■ Hello!









(汚い‥!!)
 一歩後ずさり、イルカは口を手で覆った。
 最初はゴミ袋だと思った。収集日でもないのに、誰かが不法投棄していると。
 けれど近づいて、それが人間だと分かってぎょっとした。
 汚い。
 とにかくその一言に尽きる。
 説明の仕様がないが、泥の海を泳いで残飯の中で寝て、血の雨を浴びて一年間野宿すればこうなるかも知れない。
 ひどい悪臭に鼻が曲がりそうだ。うう、とうめきながら、イルカは果敢にもゴミ人間に近づいてみた。
 近くに転がった巨大な泥団子、ではなくリュックを見ると、旅から帰ってきたばかりらしい。しかも同業者。顔を知ってるかも知れないと近くで見ようとして、うっと顔を逸らした。
 耐えられない。どうしてこんな臭いんだ!
(どうしてくれよう‥)
 眠っているのか意識がないのか、ゴミ人間はぴくりともしない。
 病院へ運ぼうかと考えるが、この汚さでは門前払いを食らいそうだ。一見乞食に見える。
 人通りの多い場所なのに、放置され続けていたのが証拠だ。半分近くは、ゴミと勘違いしたのだろうが。
 イルカは大きなため息をつき、覚悟を決めてゴミ人間を背負った。
(うう‥)
 悪臭に涙が出る。
 できれば自分も見なかったふりをしたいが、持ち前の性格が許せなかった。
 鼻で息をせず、ゴミ人間を背負い、泥団子のリュックを引きずって、イルカは一番近い自宅へと歩き出した。





 部屋のあらゆる物に匂いが染み付く前に、ゴミ人間とリュックを脱衣所へ放り込んだ。
 悪臭を堪えるために口を布で覆い、腕と足をまくって完全掃除態勢になる。
 掃除ではないが似たようなものだ。
 どぼどぼと急いで浴槽に湯をため、イルカは男の服に手をかけた。
 脱がした服はそのまま洗濯機の中へ投げ捨てる。クナイや巻物は丁寧に扱ったが出てくる出てくる。どれだけの武器を隠しているのか、しかもずいぶん使い込んである。
 額宛は斜めにずり落ちていた。口布を外すのは少し躊躇ったが、邪魔だったのであっさり外した。
 ベストを脱がし、上着を一気に引っ張り上げる。嫌な感じに濡れた服に、下も当然浅黒く汚れていた。泥か血か。しかし、
(‥ずいぶん鍛えてるな)
 引き締まった腹筋や、贅肉がまったくない腕は固くなめらかだ。指も長く、器用に動きそうな手。
 思わずじっと観察していたイルカははっと我にかえった。
 他人の裸など、そうそう見るものではない。湯治が趣味なので、他の人間に比べて機会が多いと言えば多いが、それでも不躾に眺めるまねはしない。
 ズボンにかけた手を止めて、イルカはしばし逡巡した。
 しかし、考えても仕方がない。どうせ同じ男なのだ!
 一気にズボンを脱がし、真っ裸にして転がした。たったこれだけの事なのに、とても疲れた気分だ。
 だがこれからが肝心。とにかく作業に専念しよう。
「よいしょ‥っ」
 後ろからがっちり押さえ、浴室へと入れた。
 湯加減を確かめて、そそぐ湯をシャワーへと切り替える。 
 石鹸を泡立てて、いざ開始。男の体をごしごしと洗い始めた。
 危惧していた怪我などは見当たらない。軽いかすり傷や打撲はあるが、むしろこぴりついた汚れの方が大変だった。擦っても擦っても落ちないこの垢!
