□ 孤灯 2
朝になれば、カカシに抱いた薄暗い不安は消えていた。
なにしろ久しぶりの酒の席。よくよく考えれば、あの程度の不可解な言動などいつものことだ。
昨日は偶然のなりゆき。これからも今まで通りあの上忍とは間を置こう。
イルカは迷いなくそう思っていたが、
「――イ〜ルカ先生」
どうしたことか。
帰宅前の自分の前に、カカシが姿を現した。
「‥どうしたんですか」
自然、口調も表情も固くなる。自分でも警戒する理由が分からないが、カカシは一切気にせず、
「いや、ちょっとお話がありまして。時間いいですか?」
「‥込み入った話ですか」
「ええ、まあ」
行きたくない。
この上忍の込み入った話など。考えても予想がつかないところが嫌だ。
「まあともかく。奢りますから一杯ひっかけながらどうですか。なんでしたら、ウチに」
「いえ、いつもの居酒屋にしましょう」
間髪いれず、イルカは飲み屋を指定した。
どう考えても、上忍の家に図々しく上がれる立場ではないし、彼のテリトリーに迂闊に踏み込むのは躊躇する。
「そうですか。じゃ、行きましょ」
カカシは変わらず愛想がいい。早々に歩き出す背に、
――彼女と仲直りでもしたのか。
イルカはそんなことを考えて、少し安堵した。
込み入った話とやらは、きっとその後の結果報告だろう。そして、上機嫌な態度からしてきっと上手くまとまったのだ。
良かったなぁ。
話を聞く前から、イルカは嬉しくなった。
奢ると言われたが、予想通りなら奢ってもいい。
それぐらい太っ腹に考えていたが、
「――イルカ先生のことが好きです」
居酒屋の個室に入って一息つくと、カカシは唐突に言った。
「‥‥‥‥‥‥」
イルカは一升瓶を持ったまま停止し、その言葉を頭の中で繰り返してみる。
好き。それは、ニュアンスによって意味が違ってくるが、どういう意味だろうか。
様々な好意の表現語を頭に浮かべ、真剣に考えていたが、
「肉欲を含む”好き”という意味です」
カカシが言葉を足した。
――笑えない。
どんな意味にしろ、冗談として受け流そうと思っていたイルカは、肉欲という表現に顔色を変えた。
「‥まだ飲んでないのに、酔ってるんですか?」
引き攣った笑いを浮かべてみたが、カカシは覆面を下げて「わかんないふりはやめて」と笑った。
「オレ、本気ですよ。あんたに惚れました。付き合ってください」
「‥女じゃないですよ」
「そんなの関係ないです。オレはイルカ先生の中身の方が大事です」
「‥‥」
一歩も引かない。そんな態度がありありと出ていた。
真面目に話すのがばかばかしい。しかし、相手はいたって本気だ。もはや大笑いして誤魔化せる空気ではなかった。
気まずい空気を、料理を持ってきた店員が消してくれた。
「ひとまず食べましょうか」
カカシが箸を手に言う。イルカも異論はなかった。
あたたかい料理が空腹の胃を満たし、さっきまでの会話が嘘のような雰囲気になる。
いっそ嘘であればいいのだが。
そもそも、どうしてカカシはこんなことを言い出したのだろうか。
どう考えても、カカシが自分を好きだとは思えない。
昨日久しぶりに会うまでずいぶん時間を置いたし、昨夜だってそんな素振りは一度も。
だいたい男同士など、イルカの常識には絶対にありえなかった。
肉欲だなんて――なんて気持ち悪いことを言うのか。
イルカはむかつきを押さえるように水を飲み、ふと思い出す。
そうだ。もしかして、
「‥‥カカシ先生。昨日話していた女性と、何かあったんですか?」
考えられるのは――昨夜話題に出た女性。
「ああ、あの女ですか」
カカシはため息をこぼし、
「やっぱり駄目でした。辛抱強くやっていこうと思ったんですけどねぇ。向こうは限界だったみたいで」
「‥話し合ったんですか」
「もちろん。でもダメです。最後は刃物持ち出してきたんで」
さらっと言った言葉にぎょっとした。
「‥刃物‥ですか」
「そう。さすがに刃物はね〜、痛いでしょ。残念ですけど、あの女は外しますよ」
「‥‥‥そう‥ですか‥」
箸を置き、イルカは力なく相槌を打った。
食欲など、すっかり消えうせた。
いったい何をどうして、刃物を持ち出すまでの喧嘩に至ったのか。
それを淡々と話すカカシも怖い。
それに”外す”とはいったいどういう意味か。
「‥‥だから、俺をからかって気晴らしですか?」
「え、違いますよ」
あっさりカカシは否定したが、イルカにしてみれば八つ当たりにしか思えない。
役に立てなかったのは申し訳ないが、しかしやり口はスマートではない。
さっさと食べて飲んで帰ろうと、イルカはもう一度食事に取り掛かろうとしたが、
