□また明日 2









 カカシは完全にイルカのことを忘れていた。
 朝目覚めて、同じ布団の中に知らない男がいたら、忍びなら誰でも同じ行動をするだろう。だから、殺す道具を向けられても仕方がない。当然の反応だとイルカは自分を納得させ、落ち着かせた。傷ついてる場合じゃない。
「俺は…イルカです。うみのイルカです。カカシさん、落ちついて、思い出して下さい」
「……は……?」
「イルカです。アカデミー教師の」
 覆い被さり、クナイをびくとも動かさないカカシの顔が、微妙に変化した。眉を顰め、色違いの瞳は遠くを見るように視点が定まらなくなる。それは数秒のことだったか、ふいにクナイがシーツの上に落ちた。
「そうだ……イルカ先生。あなたはイルカさんだ」
「そうです。俺です」
 安堵に全身の力が抜けた。理性に満ちた瞳を取り戻したカカシは、落としたクナイを見て、突然ぎゅっとイルカを抱きしめた。
「今、急に恐くなりました。――オレ、あなたを忘れていた。それだけじゃない。…思い出せる人間の数が、あなたを含めてほんの僅かしかいない」
「カカシさん……」
「またこんなことをするかも知れない。オレが厄介者になる前に隔離した方が…」
「それでは敵の思うつぼですっ。……それに、誰があなたにそんなことを要求しますか。隠れる必要なんかありません。木の葉の里の人間として堂々としていればいいんですよ。大丈夫。火影様や俺たちがいます」
(そうだ。俺がしっかりしなくてどうする)
 想定されていたことなのに思わず動揺してしまった。支える人間がそれでは、カカシだってしっかり立っていられない。イルカは奮起し、
「メモで確認しましょう。記憶の状態を…」
「後で」
「は……、ちょっ……」
 上着の裾から入り込む冷たい手に、イルカは仰天した。宥めるように頬にキスされたが、そんなことで誤魔化されるものか。「あなたね、今はそんな状況じゃ…」
「――またこんなことがあっても、オレを見捨てないでくれる?」
「…え…」
「オレがオレでいられることを、あなたが認めたんだ。イルカさんはいつだって、当たり前のように受け止めて、褒めてくれる。先生だから? …でもどっちでもいい。脱いで」
「カカシさん、朝の準備も色々と……」
「オレに抱かれるのはいや?」
 ずるい。
 真っ赤になって黙り込むイルカに、カカシは笑ってキスをした。
 
