの?」  
 あの声。
「‥‥‥‥‥‥っ」
 イルカは急いで立ち上がり、後ろを振り返った。
 ざわ、と緑が揺れ、樹木から面をつけた男が降り立つ。犬の面と銀髪。
 間違いなく、彼だ。
「上達しててびっくりした〜。アンタ、ずっと練習してたわけ?」
「あ‥‥あの‥っ」
 突然の登場に、イルカはまったく心の準備ができていなかった。
 互いにまだ大きな距離があったが、詰め寄られるように問いかけられ、イルカは混乱しながらも何か喋ろうとした。黙っていたら、また突然帰られてしまうかも。
 そんな焦りが、
「も、‥もう一度、聴いてもらいたくて‥‥」
 よけいなことまでもらしてしまった。
 言ってから、イルカはしまったと口を噤む。自分でもわざと表面に出して問題にしなかったことなのに、ついぽろりと本音が出た。
「へ?」 
 面の男は素っ頓狂な声を上げ、
「まさか、オレのために練習してくれたの」
 イルカは返答に困った。言われれば、その通りのような気もしたけれど、負けん気も半分入っていた。また会えるとは限らないが、あの時礼を言ってくれた彼に、今度はちゃんとした音を聞いてもらいたかった。多分、その気持ちが本物。
 何も言えないイルカに面の男は「‥へえ」とおもしろそうに納得していた。
 なんだか居た堪れない。
 顔を上げられず、どうやって自分のうっかり発言を誤魔化そうかと必死に思考をめぐらせていたが、
「‥‥‥っ」
 足がすぐ傍に見えた。
 びっくりして顔を上げると、面の男はすぐ間近まで来ていて、イルカは硬直する。
 近づくな、と言われた言葉が頭によみがえる。動かないほうがいいのだろうか。
 足音もなく、獣のように近くまで来て、面の男はまるで匂いをかぐように顔を寄せてくる。
 対応に困り果てているイルカを、おもしろがっているようにも見えた。
「――オレの名前ね、カカシ」
 ふいの発言だった。
 名乗られたのだと少し遅れて気づき、暗部の人間の名を知っていいのかと困惑するが、相手は返答を待っていた。
「‥‥俺は、イルカです‥‥‥」
 やはり名乗るのが礼儀だと素直に答えると、男の手がゆっくり上がり、面を外した。
 思わず息を飲んだが、鼻まで覆う覆面に容姿は確認できない。暗部の顔を完全に見ずに少しほっとしたが、色違いの双眸に少し意表を突かれる。
 紅い左目。ずっと覗き込んでいると、魅入られてしまいそうだ。
(‥中に‥なにか見える)
 おもわず食い入るように見ていると、
「なんか食われそうだねぇ」
 男が茶化した声で言った。――熱心に見すぎてしまった。
「す‥‥すみません‥‥‥っ」
「いいよ、別に。オレが見せたんだから。――ね、また聴かせて」
 近くの岩に座りこみ、男はまた強請った。
 イルカは少し戸惑ったが、自分も腰を下ろした。
 どんな成り行きだか分からないが――たまには、こんなこともいいだろう。
 名を知っただけの暗部の男に、イルカはいつしか気を許していた。
 さっきよりも近くなった距離の分は、確実に。





 ***




 不思議な関係が続くようになった。
 くの一の授業はとっくに終了したが、イルカはまだ笛を続けていた。
 毎晩、とはいかないが、月が出た晩だけは必ず時津山へ行き、練習をする。
 すると、いつの間にかあの男が来て、聴いていく。
 彼は大抵木の上を定位置とし、会話をすることもあるが、黙って帰っていくこともある。
 そんな時のカカシは決まって血の匂いがして、無言で近寄るなと伝えてくるので、怪我の具合を確かめることなどできない。
 カカシは面を剥いで名乗っても、まだ触ることはだけは許さなかった。
 暗部の容姿を半分知り、名を知っただけでも十分に問題だが、完全には消えない大きな壁に、イルカは知らず気分が落ちこんでいた。