「イルカ先生、違いますって」
ふくれたイルカに気づいたカカシが身を乗り出してきた。
顔が近い――と思った瞬間、
ふに、とやわらかい感触が頬にした。
「‥っ、‥わ‥‥」
イルカは声を上げて後退りした。離れてもまだ感触は残ってる。唇の感触。カカシが、キスを‥‥っ。
「‥な、なにするんですか‥‥っ」
「なにって、イルカ先生があんまり疑うから」
「気持ち悪いです! こんな失礼なこと、二度としないで下さい‥‥!!」
衝撃のあまり、イルカは本音を叫んでいた。
言った途端カカシの表情が止まり、一瞬言いすぎたかと思ったが――本当に気持ち悪いのだから仕方がない。
カカシはしばらくイルカを眺め、
「‥はあ、気持ち悪いですか」
頭を掻いた。
「まあ‥仕方ないですね。あんた男なんて知らないだろうし。多少違和感あるでしょうけど、あんまりがっかりさせないでくださいよ。イルカ先生には期待してるんです」
「‥‥‥期待‥‥?」
あぐらをかいたカカシは手袋を脱ぎ、「そう、期待」とおうむがえしした。
「でも、この状態ではあまりいい関係は望めそうにありません。ので、ちょっとそのガチガチの固定観念を壊してあげましょう」
「‥‥、っ‥‥‥」
言うなり、カカシの手が強く腕をひっぱった。
テーブルを倒しそうになり、避けるとバランスを崩して倒れこむ。カカシの腕が支えてくれたが、よりかかる形に慌てて立ち上がろうとすると、
「――‥痛っ」
ちくり、と首筋に痛みが走った。
びっくりして手を当てると、カカシの指が先にあった。ゆっくり離れるその長い指に、尖った針を発見して言葉を失う。この男は、何をしたのか。
「ごめんね。だって騒ぐでしょ」
悪びれなく笑い、カカシはイルカの体を再度腕の中に抱え直した。
「‥‥あ‥‥、‥」
背を預ける形で、カカシにもたれかかったイルカは唇を震わせた。
――体が、動かない。
「大丈夫、単なるお勉強ですよ。ものは試し」
軽い口調は、まるで踊るようだ。
怖い。今頃になって恐怖が体を包み始める。――どうしたらいい。この男は、本気だ。
イルカは乾いた唇を舐め、
「カカシ先生‥今すぐ離して下さい‥‥っ。こんな‥悪い冗談は」
なるべく毅然とした声を出したが、語尾が震えた。
「冗談じゃないですって。オレは本気ですよ」
カカシも当然怯まない
「大声出します‥っ」
「ご自由に。オレは見られても平気」
「‥‥‥っ」
イルカは予想もしなかった現状に頭がまっしろになりかけていた。
抱え込むように前に回ってきたカカシの手が、迷わず下肢へと伸びる。当たり前のようにズボンを下げる動作はあまりに自然で、イルカは喉を引き攣らせた。
「リラックス、リラックス」
カカシが冗談めかしたことを囁き、いきなりイルカ自身を掴んだ。
立てた膝は動かないはずだが、一番敏感な部分に触れた無骨な固い手に大腿が跳ねた。
「‥嫌だ‥ッ!」
たまらず、イルカは拒絶の声を上げたが、閉じられた襖の向こうに人の気配を感じて口を噤む。料理は頼んでいない。だが、奇妙な声に異変を感じ取った店員がひょっこり顔を出すかもしれない。
死んでも、こんな無様な格好は見られたくない。
「そうそう。静かにね」
カカシの胸がぴったりと背中に密着する。後ろから覗き込むために少し前かがみになり、伸し掛かられる。そうすると、イルカの視線も自然と下がり、見たくもない光景を突きつけられた。
やわやわと動き出すカカシの指は固く、まるで別の生き物のようにイルカに愛撫を始める。
見たくない。
イルカは固く目を閉じて現実を拒んだ。
「もうちょっと足広げて」
カカシの手が当然のように大腿に置かれる。体の感覚は少しずつ戻ってきていた。力の限り拒んだが、指が痛いほど肌に食い込む。
その間にも、別の生き物となったカカシの指は変わらずイルカを翻弄し、
「気持ち悪い――じゃなかったんですか?」
確かな反応を見たカカシはからかうような声で囁いた。
気持ち悪い。本当に気持ち悪いけれど、体の熱だけは言う事をきかない。単純な体が恨めしい。
「‥、‥‥っ」
意地悪く引っかかれ、イルカは声を詰まらせた。
カカシの手にすべてを支配されている。熱くなる体に、イルカは歯を食いしばった。
「うそうそ、泣かないで下さいよ」
眦に浮かんだ理由の分からない涙に、カカシが舌を伸ばした。
耳朶に噛みつき、首筋を這うぬめった感覚に背筋が震える。この時、すでに気持ち悪さだけではない、下肢の熱に先導された何かが身体中を蝕んでいた。
「‥‥ふ‥‥、‥‥ッ」
息を吐いて耐えようとしたけれど、それはまぎれもなく快楽で。
