□ 合法ドラッグ 5
家に女を泊めた。
イルカが訪れなくなったから。
もう知らないと宣言されてから、イルカはぱたりと姿を消した。
「綺麗に片付いてるのね」
初めて家に上がった女は少し緊張していた。
行儀よく正座する姿が微笑ましい。
彼女のつけている香水が、ほのかに部屋に流れ――イルカの匂いは完全に消えた。
望んでいたことではあったけれど、心に空洞ができる。
埋めるために、今度は彼女に依存した。
付き合いはじめて半月は経つが、まだ体の関係には至っていない。無意識に慎重になるのは本気の証拠だ。
――今度は失敗しないように。
カカシは慎重に距離を縮めた。
きれいなままで、いさせるんだ。
眠りは、強烈に破られた。
屈みこむ人影を、一瞬で敵と認識する。
左目に走る痛み。
伸ばした掌で相手の腕を掴み、昏倒させる。
思いのほか重い衝撃。相手は男だった。黒装束の――おそらく同業者。
床に冷たいメスが落ちる。
銀色に鈍く光る手術用のメス。切っ先には血がついていた。
「‥‥、‥」
左目から血が流れ出る。眼球は傷ついていないようだが、瞼を切られた。
男の目的は一目瞭然。
――写輪眼。
怒りが込上げてくる。しかし冷静に、カカシは男の首へとクナイを振り下ろしていた。
血管を突き破り、即死するわずか手前で、
「やめて‥‥っ」
女の悲鳴が響いた。
カカシは、ゆっくり顔を上げる。
真っ暗な部屋の隅で、震えている女。
あれは何と言ったか。
――たしかオレの新しい恋人?
「‥アンタが手引きしたの?」
呟いた声は、低く闇を撫でた。
女は今にも倒れそうなほど怯えている。
別々の床について数時間も経っていない。
自分がこれほど敵に接近を許すはずが無い。思いついたのは、夕飯の妙な味。
――かすかに薬の味がした。
気のせいかと思った。いや、思おうとしたのか。
カカシが薬の効き難い体質だと気づかなかったのが、この二人の敗因だ。
(‥‥やってくれるね)
カカシは気絶している男の頭を蹴った。
「‥これ、アンタの男? 趣味悪いね。――ねえ、見逃してほしいなら首ちょうだい」
「‥‥え‥‥」
女は引き攣った声を上げた。
「だからね、代わりにアンタが死ぬなら男は見逃す。ほら、楽に絞めてあげるからこっち来なよ」
「―――‥‥っ」
わずかな沈黙の後、女はぱっと身を翻した。
玄関へと逃げようとする背にカカシは唇を歪め――手を伸ばして床に組み伏せる。
「‥‥っ、‥‥‥!」
首に指をかけて力を入れると、女は酸欠の魚に似た声を上げた。
ばたばたと暴れる相手を見下ろし、
(あの人がこうならないと、いったい誰が言える?)
カカシは心底うんざりしていた。
うんざり。うんざりだ。
――汚い手で、オレに触るな。
「‥‥‥、‥っ」
ゆっくり力をかけると、剥がそうとする女の爪が肌に食い込んだ。
「醜いね、アンタ」
このままくびり殺してやろう。問題はない。自己防衛で片付けられる。今までもそうやってきた。
せめてもの情けとして、見捨てようとした刺客の男と一緒に燃やしてやろう。――だが、
夜目が利く右目が、床に広がった黒髪を映しだす。
――まずい。
そう思った瞬間、頭の中でイルカと重なる。
「‥‥‥‥‥‥」
指から力が抜けた。
思った途端、もう殺せなくなっていた。
誤算だ。
――こんなことなら、黒髪で選ばなければ良かった。
咳き込む女の隣で、カカシは無感動に状況を眺めていた。
始末した方がいい。けれど、自分に会わなければ、この女もこんな阿呆な真似はしなかっただろう。
自分にも――油断はあった。
「‥さっさと行きなよ。殺すよ?」
手で追い払う仕草をすると、女は脱兎のごとく逃げだした。のびた男を残して。
ああ、
なんと虚しいこの世か。
男を役人に渡したカカシは、一人夜の町を歩き出した。
額宛の代わりに包帯が巻かれた。
医療班の手当てを受けたが、瞼の傷は数日で完治する。それまで不便な思いをするが、自業自得だった。
冴えた目はもう眠る気にはなれず、家に帰る気分でもない。
寒いから、と手渡されたコートのポケットに手をつっこみ、カカシは白い息を吐いた。
冷えた空気。しかし、高揚したままの身体は寒さを感じなかった。
足を止め、適当な壁に背を預けてずるずると座り込む。
なんだか歩くのも疲れた。このまま朝までぼんやりしていようかと目を瞑る。
心地いい静寂。
闇の中に自分しかいない現実はなによりも好ましく、少し疎ましい。
孤独を望んだことなど、一度もないのに。
(‥‥‥?)