 ――カカシさんが暗部でなければ。

 自分勝手な考えだと分かっていたが、何度かそんなことも考えた。
 この年で友人が欲しいなど気恥ずかしい話だが、イルカは、夜な夜な自分の笛を聴きに来る男に親しい気持ちを抱いていた。飲み屋に行くなど、懇意な関係になれたらいいなと、心の奥で思っていたが、
(カカシさん‥‥今日は来るかな‥‥)
 月の晩、いつも通り時津山へ訪れていたイルカは、カカシの気配がないのを確かめた。
 自然と、ため息が出る。
 こうして自然に会うようになって、すでに一ヶ月は経過した。晴れた月の晩だけとはいえ、ずいぶん長く続いている。
 だが、イルカはいまだにカカシの性格を把握できていなかった。掴み所の無い人だ。わざとそうしているのは分かっているし、カカシの私生活を知る権利などないが、
 手の中の風呂敷を見下ろし、イルカはまた嘆息する。
 ―――と、
「なにため息ついてんの」
「‥‥わ‥‥っ」
 はたと気づくと、目の前で座り込んで見上げるカカシがいた。
 気配の無さにはいつも驚かされるが、耽っていた思考の内容にイルカは思わず風呂敷を落とした。
 カカシが難なく受け止めてくれたが、
「なに、これ?」
 風呂敷の妙な温かさに気づいたのか、カカシがまじまじと見上げる。
 視線を受けたイルカは笑顔を浮かべ、
「‥えと、実は‥‥お弁当を‥」
「弁当?」 
 本気で驚いている様子のカカシに、イルカは内心まずかったかと思う。
 弁当は、カカシのために作ってきたものだ。お節介だとは思いつつも、少し痩せて見えるカカシの体調が気になったのだ。
 食べ物なんて、受け付けてくれないだろうか。
 断られるのは辛いが―――悩みながらも結局作ってしまった。
「オレに?」
「‥‥はい」 
 自分でも驚くほどどきどきしていた。
 ふーん、と風呂敷を眺めるカカシは、なにか考えているようだった。
「‥イルカ先生さぁ」 
 名を呼ばれ、緊張する。
 イルカがアカデミーの教師だと知ってから、カカシはイルカのことを先生付けで呼んでいた。
「アンタ、オレと逢引してるって自覚あんの?」
「‥‥‥え‥‥?」
 カカシの言葉は大抵が唐突だ。
 まるで知らない国の言葉のようだと時々感じていたが、今回は強烈だった。
 逢引。知ってる言葉だが、知らない言葉のようでもある。
(‥‥逢引って‥‥普通、男女がひっそり会うことで‥‥大体が‥‥恋人同士で‥‥)
 ぐるぐる回る頭を抱えるイルカに、カカシは続けた。
「オレはそのつもりで来てるんだけど‥‥、アンタ、弁当って何? こういうことされると、オレ困るよ」
「‥‥‥っ」
 ――困る、とはっきり言われ、イルカは胸をつかれた。
 言葉に詰まると、
「ほら、そういう顔する。やめてよ、苛めてるみたいでしょ。‥‥なんだかなあ。アンタ、隙だらけのようで食えないっつーか、いい大人がそんな正統派でどうすんの」
 カカシの言っていることは、いまいち理解できなかった。
 困った顔で立ち尽くすイルカに、
「‥‥だからさ、オレは仕事サボってまで来てるんだから」
「え‥‥サボって‥‥!?」
 そう、とカカシはため息をこぼしたようだ。
「つまりねえ。分かりやすく説明してあげると、弁当は嬉しいけど――そういう可愛いことするくせに、なんで色事に関しては匂わせてくれないのかってこと」
「色‥‥‥」
「アンタみたいなの、どう扱ったらいいか困るよ。OKなの? やっちゃっていいの?」
「‥‥‥‥‥‥っ」
 イルカはようやく、カカシの言わんとすることを理解した。
 色事。そこまで、思考が発展することはなかった。ただ、友人になれたらいいと。また会いたいと思っていただけで――。
 OKかと問われ、返事に窮する。こればかりは、簡単に答えてはまずいと鈍なイルカにも分かった。
 ただ首筋から一気に、燃えるように赤くなっていく。
「ああ、やっと理解してくれた?」
 その様子を眺めていたカカシがやれやれと息をつき、腰を下ろして弁当を広げ始めた。
 真っ赤な顔で硬直したままのイルカに、「座れば? 一緒に食べよ」と手招きされる。
 広げた弁当を一緒につまんだが、味など感じる余裕はない。
 カカシは予想以上にたくさん食べてくれた。ごちそうさま、とちゃんと手を合わせる姿に、やっと覆面も下ろされていたことに気づく。整った顔立ちに、イルカは慌てて顔を伏せた。
「いたた」
 ――と、ふいにカカシが唸った。
 驚いて見上げると、カカシがわき腹を擦っている。
「どうしたんですか?」
「ん、ちょっとね」
 平気、と言うカカシだが、わき腹の辺りは服の色が濃くなっていた。血は乾いているようだが、傷口が開いてしまったのかも。 
「包帯を巻きなおしますか?」
「そうだねえ」
 傷口に引っ付いているらしい服を引っ張り、「それじゃあ、やってくれる?」とカカシが言った。
「え‥‥?」
「オレ、薬とか何も持ってないんだ。手当てして?」
 応急処置の道具は今日も常備している、が―――、
(‥‥でも‥‥‥)
 薬袋を取り出しながら、イルカはカカシの顔を見た。
「‥‥噛みつきませんか?」
 おもわず訊いた。
 カカシはへ? と目を丸くした。
 まずい問いだったかと心配したが、――カカシは腹を抱えて笑い出した。
「いた‥‥いたた。ちょっと笑わせないでよ、響くでしょ‥‥っ‥」
「‥‥‥‥‥‥」
 冗談を言ったつもりではないのだが。
 困った顔のイルカに、カカシはおかしそうに笑いの余韻を残し、「ん〜、どうかねえ」と首を傾げた。
 それは、噛みつくかも知れないと言うことか。
 少しは知り合えたと思っていたが、まだ警戒されているのだとイルカは消沈したが、
「よいしょ」
 ぐいっと目の前でカカシが上着を脱いだ。
 いきなり裸の上半身の見せられてびっくりしたが、わき腹のえぐられた傷口にイルカは目を見張る。開いた口から滲む血に、慌てて薬を取り出した。
「ちょっとしみますよ」
「ん」
 カカシは両腕を上げて、大人しく手当てを受けてくれた。
 痩せている、と心配していたが、どうも見当違いのようだ。着痩せする体質らしく、カカシの身体は鋼のような筋肉で守られている。
 消毒し、薬を塗って、包帯を巻く。ずいぶん密着したが、手当ては無事に終わった。
 ほっと一息つくと、
「‥‥わ‥‥‥っ」
 がぷり、と耳を噛まれた。
 口の中に含まれた濡れた感触に、イルカは慌てて逃げようとするが、がぷがぷとそのまま甘噛みされる。
「ちょ‥‥っ、カカシさん‥‥っ」
「噛みつかないとは言ってないでしょ」
 カカシは笑みを浮かべ、大きく身を乗り出した。
 意地の悪そうな笑み。しかし、楽しそうだ。
 そんな顔を見ていると――――なんだか抵抗する気が失せた。
 急な展開だが、自分は受け入れている部分もあった。
 口にするのは抵抗があったので、腕を回して同意を表すと、まさぐる手は目に見えて調子に乗った。
 カカシの肩越しに見る月は、今夜も静かに輝いていた。