 風呂好きのイルカとしては、垢が残った状態の人間を湯に浸からせるわけにはいかない。
 鬱陶しい口の布を外し、イルカはいつしか体を洗うことに熱中していた。
 男を壁に預け、腕から首へ。顔は少し慎重に洗った。タオルで拭ったりとけっこう荒っぽい作業もあったが、男はまだ目覚めない。頭の打ち所でも悪かったのではないかと少し不安になったが、今は男の体を綺麗にすることに真剣になっていた。
 耳は水が入るといけないのでそっと。
 泥塗れの髪を洗うのが一番困ったが、仰向けに横たわらせ、椅子に座ったイルカの膝に頭を乗せる。当然、イルカの服は水浸しだ。いっそ脱いでしまいたいが、狭い自分の浴室で、知らない男と裸同士というのはさすがに憚れた。
(‥なんで俺、こんなことを‥)
 今更だがそんなことを思う。
 がしがしと指の腹で頭皮を洗う。人の頭を洗うなんて滅多にない。とくに成人した男の頭なんて。
 顔に湯がかからないように、イルカは慎重に泡だらけの髪を流した。
 泡が排水溝に吸い込まれると、やっと本来の髪の色が出てくる。――銀色だ。
(けっこう細い髪だな。固い髪の俺とは大違いだ)
 それによく見れば、なかなかにいい男だ。
 左目を縦に走る傷跡が痛々しいが、忍びなら傷くらいある。
 あんな汚いゴミの状態じゃなければ、女に拾ってもらえただろうに。
(俺に拾われて不憫なことだ)
 無粋な男の手で洗われていることを知ればいったいどれだけ気落ちするだろうか。
(まあ、そんなこと言われても困るけど)
 寒い星の下、放置され続けなかっただけでもありがたいと思ってほしい。
 再び男を壁に預け、今度は下肢にとりかかった。足先から順に。
 足の裏は、かなりの長旅を歩いてきたのか豆があった。潰れたものもあり、治りかけているが、過酷な旅をしてきたのかと少ししんみりした。
 足のマッサージなら心得ている。
 時々自分にもする足ツボなど、イルカは念入りに洗いながら施した。
 脹脛に膝。太腿など、瞬発力を想像させる綺麗な筋肉がついていて、こんな足が忍びの足だよな、と感心しながらマッサージを続けた。――と、
(‥‥‥あ‥‥‥)
 一番肝心な場所。もっとも清潔にすべき箇所を前に、イルカは硬直した。
 マッサージがよくなかったのか。男の股間のものが、すこしだけ擡げていた。
 男の生理現象だ。しかし気まずい。
 イルカはちょっと迷ったが、そこだけ洗わないわけはいかず、心の中で謝って洗い始めた。固く引き締まった尻に、足の股をくぐり性器へ。敏感な場所なので丁寧にしたが、それがよくなかった。男の肉棒は触れるたびに大きくなって反り返った。
 その様子を、見てはいけないと思いつつ見てしまう。他人の性器など。しかもこんな興奮状態に陥ったものを見る機会なんて、今までも、これからもきっとない。
 赤黒く脈打って、存在を誇示している。指が触れ、伝わってきた熱さにびっくりした。
 こうなってはどうにもならないことを、同じ男のイルカはよく分かっていた。
(ど、どうしよう‥)
 思わず桶で男の股間を隠し、イルカはきょろきょろと周りを見回した。見回したところでどうにもならない。どうしよう。どうしたらいいか。
 このまま放置して、萎えるかも知れないが、もし湯船の中で出されたりしたら、また入れなおさなくてはならない。
 意識がない状態でも、辛いかも知れない。
 イルカは唇を噛み、ごくんと唾を飲んだ。覚悟を決めるのだ。
 さっさと出してしまえばいい。ただそれだけのことだ。男同士だし、何でもないことだ‥っ。
 イルカはむしろ治療の一環だと思い込み、桶を外して性器に触れた。直接触るのはさすがに抵抗があったので、タオル越しに。
 しかし濡れているので、感触はもろに伝わってくる。長引かせるとこっちがもたない。イルカは顔を赤くして、義務的に男の肉棒を擦り始めた。
 熱く、時折びくびくと跳ねるのが怖い。怖いと表現するのはおかしいが、男にとって何より敏感な場所で、興奮が直で現れる場所だ。意識がないと分かってはいても、相手の顔を見ることができなかった。
 俯いたまま、とにかく早くと急き立てる。
 またぐん、と大きくなり、限界が近いのが分かる。同じ男だから。だが、いつ弾けるのか分からなかった。手の中の肉棒は、イルカの男のプライドをいたく傷つける。つまり自分より大きいので、勝手が違う。他人のものなのだから当然だが――、
(‥もうちょっと‥?)
 気になって、タオルをずらした。
 張り詰めた先端がのぞき、そこから白い白濁がこぼれていた。指が滑り、ぬるりと濡れた感触に驚いて、つい手に力を入れてしまった。途端、
「‥‥っ、あ‥‥‥」
 まずい、と思った瞬間には飛び散っていた。
 指はもちろんのこと、腹から胸に――見知らぬ男の精液が。
「‥‥‥‥‥‥」
 ショックのあまり、声が出なかった。
 手の中の肉棒は何度か跳ねて、その脈動を伝えてくる。離すと、透明な糸が指にまとわりついた。
 指が震える。熱い感触はまだ残っていて、ぬるぬるする。 
 はっと我にかえり、急いで桶に湯を入れて自分の胸を流した。服の上からなので変な感じだが、とにかく洗い流すことが先決だ。
(‥せ、精液‥ぶっかけられた‥!!)