耳が、足音を聴いた。
遠くから響く軽い足取りはだんだん近くなり、カカシはすぐに気づいた。
飼い主の帰宅に気づく犬のように。
目を開けるとイルカがいた。
肩で息をする姿に、自分を探していたのだとすぐに分かる。
――分かっている。
イルカはそういう人間だ。
「‥‥受付の‥」
息を整え、イルカは口を開いた。
「‥受付の、夜勤だったんです。‥‥あなたが怪我をしたと聞いて‥」
「イルカ先生。オレ、疲れました」
「‥‥‥‥‥‥」
「甘いオレの体にいろんなものがたかるんですよ。やれるもんなんて何も無いのに」
「‥カカシさん‥、それは‥‥」
「オレはただ裏切らないきれいなものが欲しいんです」
黒い双眸を見上げて、カカシは本心を訴えた。
感情を隠せないイルカは、はっきりと迷いを顔に見せる。しかし、返答は早かった。
「‥俺は、あなたを裏切りません」
「うそ。オレのイルカ先生を汚したくせに」
「俺は俺です‥っ」
「そうですね。――そして、そこが問題なんですよ」
「‥問題? 何がですか」
「イルカ先生は、オレの何が欲しい? 金? それともこの目?」
「‥‥怒りますよ‥‥!」
イルカは真剣に怒った。
怒りながら傷ついている。
カカシはポケットに入れたままの手を蠢かした。
引き出した指が握りしめていたのは――小さな薬瓶。それをイルカに見せて、
「じゃあこれ飲んで」
「‥え?」
「オレをどれだけ信じてるか見せて」
ラベルも何もない瓶には、鮮やかな赤い錠剤が一粒だけ入っていた。
突き出された瓶に、イルカは戸惑った顔を見せる。無理もない。何の薬か大いに気になるだろう。しかし、カカシは一切説明をする気はなかった。
「‥‥俺を試すんですね‥‥」
やがて、イルカはぽつりと呟く。
「こんなやり方は、好きじゃありません」
「先に一服もったのはアンタですよ」
やんわりと反論され、イルカは唇を噛んだ。
迷いは全面に現れ、表情は厳しい。きっと、一生に何度かの大きな決断をしているところだろう。
まるで他人ごとのようにカカシはなりゆきを観察していたが、
「‥言うとおりにすれば、カカシさんは納得しますか」
伸びてきたイルカの指が、薬瓶を受け取った。
(‥お)
どうするのかと凝視していると、蓋を開けたイルカは錠剤を取りだして――口に入れた。
水が無くて飲みにくそうだったが、顎を上向けて一気に嚥下する。
反った首筋に目を奪われながら、カカシはしばらく言葉を忘れた。
「‥‥‥マジで飲んだね」
我ながらおかしい台詞だ。
イルカはきちんと瓶の蓋を閉め、
「飲みましたよ」
ポケットに入れながら簡潔に言う。その指が白い。イルカは寒さを凌ぐものを一切身につけていなかった。
震えを見せない気丈なイルカは、まっすぐにカカシを見詰め、
「‥カカシさん。先に薬を使うような真似をしたのは、最低なやり方でした。謝ります」
真面目に頭を下げた。
白い息を吐く唇から、カカシは目が離せない。
「‥‥‥俺も、蟻ですね。あなたが欲しくて、しつこくたかる。でも本当に欲しいのは、眼でも術でも体でもない。あなたの心です」
赤い錠剤を飲み込んだ唇は、まるで知らない国の言葉を喋っているようで恐ろしく、懐かしい。
「どうして‥‥体とか面倒なものがあるんでしょうね」
静かに、御伽話を語るようにイルカは言った。
(‥きれいな声‥)
胸に染みこんでくる。
なんだか熱いと思ったら――右目から涙が出た。
「わ」
自分で驚く。またびっくりだ。人の言葉で泣く日が来ようとは。
「はは、かっこわるいね」
こぼれた涙をぬぐい、カカシはイルカを見上げた。
「イルカ先生、隣来て。眠くなるから」
こいこいと手招きをする。
大人しく従うイルカは、もうすでにうつらうつらとしていた。
隣に座らせて、寄りかからせる。
じんわり体温が伝わってくるが、キンと冷えた空気の方が強い。
「‥寒いね。このままだと凍死するかな」
「‥‥雪は‥‥降らな‥いはずです‥‥」
とつとつと、イルカが返答した。
「うん。くっついてれば大丈夫でしょ。イルカ先生、眠い? いいよ、眠って」
囁くと、イルカの指が手探りでカカシの指に触れた。
しっかりと絡めあい、
「俺は‥」
イルカは、きれいな声でささやいた。
「‥あなたが‥好き‥‥‥‥ですか‥ら‥‥‥‥」
「うん。――オレも好き」
左側にかかるぬくもりに、カカシは目を閉じた。
感謝したい。すべてに。
この人をくれて――ありがとう。
さようなら、オレ。
***
盛大なくしゃみが、凍った路面に響いた。
張りついた瞼を開くと、ありえない外の光景が広がる。
(‥‥なんで俺、外で寝てるんだ?)
