□ 孤灯 3
次の日、カカシがまた現れるだろうとは想像ついていた。
帰路についたイルカの前に、細身の男はひょっこりと姿を見せて、
「決まりましたか?」
いつもの緊張感のない声。
周囲に人気はない。
薄暗い通りでカカシと向き合い、イルカは昨夜の決断通り行動した。
振り上げた拳は――気持ちがいいほどカカシの顔に命中する。
「‥いったー」
少しだけ上半身を傾ぎ、カカシは殴られた部分に手を当てた。
いい気味だと心から思ったが、カカシは頭を掻いてため息をつく。
心底うんざりした態度を隠さず、
「イルカ先生。あんたとオレは、まだ恋人同士じゃないです。‥だから、単なる知人としてお返ししますよ」
突然、イルカの視界がぶれた。
「――‥‥っ」
強い衝撃に倒れそうになり、足を踏みしめて堪える。
――殴られた。
理解した途端、拳を食らったこめかみの辺りがずきずきと痛み始めた。
怒りがふつふつと湧き上がり、カカシを睨みつけると、
「加減はしましたよ。あんたの力に合わせて」
カカシはしれっと答えた。
「ねえ、イルカ先生。覚えておいて? あんたが暴力を振るうなら、オレもそうします。でも、あんたが愛情をくれるなら、オレも愛情を返しましょう」
「‥なにを‥っ」
真顔で述べる男の神経を疑う。
いや、神経などこの男にはもともと有りはしないのだ。
「ふざけるな‥っ」
もう一度イルカは拳を振り上げたが、今度はあっさり避けられた。
たたらを踏むと、
「もう殴りたくないんで、今日は退散しますよ」
呆れた声を残してカカシは消えた。
それから、色々なことが分かった。
得体の知れないカカシに、本気で自身の危険を察したイルカは男について調べ、自分以外の影を見つけた。
カカシには幾人かの恋人がいる。それぞれが恋人と名乗るのだから間違いない。
男は自分ひとりのようだが、それでも十分に非常識だ。
複数の人間を囲うカカシ。
”あんたも入れる”という言葉は、文字通りその中に入れるということだ。
――同じに扱われてたまるものか。
イルカは憤慨した。
得体の知れない部分を除けば、上忍としてカカシが魅力的な男であるとは認めるが、彼の恋人である女性たちの気も知れなかった。
カカシが複数の人間を囲っているのは、聞けばかなり知れ渡っていることで。
彼女たちは承知の上で、カカシと付き合っているのだ。
信じられない。
カカシは数日姿を見せない。
そのことにイルカは安堵していたが、考えるのはあの男のことばかり。
いつ現れるか分からない相手に心が休まる時もなく、イルカは日々緊張感を募らせていったが――ひとりの女が突然、イルカの前に現れた。
「あの男によけいな助言をありがと」
妖艶な美女は、開口一番皮肉を吐いた。
あの男、と言われてすぐに分からなかったが、女の顔に見覚えがある。
そうだ。
たしか、あの時カカシの頬を叩いた女。
「あの後、しつこく粘られたわよ。まだやり直せるって。変な入れ知恵しないでよ。死ぬ直前までいったわよ」
「‥あの‥」
「あたし、明日遠征に出るの。あの男ともやっと縁が切れたし、やり直すわ。‥でも、入りたてのあなたの事が気になってね。お節介よ。黙って聞いて」
女は、まるで急かされるように矢継ぎ早に言った。
「カカシに付き纏われても、しばらくの辛抱よ。そのうちあいつは死ぬわ。囲われてる全員、もう限界に近いのよ。カカシの愛情はおかしい。誰も理解できないわ」
――死ぬ。
悪い冗談かと思ったが、女の目は恐ろしく真剣だった。
イルカは呆然と女を見詰め、ふいに気づく。
「‥もしかして、あの後殴られましたか‥‥?」
