□ 孤灯 4
「なんか飲みますか」
台所からの呼びかけに、イルカは首を振って断った。
喉は乾いていたが、カカシの家で何かを口にしようとは思わない。
「じゃあ、もうやる?」
カカシが笑いを含んで言う。
イルカはため息を隠し「‥やっぱりお願いします」と言い直した。
カカシの密やかな笑いが聞こえ、しばらくすると湯気の立つお茶を持ってきた。てっきり水か酒がそのまま出てくるかと思ったが、わざわざ入れてくれたのか。
「‥どうも」
礼を言って手を伸ばすと、少し冷えた指が温められた。一口飲んで、ほっと息を吐く。ちらりと家の中を見渡して、普通の家だなと感想を持った。
上忍の、しかも変わり者なカカシの家だから何か特異な環境を想像していたが、意外にも普通だった。狭くもなく広くなく、観葉植物まである。
背を丸め、あぐらをかいて茶を含むカカシに、イルカは緊張に背を正した。ん? と顔を上げる相手に、
「‥‥他の人と、別れてくれませんか」
ずっと考えていた事を伝えた。
カカシは顔色を変えず、
「なんで?」
理解できないといった顔で首を傾げた。予想通りの反応に驚きはしないが、次の言葉に詰まる。言いたくはないが、
「‥俺ひとりでは駄目ですか」
今のカカシとの関係を認める言い方に、自然と口調も重くなる。カカシはテーブルに肘をついて顎を支えた。
「駄目じゃないですけど‥あんた一人でオレの面倒見れるの?」
何様の台詞だ。
イルカは頭が痛くなったが、本気で言っているだけに始末が悪い。
「‥あなたは‥具体的に何を求めているんです」
「主に色事」
「‥‥‥」
「そんな険しい顔しないで下さいよ。もちろんそれだけじゃないですって」
「‥真面目に話してください」
イルカは渋面した。話が進まない。この男は人を茶化してばかりだった。
ぴりぴりする空気にカカシは面白そうに目を細め、
「‥ねえ、イルカ先生。よい子ちゃん精神も結構ですが、オレはやり方を変えるつもりはないですよ。お試しは多い方がいい」
「そんな言い方‥っ」
「オレにとっては事実です。ま〜ぶっちゃけるとですねぇ」
カカシの指が空になった湯のみを回す。不作法だと窘めたかったが、次の言葉の方が気になった。焦れるイルカに、露な右目がにっこり微笑んだ。
「――オレはね、従順で望みどおりに愛してくれる恋人が欲しいんです」
「‥そ‥‥」
呆れた。
イルカは唖然とカカシの顔を見た。
「‥‥そんなものは恋人とは言いません。奴隷です」
「オレにとっては恋人です。だってめちゃめちゃ愛しますもの」
「では、あなたの愛し方がおかしい」
「うわー、ひどい暴言」
傷ついた、と顔を覆うが、唇の端は大きく上がった。嫌な笑い方だ。
「‥オレのことをもっとよく知ってから言ってほしいですね」
指の間から覗く目が、別の感情を持ってイルカを見る。伸ばされた手が二の腕を掴み「行こ?」と、ベットへ促された。
「‥風呂ぐらい、入るもんじゃないですか」
時間稼ぎのつもりはなかったが、他人のベットの感触に落ちつかない。
カカシは結わえたイルカの髪を解きながら「繊細ですねぇ」と笑った。
「そんなもん必要ないですよ。どうせぐちゃぐちゃになるのに」
こめかみに触れる唇に寒気が走る。思わず頭を振って払った。
ここに来たのは間違いではなかったのか、不安は大きい。おそらく間違いであっただろうが、もはや後戻りはできない。ならばせめて、その先に救いのある正解があることを祈りたいけれど、
「‥あなたは、従順で望みどおりに愛してくれる恋人なんて、本気で思ってるんですか」
「本気ですよ」
壁に背を預けるカカシが、額宛を外しながら肯定した。
「――わざわざ教えたのはあんたが初めてです」
整った造形は、つかめない微笑みを殊更空虚なものに見せる。
「それだけイルカ先生には期待してるんですよ。‥あんたは情が深そうだから、きっとオレの理想の人になる」