 あたたかい湯に、ようやく頭が冷静になってくる。
 ちょっと擦ってタオルの中で出させて処理するつもりだったのに。何てことない作業だと思っていたのに。実際はどうだ‥っ。
(――あ)
 顎に散った雫に気づき、イルカはまたショックを受けた。顔だけは避けられたと思っていたのに。
(顔射された‥! お、男に‥っ)
 浴槽のふちをつかみ、必死に深呼吸する。深く考えてはいけない。これは善意の処理なのだ。相手も自分も悪くない。不慮の事故だ。
(忘れろ! 今のは‥‥今のは無しだ!)
 ぐ、と拳を握り、イルカは今日何度目かの決意をして再び男に向き直った。
 まだ意識のない相手にほっとして、その下肢を湯で洗い流す。また反応しないかと少しびくびくしながら。
 すべて洗い終えて、ようやく湯に浸からせる時が来たが、意識のない男は放っておくとぶくぶくと湯の中に沈んでしまう。あわてて引き上げたイルカは困った顔で思案した。
 体を洗い終えたのだから、もう当初の目的は果たされたのだが、長旅をしてきたらしい体をゆっくり湯に浸からせてやりたかった。体を洗うだけと、湯につかるのではずいぶんと違う。
「‥狭いんだけどな‥」
 男を前に移動させて、背にできた隙間に自分の体を入り込ませた。
 湯が溢れ、湯気が天井に上がる。狭い浴槽の中で、イルカは服のまま浸かり、男を背中から支えた。
(‥ああ‥まさか男と二人きりで風呂に浸かる時がこようとは‥)
 女ともまだ経験していないというのに。
 ぐったり脱力感が襲い、ため息が出る。この男が悪いというわけではないが、厄介な人間を拾ってしまったものだ。
(でも、ずいぶん綺麗になったな)
 匂いだって、脱衣所にこもる悪臭を除けば、今は石鹸のいい香りがする。
 確かめるために銀髪に鼻を寄せて嗅いでみた。うん。もうゴミの匂いじゃない。 
 イルカは自分の仕事に大満足だった。
 大仕事だった。気が抜けると、急に疲労感が襲ってくる。
(‥いけない。‥眠っちゃ‥‥)
 湯加減がちょうどいい。くっついている男の体温も気持ちよくて、イルカの瞼は急激に重くなってきた。
 この状態で眠っては一緒に入っている意味がなくなる。しかし沈めば、男と違って自分はすぐに気づくだろう。だからちょっとだけ。ほんの五分。
 言い訳を始めた時点で、瞼はとっくに閉じていた。
 かくん、と首が俯き、イルカは短いつもりの眠りに落ちた。
 ――しばしの静寂。
 起きる予定の五分後、ぱちっと目を開けて起き上がったのはイルカ。
 ではなかった。
 湯船で立ち上がった銀髪の男は、くるりと後ろを振り返る。
 支えていたつもりが支えでもあった男が立ち上がり、イルカの体はぶくぶくと沈みかけた。
 銀髪の男はイルカの脇の下に手をやり、ひょいっと引き上げた。
 しばらくその状態でいたが、イルカは目覚めない。すやすやと気持ちよさそうに眠っている様子に、男はイルカの体を担いで浴槽を出た。







 心地いい目覚めだった。
 やわらかな布団が気持ちいい。眠気は深く、このままもう少し眠っていたくて寝返りをうつ。ごつん、と頭に何か当たった。
 固くて邪魔だ。押しのけようとしたが、なかなかのかない。
 嫌々目を開けると、手が目の前にあった。初め、自分の物かと思ったが違う。
(‥ん? それじゃあ誰の手だ?) 
 寝起きの頭は回らない。一度目を瞑って、今度はしっかり開けた。
「‥‥‥‥‥‥」
 絶句。絶句だ。
 見慣れた自分のベッド。それはいい。けれど、隣に転がる見知らぬ男は誰だ。
(いや、知ってる。‥えと、確かゴミ人間)
 今は立派に人の形をしているが、それは自分が風呂に入れたからだ。風呂に入れて、自分も入って、そうだうっかり‥‥自分も寝てしまって‥‥。
 それじゃあ、どうやってこのベッドへ?