「しっかりやり返されたわよ、あの異常者。暴力には暴力で。愛情には愛情でだって。‥‥どこまで本気か分からないわ。ナイフを持ったらやっと引き下がったけど、きっとめんどくさくなったからよ」
イルカはもう何も言えなかった。
女はちらり、とイルカを見上げ「本当に危険を感じたら、誰かに助けを求めるのよ」と、告げた。
迷いも未練もなく、颯爽と立ち去る女を見送ったイルカは、ふわふわする足元に眩暈がした。泥沼に沈んでいくような感覚だ。
今の話、すべて嘘ならどれだけ救われるか。
それから、カカシの恋人の一人と接触した。
話を聞けば、彼女の言うとおり、やはりカカシを恐れていた。
カカシの愛情は怖いと。
愛すれば、それはそれは優しくしてくれる。
最初は嬉しかったけれど、だんだん怖くなった。
カカシは一切の裏切りを許さず、時々その愛情を試してくる。
――カカシが怖い。
人の心は、永遠じゃないのに。
泣き崩れた細い背を慰め、イルカは話してくれた礼を言った。
しばらく辛抱していればいい。
旅立った女はそう言っていたけれど、もはや見過ごしていい状況ではなかった。
保身を忘れたわけではないが、気がつけばカカシを待ち伏せしていた。
「おや、珍しい」
カカシは任務帰りのようだった。
こちらの姿を見つけると目を細め「返事が決まりましたか」と笑う。
しかし、露な右目には感情を見つけることはできない。イルカは腹に力を込め、
「カカシさん。こんな方法じゃ、誰もあなたを愛してくれませんよ」
「うわ、つまんない返事」
まるで予想していたかのように、即座に切り返された。
「オレもズケズケ言う方ですが、あんたもけっこう直球ですね。でもあいにく、そんな恥かしい台詞は聞き飽きました。――オレに説教すんなよ」
「‥では、また殴りあいますか」
殺気を向けられてもイルカは怯まなかった。震えを許さず、覚悟を決める。しかし、
「つまんないですよ。オレは、もっといやらしいことしたいです」
「‥‥‥っ」
イルカは息を飲み、動揺を隠した。
「あれも言ってみれば身体のぶつかりあいでしょ。どうせなら気持ちいい方がいい」
「‥お断りです‥っ」
「ありゃ、それが返答?」
そうだ。誰が、あんたなんかと―――。
「‥‥っ」
続けようとした言葉は遮られた。
強く腕を引っ張られ、気がつけば間近にはカカシの顔。
口付けられる恐れに仰け反ると、髪を毟り取られるほど掴まれた。
「暴れないで」
イルカの顔を掴み、カカシは覗き込むように言った。
「なんとかしたくて、オレに会いに来たんでしょ。なら逃げるな。オレと戦ってみなよ」
茶化すような声音ではない。
思いのほか真剣に響いた言葉に、イルカは抵抗を忘れた。
触れて、唇を割って侵入する舌に、覚悟を決めて目を閉じる。
執拗にからんでくる舌は強く、カカシの息がかかる度に背筋が震えた。
背にすべったカカシの手が腰に回り、強く自分と密着させる。服の上から適度な力で尻を揉み、更に奥へと指でなぞっていく。
「‥、‥‥」
振り払いたい嫌悪感を抑え、イルカはカカシに身を任せた。
それどころか、暴虐な舌に自分から舌を合わせて、軽く歯を立てる。
こんなやり方、不本意だ。
だが、カカシが望むならば――断る余地は自分には無い。
踏み込むならば、
彼のルールで。
ようやく唇を外したカカシは面白そうに笑い、
「確かに、返答はいただきました」
イルカの身体を抱きしめた。
「今日からあんたはオレの恋人です。――せいぜい頑張ってね」
今夜の決断を、きっと後悔する時が来るだろう。
当然のように手を引かれ、カカシの家に行くイルカの心は言い知れぬ寂しさに包まれていた。
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