この馬鹿寒い時期に。
もそ、と身体を動かすと酷く気だるかった。野宿は体にきつい。
顔が氷のように冷たかったが――体はぽかぽかと暖かかった。
はて? と身じろぎすると、体がうまく動かないことに気づく。
「おはようございます〜」
頭の上から能天気な声が響いた。
「‥‥‥‥‥」
イルカはようやく己の現状に気づく。
昨晩、奇妙な薬を飲んで眠り、路上で野宿。確か、カカシに寄りかかって眠ったはずだが、カカシに後ろから抱きこまれていた。一緒にコートで覆われ、密着した二人分の体温はなんとか冬の夜を乗り切ったらしい。――よく凍死しなかったものだ。
(‥風邪はさすがにひいたけど)
鼻をすすり、イルカは首だけ上向けた。
「‥寒いです」
分かっていることだがあえて訴えた。
「そうですね〜。だって水溜り凍ってるし。オレたちよく凍えなかったもんですよ」
「‥‥あの薬は何だったんですか」
「ん、単なる睡眠薬です。よく眠れたでしょー」
飄々と暴露するカカシが腹だたしい。
イルカは嘆息した。
頭のてっぺんに顎を乗せて「腹へりましたー」と訴えるカカシに力が抜けてくる。
意地の悪さがむくむくと湧きあがり、
「なんだか、こってり天ぷら食べたい気分です。天ぷら決定。変更不可」
「えー‥っ」
当然不満の声が上がった。ぐりぐりと顎で頭を小突かれ、子供のような仕草にイルカはたまらずふきだした。
「‥何なんですか、やけにテンション高いですね」
「オレは生まれ変わったんです。だから、お祝いに美味しい朝食作って下さい」
「‥‥‥どういう理屈ですか」
おかしくて笑いが止まらない。
「イルカ先生、笑顔かわいいー」
覗きこむカカシが真面目な顔で言う。本気の目に「‥何寝惚けてるんですか」くすぐったさを隠すためにイルカはつっけんどんに言った。
「や、本当。同じ人間に二度も惚れちゃった」
「‥‥‥」
「イルカ先生、好き」
告白は、眠る前にも聞いたような気がする。
夢かと思ったけれど――本当だったんだ。
(‥‥良かった。夢じゃなくて)
カカシは、何かを振り切ったように晴れ晴れとしていた。
昨夜の陰鬱なカカシに、もう駄目かと思った。
信じてもらえないなら死んでも構わないと、夜の魔物が思わせた。
でも朝が来て、心から思う。
カカシの体温を感じられるなら、体がある生き方もいいと。
今までとは違う”好き”の響き。
抱きこまれた形のように、カカシは自分を受け入れてくれたのだ。
安堵の涙が出そうになったが、泣くのは癪だ。
だから、できるだけ不遜に鼻を鳴らし、
「いまさらですね」
してやったりといった得意げな笑顔を見せた。
カカシは目を剥いてぽかん、としたが、
「‥ねえ、今日やる?」
密やかに耳元で囁く。――初めてカカシから言い出した。
しかしまだまだ。
イルカは口の端に余裕の笑みを残したまま答えない。
カカシは確実に焦りを感じ始めたらしく「ね、お願い。イルカ先生。今までの分お返しするから。イルカ先生、全然気持ちよくなかったでしょ。オレに任せてくれれば、それはもー絶対やみつき」言葉を選ばなくなってきた。
こめかみが引き攣りそうになったが、それでもイルカは余裕ぶっていた。
いい加減カカシもじれてきたのか、
「――‥‥っ」
冷たい唇が頬に押し付けられた。
ついでに耳朶も齧られて、舌の感触まで感じたイルカは硬直する。
「‥イルカ先生?」
固まったイルカに、カカシが怪訝な顔をした。
その体を押しのけて、イルカは一気に立ち上がる。
少し立ちくらみがしたが、気力で踏ん張る。「イルカ先生」と後ろで呼ばれるが、振り向いてはいけない。今すぐ立ち去りたいが、
「‥外で、変なことしないで下さい」
これだけは言っておかなくては。
「さっさと帰りますよ!」
寒さなんて感じない。
イルカは真っ赤な顔で歩き出した。
(‥‥‥首まで真っ赤)
ただのじゃれ合いのつもりだったが、イルカの反応は意外だった。
外で変なことをするな、ともごもご言って早足で歩き出す。その背中を眺めて思う。顔なんてどうなってるか。
(‥得体の知れない人)
我に返ったカカシは、後を追いながら考える。
心の闇を吹き飛ばすような笑顔を見せたり、娼婦のような婀娜っぽい姿を見せたり、子供のような得意げな顔をしたり、たったあれだけの触れ合いで林檎のように赤くなったり。
(‥‥きれいな人)
心の底から感服し、カカシは含み笑いをした。
そんなイルカが恋人で良かった。
――やっぱりオレは見る目がある。
追いかけて、自信満々にイルカに言ったら鼻で笑われた。
それもまた、よし。
お願いだから――きれいな人。
ずっとオレに触れていて。
END
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