 自分にしては、思い切った行動だと感心する。
 カカシが言うところの「逢引」とやらは、その後も続いていた。
 だが今は、時津山ではなくイルカの家だったり、
 個人的に外で顔を晒して会うこともある。
 カカシが高名な写輪眼の忍びだと後に知ったが、今となっては拘る理由にはならなかった。
 本当に、自分にしては珍しい。
 上忍であることや、同性であること、暗部であること、これから様々な困難があると思われるが、そんなもの何とも思わせない磁石がカカシにはあった。
 生真面目な自分を自覚していたイルカは、自分のある意味盲目的な情熱に苦笑し、それでも満足していた。
 カカシは今でも笛を強請る。
 家で吹くには近所迷惑なので、その時は時津山へ移動した。
 いまだ暗部に所属するカカシは、時々怪我もするし、毒があると触らせてくれないこともあるが、二人きりの空間だけは壊さない。
 まだ少ししかカカシのことを理解していないけれど、
「オレ、こう見えてもけっこうアンタに夢中ですよ」 
 カカシは時々茶化したように囁く。混ぜっ返すようなずるい発言。でも自分も同じだ。
 イルカはまだ、はっきりと自分の感情を告げていなかった。
 自分たちの関係がなんなのか、はっきりさせる必要があるのかないのか、今はまだ分からないけれど、
 二人きりの空間で、笛の音だけが響くと――心は驚くほど静かになる。
 きっと、カカシも同じ。だから笛を要求するのだと、最近少し分かった。
 今はまだ。――でもいつか。
 カカシとの確かな繋がりをもつ笛を抱き、イルカは目を閉じた。

 笛の音に乗せて届く想いに、永遠を望んで。










END










一周年のお祝いの絵のお返しに、KYORORIのキョロさんに差し上げたものです。
リクエスト「笛を吹くイルカ先生」
はたしてお返しになっているのやら‥‥(汗)
こんなお話ですみません。しかし感謝の気持ちはたくさんですっ。
ありがとうございました!






○ NOVELTOP ○

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