「うわべだけ、あなたを愛してると言えと?」
「とんでもない。――心の底からオレのことを愛してください」
「あなたなんか嫌いです」
「大変けっこう。躾けがいがありますよ」
両脚を開き、カカシは薄く笑ったまま「咥えて」と言った。イルカが躊躇うと、
「恋人の務めですよ」
当然のことだとばかりにカカシが促す。
イルカは手をついて、上体を屈めた。じっとり浮かぶ冷や汗に、できれば今すぐ逃げ出したいけれど、
――こんなことは、たいした事じゃない。
そう思うことで、圧し掛かる暗闇の時間を拒否した。
***
カカシの恋人、という認めたくない位置についてから数日が経過した。
カカシは夜になるとやってくる。それさえ除けば、イルカは変わらない生活を送っていた。 あの男は無口だ。
会えばぺらぺら何か喋っている印象があったが、いざ深い関係になるとカカシは沈黙を好んだ。イルカもあえて何か語りたいとは思わないが、無言の間に慣れていないので多少居心地が悪い。
毎夜現れる男に、できるならもう来るなと言いたいが、彼の輪に入ったのは自分だ。
だから、
「――私はね、本当にあの人を愛してるのよ。あなたとは違うわ!」
白昼堂々見知らぬ女に罵られるのも、きっと仕方がないことだ。
「‥‥あの人とは、カカシさんのことですか」
イルカはため息を隠し、目前に立つ女に問うた。
「そうよ。私はあの人の恋人ですもの。愛して、愛されて、あの人の物になった。男のあなたには分からないかしら?」
「‥あいにく、男なので分かりません」
「開き直らないでよっ、そんな無骨な体で、よくあの人を誑かせたものね! 言われる前に気づきなさいよ。あなたと違って、私はあの人のすべてを受け入れられるし、愛を育むことだってできる。私にはあの人だけなの。あの人を愛してるの‥‥!」
――この女性は、いったい何度愛という言葉を口にしただろうか。
考えようとしてやめた。頭が痛くなって、思わずため息がこぼれるが――途端、
「‥‥、‥」
ばちん、と派手な音を立てて頬を叩かれた。
「私を馬鹿にしてるの‥!? あの人を独り占めして、さぞ気分がいいでしょうね! 私から愛するあの人を奪って‥よくそんなふてぶてしい態度がとれるものだわ!」
きんきんと響く女の声に、イルカは眉を顰める。
どうやら怒れる美女は、連日カカシが自分の元に入り浸ることにやきもちを焼いているようだ。
ちらちらと集まる人目に、公衆の面前で叩かれたイルカは多少腹が立った。理不尽極まりない。しかし――彼女が悪いというわけでもない。
「‥‥‥」
イルカは睨みつけてくる女を見つめ、その奥を覗き込むように凝視した。
まっすぐな視線を受け、女は少しだけ眼光を緩める。その先に――彼女の隠された感情が見えた。
――怯えている。
イルカはそれを確認すると、そっと手を伸ばし、女の腕を掴んだ。
後退りする身体を怖がらせないように胸に引き寄せる。細身の女はすっぽり入った。腕で囲い、ぽんぽんとその背を叩く。
「なんとかしますから」
囁く言葉に、女の背がぴくりと反応する。
多くの説明は必要ない。その言葉だけで、女にはイルカの真意が伝わっただろう。その答えのように、女は先程とは別人のように大人しくなった。
腕を緩めると、眼差しが仰ぐ。興奮に顔を赤らめて叫んでいた女の双眸は一変して、静かな虚ろな目をしていた。
桜色の唇は頑なに閉じられ、動かない。そのままイルカの腕から抜け出ようとするが、
「でも、もし‥‥」
言うつもりはなかったが、イルカは思わず口を開いていた。
「‥‥もし、本当に心から‥カカシさんを想っているのなら‥」
怯えだけじゃなく、カカシに対して心から愛しいと想う気持ちが存在するならば。
何もかも理解しているわけじゃない。