 
 それから、朝は一番辛い時間となった。
 眠る前は唯一無二の恋人が、目覚めると別人。
 一回目のことを考慮して、同じ布団で眠ることはやめた。カカシより先に起床し、その時を待つ。
 目覚めたカカシはいつも記憶のほとんどを無くしていて、当然自分のことも知らない。
 メモを頼りに様々な里の人間のことを話すにつれ、なんとか思い出してくれる。
 その間カカシは他人のようによそよそしく、隠し様の無い警戒心が見えた。そんな彼に、自分のことを話す時が一番つらい。
 恋人だと。一緒に暮らしていると伝えると、
「は?」
 なに言ってんだ、という顔をされる。
 だが時間が経つと、
「‥‥‥ああ、そうだ。イルカ先生。――オレの恋人の、イルカ先生」
 抱きしめられて、やっとイルカも安堵する。
 しかし、思い出すまでの時間が日に日に開いてきている。時には完全には思い出してくれず、繰り返す内に、カカシの中の愛情まで削れていくようだ。今では恋人と思い出しても、どこか遠慮がちで。
 分かっていながらも、イルカにはどうすることもできなかった。
 術は確実に進行している。
 ――もうこんなメモ使いたくない。
 毎朝伝えるメモの重要性は理解している。それだけがカカシを里と自分に繋げている。だがもう、イルカには耐えられなかった。
 いっそ、朝が来なければいいのに。
「…オレを馬鹿にしてんの?」
 術が判明して半月、カカシはとうとうイルカが恋人であることを忘れた。思い出しても、子供たちの元担任として。甘い感情など一欠けらもなく、
「あ…失礼しました。お世話になっています」
 猫背をさらに丸く、頭を下げる。まるで出会った頃のようだ。イルカは自然に頭を下げ、涙を堪えた。
 これ以上は我慢できない。完全に忘れられることを考えると、頭の中がひっくり返る。
 いっそ――自分で終わらせたい。
 敵の行方も分からず、術の内容も判明できない。どん詰まりの状況は、追い詰められたイルカの精神を強迫した。
 ある朝、イルカはメモの中から一人の人間の名前を抜いた。
 自分の名を。
「……以上です。あなたは、この木の葉の里の忍び、はたけカカシです」
「それは…分かりました。ところで、あなたは」
 訝しげな目線に、イルカはずっと練習していた笑顔を見せた。
「世話役の者です。…うみのイルカと申します」
「そうですか。どうぞよろしく」
 にこりと微笑まれた。
 毎朝、恋人だと告げた時のあの嫌そうな顔に比べたら雲泥の差で、イルカは心底ほっとした。だが、同時に深い喪失感を味わった。カカシはもう名前を言った程度では自分を思い出さず、
 その日からイルカはただの世話役の人間になった。
(いつかは――こうなるはずだったんだ)
 その日を突きつけられる前に、自分から迎えた。意気地なしと呼ばれても仕方がない。だがもはや他人になるしか、この痛みから逃げられなかった。
(逃げられなかった……そうだ。俺、逃げ出したんだ)
 アカデミーの仕事を終えて、イルカは夕刻帰路についていた。
 普段通らない道を使った。家に帰りたくない。暗部の見張りがついた家で、カカシは一人でいる――その彼から逃げ出したという事実が、イルカに衝撃を与えた。
 遠回りした道は、背の高い雑草が生い茂る細道。
 普段は一般人が通る道だが、夕刻になると急に人気がなくなる。以前は身を売る女が夜な夜なこの道に立っていた。今は規制が厳しくなり一人もいないが――カカシと出会ったのはここだった。
 秋風が吹く道から、今でも血の匂いが香ってくる気がする。記憶が覚える匂い。懐かしい。彼がいたのは雑草の中。
 道に背を向けて座り、丸い背中は夕焼け色に染まっていたが、それはすべて血だった。頭から泥と血に塗れ、ひどい匂いがした。まるで別の生き物。逢魔が時の妖怪のようで、度胸の据わった商売女ですら戦かせた。
 その日は誰もが避けた道を、イルカは偶然通った。里の教育委員会の一員として、身を商売道具にする女性の補導が目的だったが、
「もし、そこを行く方」
 異形の生き物に声をかけられた。正直びっくりした。荷物かと思っていたので。それほど存在感のない男は、低い小さな声でぼそぼそとつぶやく。
「人肌が欲しいんだ。こんななりしてるけど、金ならいくらでもあげるから」
 内容から、イルカを商売女と間違えていることが分かった。背を向けているからだろうが、失礼極まりない。こういう男がいるからいけないのだと、イルカは大口を開けて怒鳴ろうとしたが、
「オレを抱きしめてくれない? ……帰ってきたオレを」
 イルカは男が任務帰りであることを察した。浴びている血ははたして彼の血か他人の血か、ケガをしているなら手当てをしないと感染症の恐れがある。何をぼんやりこんな所で女を口説いているのか。
 イルカは色んなことを考えて、最終的に血まみれの男の背に膝をついた。
 この人は、帰ってきた証が欲しいのだ。意識はきっとまだ戦場を彷徨っている。里のために、生きるために戦って帰ってきた人を抱きしめて何が悪い。
 ――おかえり。おかえりなさい。
「…あれぇ…? 男…?」
 ぎゅうと抱きしめると、男はわずかに苦笑を滲ませて呟いた。
「……でもいいや」
 あっと声を上げる間もなく、ぐいっと草むらに引っ張り込まれた。しまった。愚かにもここまで予想していなかった。「あの…っ」大慌てでつかまれた手を引っ張るが、鉄の輪のようにびくともしない。男はぐんぐんと草むらを突っ切って、ざぶんと川に入った。あげく、腰まである水の中にひきずりこまれる。
(こ、殺される…!?)
 本気でそう思ったが、男は窒息前に顔を出した。そして、咳き込むイルカの唇を塞いだ。キスだ。濃厚で舌まで入った。「…ん…っ」抗うと、簡単に外される。滴り落ちる水が散って、間近で初めて男の素顔を見た。同性から見ても整った顔で、どこかで見たような…と確認する前に、岸に担ぎ上げられ――互いに肌を重ねた。
 こんなこと不本意だ。
 だが濡れた肌がリアルに性感を呼び覚まし、認めたくないが擦れただけで興奮した。覆い被さる男は自分を抱く気満々で、受ける側となったイルカには何もかもが未知の世界だった。
 抱きしめてくれと言われて、抱きしめたなら――それは了解という意味になるのか。
 いまさら愚にもつかぬことを考えて、うつ伏せにされたイルカは男の男根に征服された。灼熱の生き物は何度もイルカを突き上げ、奥で情欲を吐いた。それが跳ねる余韻に、イルカはぼうっとした目で低い月を見る。月に見られているのがむしょうに恥ずかしい。知らぬ男に抱かれて、喘いでいる自分が。
 尻から出たそれは、間を置かずにまたイルカの中に入った。水とは違う濡れた液が、リズミカルな動きを助長する。足を抱えられて上向けにされ、当然のようにキスをされた。男は少し乱れた息で、
「…感覚が戻ってくる。あんたと触れ合ったところから…なんで?」
 訊かれても困る。溶けた頭は使い物にならず、イルカは答えの代わりに男の背に手を回した。
「あんたは贈り物なのかも知れない……誰にでも一人は用意されている、特別な人…」
 特別な人――そうかも知れないと、イルカは思った。でなければ自分の行動に説明がつかない。とにかく、寂しげなあの背を抱きしめずにはいられなかった。
「ふ…っ…、う……」
 隙間を残さないほど押し付けて、呻いた男は中に欲を吐き出した。指がイルカのそり立つものに絡み「…、…ぁ…ッ」イルカの腹にも、証が散った。強烈な快感に、頭の中が真っ白になる。静かな夜に荒い二人の息遣いだけが響き、
「…見つけた…もう離さない」
 銀髪の男――カカシは、儀式のようにイルカの額にキスをした。


