□ また明日 6 (完)
落ちれば忍びでも命がない絶壁に、アジトは隠されていた。
谷底から吹き上げる風が匂いを消す。はるか底を流れる川に落ちれば、死体の始末をする必要もない。絶好の隠れ家と言えた。
(…追尾があっても、探すには時間がかかる)
何か場所を知らせる合図でもできればいいが、生い茂る木々がそれを邪魔した。よほど大きな術を使わねばならないが、そんな余裕は今のイルカにはなかった。
影たちはイルカをけして信用してはいなかった。
術師を殺すのが簡単なことだとは思っていなかったが、予想以上に望みは薄かった。
カカシとイルカは寄り添うように立ち、影たちはそれを円のように囲んだ。殺意こそ見せないが、一分の隙も無い。
二人の前に洞窟があった。奥には、確かに人の気配が。
「……どういうことだ。なぜ部外者がいる」
洞窟から、底冷えするしわがれた声が響いた。
「それは我々が訊きたい。――はたけカカシが連れて行くと言い出したのだ」
「………縁か…。暗示を動かすほどとは厄介だ。なぜ殺さなかった」
「里を捨てると言った。…信用できないが、カカシが譲らない以上連れてくる以外なかった。あとは術師殿に任せる」
「…暗示の強化をする。その間に殺せ」
術師の言葉に、イルカの背筋が凍った。
四方から突き刺さる殺意に唇をかみ締める。洞窟の奥から呪文が流れ始め――カカシがだらんと両腕を下げて棒立ちになる。
「今だ。……殺せ……っ」
無抵抗になったカカシに、影たちの殺気は一気にイルカに向けられた。
数が多すぎる。
イルカは圧倒的な死を感じた。逃げられない、戦うことすら許されない――、
「……ッ」
今まさにイルカの胸に突き立てられようとした刀が、数ミリの間を残して止まった。
刀を握る影の手がぶるぶると震える。その胸に、突如現れた銀色のクナイが突き刺さっていた。
影は音を立てて沈み、クナイは戻る。
――カカシの指に。
「カカシさん……っ」
「術師! 強化が効いていないぞ…っ、何をしている!」
狼狽する影の間を、銀の光が駆けた。
次々と悶絶する仲間たちに抵抗する影もいたが、イルカの援護にあえなく沈む。
元より、イルカの援護などなくとも、カカシは確実に敵を仕留めていた。
周囲には血臭が充満する。
最後の一人が仰向けに倒れると、カカシがくるりと洞窟を見た。
闇の中から現れたのは――痩せた老人。
いや、はたして人と呼んでいいのか。
萎んだ肌には肉がどこにも見えない。蓋骨の形が露な顔に、眼球が今にも落ちそうに嵌っていた。
呪われている。
イルカは専門ではないが、目前の術師が呪われた身体であることは一目瞭然だった。里の術師とは大きく異なる。おそらく、禁呪を使用した報いにちがいない。
「殺せ……っ、カカシ、その男を殺せ!」
術師の轟く声に、カカシがびくんと震えた。
再び、両腕が力なく下がる。――いけない。
イルカは咄嗟に叫んだ。
「カカシさん…っ、そいつの言うことを聞いてはいけない…!」
「黙れ…! ……カカシ! 殺すんだ…!殺せ! 殺せ! 殺せ…!!」
こだまのように、術師の声は繰り返された。
カカシの手が、誘われるように動く。隻眼が、まっすぐにイルカを捉えた。
勢いよく腕が振り上げられ――、
「………………!」
真っ赤な血が空に散った。
ぽたぽたと地面に落下するおびただしい血。イルカは真っ青な顔で立ち尽くした。
声が出なかった。その間に、カカシはもう片方の耳もクナイで傷つける。
「やめ……っ」
ひっかかった悲鳴が出た。
両耳から血を流すカカシに、イルカの身体はみっともなく震えた。気絶しそうだ。
当のカカシは、とんとんと耳を叩き何かを確認している。痛くないはずないのだが、表情をまったく変えずに――術師に向き直る。