とくに女性の心情は深く、男の自分には踏み入れない。もしも、彼女の中に怯えだけじゃなく、本当にカカシを愛しいと想う気持ちが存在するならば、自分が口出しするよりも彼女の気持ちの方がきっと、カカシを変える。
返答まで、長い沈黙があった。
女は艶やかな髪を揺らし、静かな目線をイルカに向ける。
桜色の唇は、ゆっくりと動いた。
「――愛って、何?」
イルカには答えることはできなかった。
立ち去る女を見送り、胸に広がる苦味に表情は重くなる。
大声で叫びたい気分だし、誰とも喋らず酒を飲みたい気分でもある。要は最悪だ。だから、あの男の声がした時は本気で殺意が生まれた。
「行きましたか」
いることは知っていた。しかし、声をかけてくるとは思わなかった。
音もなく現れたカカシは、ポケットに手を突っ込んで歩み寄ってくる。
「いやー怖い怖い。なかなか情熱的な女でしょう。あーあ、真っ赤になって――むかついた?」
叩かれた頬をさわられそうになり、イルカは強くその手を叩き落した。
「あなたがけしかけたんでしょう」
怒りを抑えたつもりだが、語尾が震える。カカシは朗らかに目を細めた。
「ご名答。よく分かりましたね」
「‥‥陰から覗いて自己満足に浸っていればいいものを。わざわざ俺に声をかけて、何を思い知らせたいんですか」
「怒ってるんですね。――殴る?」
「‥意味のないことはしません」
「そうですよね〜。怒られる理由なんてないもの。オレはただあの女に、オレへの愛を見せてと囁いただけのことですもの」
「‥‥‥」
堪える拳に力がこもった。殴れるものなら、殴りたい。だが、それでは意味がない。
奥歯を噛みしめるイルカを、カカシは観察するように眺めていたが、ふいにため息をついた。つまらない、面白くないと言葉がなくとも伝わってくる。
「‥オレねえ、あんたのそういうとこ嫌い。嘘っぽいよ」
「平和主義ですから」
「はーなるほど。自分で認めるんですね」
あ、そうと上から見下ろし――カカシはにっこり笑った。
「まあいいんじゃないですか。あんたらしくて。せいぜい愛想よく、誰にでも好かれるいい子でいなさい。でもオレのことも忘れないで。今夜行きますから」
カカシが立ち去り、一人になったイルカは物思いにふけった。
”オレへの愛を見せて”と囁かれた女は、何を思って自分の元へ来たのだろうか。
愛とは何かと訊ねられた。答えられるはずもないのに。
狂ったように愛していると叫ぶ姿を見ながら――カカシはいったい何を思ったのだろう。
彼らの心はイバラだ。
あまりに痛い。
イルカは義務的に足を動かし、迷路の思考から歩き出した。
***
夜になると、カカシは宣言通り訪れた。
いつもは先に食事をしたり、適当に時間を過ごすが、その夜はすぐにベットへ引きずり込まれた。
性急なカカシに、イルカは抵抗しない。けして慣れたわけではないが、抵抗するだけ無駄だと分かっていた。
「昼間の女にどんな入れ知恵したんですか?」
ぺたりと上に乗り、カカシが間近から見つめる。
「こそこそ何か話してたでしょ。言っときますが数を減らすつもりはないですよ」
「‥べつに何も」
答えて、イルカはじっとカカシの眼を覗きこんだ。
昼間の彼女のように、この男の本心が見えないだろうかと探ったが、持ち上がったカカシの手がイルカの目を塞いだ。
「あんまり左目見ないで。頭が痛くなりますよ」
そのまま、唇が押し当てられる。
――視線を遮ったのは、本当にその為か。
カカシの真意はつかめず、上唇をなぞりながら押し入る舌が、長い夜の始まりを教えた。
性急であったが、一度終えるとカカシは満足したように身を寄せる。
イルカの髪の毛を弄るのが好きらしい。嫌そうな顔をすると、カカシは空気を震わせた。密やかな笑い。その意味は分からない。
「ねえ、オレのこと好き?」
囁かれる睦言はいつものこと。答える台詞も決まっている。