 裸体の自分に気づき、イルカはますます目をぐるぐるさせた。隣で寝ている男も裸に違いない。裸で、裸の男同士で一緒にベッドに‥っ。
 しかも、あろうことかイルカは男の腕を枕代わりにしていた。その上邪魔だからのけようと。
 身じろぎすると起きるかも知れない。イルカはそっと相手を伺った。
 男は眠っていた。片腕をイルカの枕に差し出し、もう片方をイルカの腰の上に乗せて。
 起こさないように離れようと体を動かした。けれど、腰の上にあった手にぐっと力が入る。動けない。まさか、と顔を上げると、色違いの瞳とぶつかった。
 青い右目と赤い左目。額宛がずり落ちていると思っていたが、あれはわざと隠していたのかも知れない。どこか禍々しい赤い目を。
「はじめまして」
 低い声は、囁くように言った。
「はたけカカシといいます」
「‥ど、どうも‥‥うみのイルカです」
 こんな状態で自己紹介などありえないが、名乗られたら答えないわけにはいかない。イルカは律儀に返答した。
「助けてもらってありがとうございます。里に帰ってきたまでは憶えてるんですが、オレ汚かったでしょう」
 それはもう、と言いたかったが、行儀よく黙っていた。
「久しぶりに死ぬかと思いました。今回はちょっと‥疲れました」
「あ、あの‥」
「申し訳ないんですが、このままベッドをお借りしてもいいですかね」
「え、ええ。それは構いませんが」
 腰に回した手を離して欲しい。
 イルカはいまだ動けない状態をなんとかしたかったが、男はふっと笑った。
「夜も遅いです。あなたもこのまま寝たらどうですか」
「いや、俺は‥」
「眠いでしょう。眠いはずです」
「俺は‥‥別に‥‥‥」
 反論しようと口を開くが、反対に瞼が重くなってきた。まるで催眠術をかけられるように。
 もともとまだ眠りを欲していた体は、瞬く間に睡眠状態へと落ちていく。
「‥‥あなた‥催眠術でも‥使いましたか‥」
 逆らえない眠りの波に、イルカはうつらうつらそんなことを言った。
 それ以降の記憶はない。
 あっさり眠りに落ちたイルカを、男はしげしげと眺めた。
「‥術なんか使ってませんよ。あんたが少し無防備すぎるだけだと思います」
 見知らぬ男の前ですやすや眠るイルカに、カカシはふふと笑った。
(‥‥‥可愛い人見つけちゃった)
 拾われて、浴室に放りこまれて洗われている時点で、カカシは実は目覚めていた。黙ってされるがままになっていたのは、イルカがずいぶん熱心に自分の世話をしてくれていたから。珍しいほどの善意の人だ。あけすけなお人よしぶりに、疲れきっていたカカシは全部任せてしまうことにした。自分でもあつかましいとは分かっていたが、せっかく向けられた自分への善意を最後まで味わいたかった。
 長く離れていた人の温かみだ。
 しかし、際どい部分を洗われた時は心底まいった。
 ご無沙汰だったこともあり、若造のように反応した自身をどうするべきか意識のないふりをして悩んでいると、イルカの手が不器用に触れてくる。その拙い仕草に、カカシは今までになくよけいに興奮してしまい――あの不始末。
 弾けた瞬間、驚いたように漏れたイルカの声にぞくっと腰が震えた。
 一瞬だけ目を開けて見た光景を忘れることができない。腹と胸、そして真っ赤になったイルカの顎に飛び散った己の白濁。もう数センチ上なら唇に触れたのに。惜しいことを。
 茫然自失になっている相手に申し訳ないと思いながらも、カカシはまだ湧き上がる興奮を抑えるのに必死だった。
 背を向けたイルカに、いっそ飛びかかってやりたかった。めちゃめちゃにしたい。そんな凶暴な欲望がカカシを支配しかけたが、再びイルカがカカシの世話を始め、あたたかな湯に入れてくれたことに理性が戻った。
 そんな酷いまねをしてはいけない。
 世話疲れで眠ってしまったイルカを担いで、濡れた服を脱がす。理性を試されている気がしたが、意識のない相手に無体なまねはしたくない。
 体を拭いてベッドに寝かせると、軽く立ち眩みがした。カカシの体力も限界らしい。少し迷ったが、気持ちよさそうに眠るイルカの隣を借りることにした。
 目が覚めたら、びっくりするだろうか。
 ガチガチの常識人に見える。実直そうでお人よし。その人の良さにつけこめるだろうか。
(まずは‥‥)
 自己紹介。
 忘れないように自分を知ってもらおうと考えていた。
 イルカの頭に敷かれている腕は少し痺れてきた。けれど勿体無いので外そうとは思わない。
 何人もの人間が通り過ぎていった中、唯一立ち止まってくれた人。
 この人で良かった。
 なんでだろう。今日は任務を頑張ったご褒美の日なのか。
 それぐらいすごい幸運に思えた。
(‥‥こんにちは‥うみのイルカさん‥‥)
 イルカの寝顔を眺めてあくびをかみ殺して、カカシもまた眠りに落ちていった。










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