もぞもぞと動く足の指が、時々ぴんと張り詰める。
カカシの手の中で限界にまで育った恥知らずな自分に、イルカは首を振って否定した。
悪夢ならいい。今すぐ醒めて欲しい。
「ああ、このままだと顔にかかりますね」
ふと気づいたように、カカシは手近の布を被せた。うっかり目を開けたイルカは、少し遅れてその意味を知る。怒りと恥に、耳まで赤くなった。
カカシはそんなことはお構いなしに、布の上から再度愛撫を与え、
「それもいいですけど、やっぱり最初はオレのじゃないとね」
さらりと卑猥なことを口にする。
「‥あんたなんか‥‥っ」
激情に拳を震えた。この腕を振り上げるだけの力が残っていれば。
身もだえするイルカに、抱えるカカシの腕に力が入る。
「そろそろ切れてきた? じゃあ‥」
「‥あ‥ッ、‥‥」
急に激しい愛撫に変わった手に、イルカは声を絞り出されるように上げた。
痛いほど敏感な皮を擦られて、痺れて感覚がない。でも確かな熱い奔流が、密着したカカシの身体から入り込んでくるようで、頭が高く痺れた。
崖の端まで引っ張り上げられる感覚に息が荒くなり、イルカの手は自然と縋るようにカカシの服を握り締めていた。
「や‥‥っ、‥‥」
「ほら、イって」
まるで、首筋を這うような低い声だった。背筋がぞわりと震え、もはや限界に来ていたイルカは声にならない悲鳴を上げて達した。
「‥ぁ‥、‥‥‥‥‥ッ」
大腿が何度も大きく震えた。足の指先は引き攣るように伸びて、手は硬直したようにカカシの服を強く握り締めている。
被せられた布が擦るように拭き取られる様を、イルカは呆然と見ていた。
カカシの指が赤くなった先端を撫でるように擦り、意地悪く力を入れて残りをしぼりだそうとした。イルカが嫌がると、上着のすそから入り込んだもう一方の指が、強く胸の先端を挟みこむ。感じるとは思っていなかった胸の強い刺激に身体が震え、
「‥あ‥、ぅ‥‥っ」
眉をきつく寄せて、イルカはうめき声のような喘ぎをもらし、カカシの指を白濁で汚した。
「よくできました」
カカシの唇が頬に押しつけられる。
イルカは何も言えなかった。まるで全力疾走をしたような脱力感が身体を襲い、なにより与えられた強烈な快感に眩暈がする。
身体の自由を奪われて、無理矢理だったけれど――自分は確かに快楽を貪った。
こんな居酒屋で。
どうしてこんな屈辱を受けなくてはならないのか。
「ね? 男同士もなかなかいいもんでしょ。つーか、イルカ先生、予想以上にそそられるんでオレ落ちつかないですよ。本当に男知らないの?」
まだ身体の動かないイルカの服を直し、カカシが朗らかに言った。
「まあ、オレの本気も分かってくれたでしょうし。そろそろ返答をもらえますか」
――オレと付き合ってくれますか?
あんな無体を強いた後で、カカシはにっこり笑って言った。
ありえるか、馬鹿。
イルカは力の入らない腕を上げ、テーブルからコップを取った。そして、中身の水をカカシの顔にぶちまける。
「‥‥‥あ〜あ」
滴る水に、カカシはため息をついた。
「交渉決裂ですか」
「‥当たり前だ‥‥っ、ふざけるな‥‥!!」
「ふざけてないって、何度言えば分かるの」
カカシはゆっくり立ち上がった。その動作に、反射的に体が後退りをする。まだ完全に感覚が戻っていない。何かされる前に、今度こそ人を呼んで助けを呼ぶつもりだった。
カカシは青ざめるイルカを見下ろし、
「‥ねえ、いいからオレのものになりなさいって。誰よりも愛するし、優しくするよ? オレは最高の恋人になる」
「‥うるさい‥‥!」
イルカは残ったコップを放り投げた。カカシはひょいっとそれを避け、
「あ〜‥もー、ご機嫌ななめだね」
濡れた髪を振り、カカシはがしがしと頭を掻いた。
「まあ、いいや。すぐには返答できないでしょうから、時間をあげます」
放り投げていた手袋を取り、覆面をつけたカカシはイルカの横を通り過ぎた。
「払っとくんで、ゆっくりしてって下さい。身体は自然と元通りになりますよ。‥‥っと、危ない危ない」
また飛んできた食器に、カカシはおどけた口調で笑った。
「じゃ、またね」
「‥‥っ」
最後まで飄々とした態度が、むかむかするほど腹が立った。
閉められた障子に、イルカは力任せに畳を叩く。
返答など、時間を与えられるまでも無い。
――殴る。
次に会った時、絶対に殴る。
イルカは唇を噛みしめ、カカシとの完全なる絶縁を心から誓った。
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