 ちょっと異常な出会いだったことは認める。
 次の日になり、手当てもしてこざっぱりとした姿になったカカシは、何度も何度も頭を下げて謝った。でも、繋いだ手はしっかり握って離さず、この日から二人の関係はゆるやかに始まった。
 そうだ。これほど強烈なきっかけがあったのに、どうして忘れていたのか。
 かつての出会いの道に立ち尽くし、イルカは後悔した。
 それだけカカシは自分に近い存在だった。だからこそ喪失感は大きかったが、カカシは言ったじゃないか。思い出させてくれと。
 逃げるなんて間違っていた。イルカは走り出し、家へ向かった。だが中には誰もいない。検診に出ているのかと再び外に出ると、ばったり帰宅したカカシと出くわした。
「カカシさん…っ」
「あ、どうも、うみのさん」
「カカシさん、オレ…朝言い忘れていた人間がいたんです。あなたにとって重要な人で、特別な人なんです」
「はい…」
「オレです。オレはあなたの恋人です」
「……は……」
「世話役だけど一緒に暮らしています。出会ったのは小道で、それから何度も飲みに行ったり、互いの家に泊まったり、色んな話をして……あなたは花束を持って告白をしてくれて…」
「すみませんが――勘弁してもらえませんか」
「…え……」
「暗部の見張りがついてるんですよ。同僚もいるかも知れないのに、恥ずかしいですよ。……それに、失礼ですがあなたの記憶は一切ありません。人違いでは?」
「違います…っ! 俺は本当のことを……っ」
「とにかく、やめてください。……あの、世話役と言ってましたが、すみませんが他の人に代わってもらえませんか。あなたずいぶん疲れてるみたいだし」
 呆れと、哀れむ声で、カカシは言った。
「……思い出して下さい、カカシさん」
「…………」
「カカシさ…」
「知らないと言ってるでしょう…!」
 唐突な怒号に、イルカは戦いた。カカシはすぐに気づき、頭を振る。
「…すみません。オレにも分からないことだらけで不安定なんです。…あなたの話がもし本当だとしても、今はやめてもらえませんか」
 向けられた背に、イルカは深く項垂れた。
 ――忘れられた。
 たった一日だけでカカシは、イルカのことを完全に忘れてしまっていた。
 そして、明日には――また名前を忘れられる。


 逃げ場のない絶望が、イルカを飲み込んだ。










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