「好きじゃありません。嫌いです」
疲労からいつもより素っ気無く言うと、カカシは喉を鳴らして笑う。
「‥はいはい。あんたに色っぽい言葉を望んだオレがバカでしたよ。てゆーか、あんたは本当に物覚えが悪いね。オレが要求した時は、はい好きです、愛してます、て言ってればいいの」
「心にもないことは言えません」
「‥可愛くない」
不毛な会話。いつもならそこで終わるが、
「――オレを気持ちよくさせられないなら、なんであんたオレの恋人になったわけ」
今夜のカカシは続けて言った。核心に触れる問いかけだ。
カカシなりに探りを入れているのかも知れない。しかし、イルカには難問だった。
なんとかしたいと思った。
誰もが不幸になる現状に、関わった以上できる限りのことをしたかった。
何のために。自己満足か。そうかも知れない。
次々と浮かぶ自問と回答に、イルカは目を瞑った。
行動するのに――はたして理由が必要か。
なんとかすると、あの女性にも言った。
それで十分だ。
しかし、あえて言うならば、
「あなたを――知りたいからです」
ここまで来たら最後まで付き合おう。
イルカは真剣に答えたが、
「熱烈〜」
カカシの反応はあくまで軽かった。のっそりと上にのっかり、
「あんたって可愛くないくせに殺し文句は心得てますね。上手いですよ。これで閨の方も上手くなれば文句ないんですがね」
優しいとも言える微笑を浮かべた。
知りたいからと言葉で言うのは簡単だけれど、
「‥もう嫌です」
「やだ。もっかいやる」
それがどれだけ困難な道か、イルカには想像もできなかった。
***
新しく恋人に迎え入れたイルカ。
自分のものにしたのに、あの男はちっとも思い通りにならない。
絶対に”好き”と言わない厚い唇。噛みつくようにキスすると、目を伏せる。その仕草がいい。自分に対して素直すぎるところは憎たらしいけど――まだ始まったばかりだ。
元来のイルカの頑固さも広い目で見ればかわいいもんだとカカシは思っていた。
今はまだいい。わがままも許す。
それに、対等であろうと踏ん張り、屈しないイルカを組み伏して陵辱するのは気分が晴れる。どんなに気張っても、結局はこの腕の下で泣くんだ。今はその満足感だけで十分だった。
しかし、どうも最近こそこそ動きまわっている。
現状を改善しようと気張るイルカがどう動くか、内心では面白いと思っているが、
「どうしても別れたい?」
目前の女に、カカシは何度目かの問いを口にした。
今週になって何人目か。
入れ知恵をしているのはイルカだ。
今までカカシの思い通りに動いていた女たちは、”別れたい”と意思表示するようになった。根性のない。まったく面白くない展開だ。
「そんなにオレが嫌だった? こんなに愛してるのに」
囁くと、女の肩が震える。
陽光が照らす昼間の通り。人通りもそこそこあり、ここなら安全とでも思ったか。
カカシはゆっくり屈み、女の髪に唇を押しつけた。
びくり、と震える肩を抱き、
「ゆっくり話そうか」
静かに、優しく促した。
――シンプルな世界で生きてきた。
上っ面なんて信じない。世の中そんなものだ。
重要なのは駆け引き。男と女の間でも。
恋人は裏切らない者がいい。
打たれ強く、情に熱い者。
カカシが最も嫌った、そんなごちゃごちゃした世界で生きている人間に、自分のシンプルな世界を押し付けたかった。
打たれ強く、情に熱く――おそろしくお節介なイルカ。
面倒を作り、思ったより厄介だが、やはり一番理想の人間に近い。
彼に、自分を愛していると叫ばせることができたら――オレの勝ちだ。
オレもまた、大声で叫んでやろう。
愛していると。
平和主義者と自認する白い生き物。
――あんたの至上の愛を見せてみろ。
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