「…まさか…自分で鼓膜を傷つけるなんて……。わたしの声を拒絶するために…? 暗示は……暗示は完璧だったのに…っ、わたしは…最高の術師で…っ、わたしを追い出した木の葉の里に……それを知らしめてやりたかったのに……っ」
術師の独白は、最後には悲鳴に変わった。
クナイを胸に受け、倒れた術師の身体が見る間に煙に変化する。悪臭を放ち、微かに残った灰は黒く淀んで――それさえも消えた。
何一つ残すことを許されず、呪われた術師は消えていった。
「カカシさん……っ」
我に返ったイルカは、急いでカカシに駆け寄った。
カカシは棒立ちになっていて、視線がどこも見ていない。
耳からこぼれる血を押さえようとイルカが手を出すと、がしっと掴まれる。
その強い力に眉を顰め、イルカはもう一度カカシの名を呼んだ。
カカシはぼんやりイルカを見つめ――、
「あー……イルカ先生」
「カカシさん……っ」
自分を先生付けで呼ぶのは――記憶を失う前のカカシだけだ。
「記憶が……術が解けたんですか!?」
「えーと……すみません。何も聞こえないんですが……術が解けたかって訊いてます?」
唇の動きを読んだのか、カカシの問いかけにイルカは破顔した。
「そうです…。そうですよ……っ。術がかかっていた間のことは覚えていますか? あなたは自分で耳の鼓膜を傷つけたんです。早く戻って手当てをしないと……」
「…覚えてます。うっすらだけど。…大丈夫。たいして深く傷つけなかったから、そんなに急がなくても…あー…思い出した。あの術師」
「え…?」
「昔、木の葉にいた術師で、禁呪に手を出して追い出されたんですよ。…一時期ですが、暗部時代に同じ任務をしたことが。…まさかその頃から暗示が…」
「カカシさん」
黒ずんだ土を凝視するカカシの手を、イルカはぎゅっと握った。
「もういません。――…いないんですよ」
カカシは囁くイルカを見下ろし、ああ、とゆっくり肩の力を抜いた。
イルカは精一杯の笑顔を浮かべ、
「帰りましょう」
冷たい手を握り締めた。
追尾隊はすぐそこまで来ていて、カカシの合図でほどなくアジトに到着した。
絶命した影たちは里を持たない忍びと分かり、残党がいないか念入りに捜索することになったが、おそらくこの件はこれで終了するだろう。
里に戻ったカカシはすぐに本格的な治療と、術の残りがないか調べられた。
イルカ自身も尋問を受け、書類の提出など夜になるまで休む暇がなかった。
とくに怪我もなく、イルカは精力的に働いた。
夕刻には、カカシの術が完全に解けていて、耳も数日すれば治ることが伝わってきた。
やっと面会が許される。
イルカは白い病室に足を踏み入れた。
室内にはベッドに横たわるカカシと、医師が二人ほど壁際にいた。
「カカシさん……気分はどうですか?」
声が聞こえないと分かっていたが、イルカはそっと話し掛けた。
カカシはちゃんと了解してくれ、
「大丈夫ですよ。医者が大袈裟なんですよ。オレ、ここはあんまり好きじゃないんですけど、今夜一晩だけは仕方が無いみたいです」
「そうですよ。ゆっくりしてください」
「…まあ、しょうがないです。いい子にしてますよ。……ベッド狭いけど泊まってく?」
医師たちに聞こえないよう小声で囁かれ、イルカは小さく笑った。
「いい子にするんでしょう?」
「あ〜‥‥‥はいはい、また明日ね。イルカ先生」
がっかりな顔で目をつぶるカカシに、イルカは笑いながら――瞳は暗くかげった。
瞼を閉じていたカカシはそれに気づかなかったが、
「じゃ……また明日」
呟いて去ろうとするイルカに、目を開ける。
「――イルカ先生」
呼び止められ、イルカは僅かに間を置いて振りかえった。
「…なんですか?」
カカシの色違いの目が食い入るように見つめ「大丈夫?」と、カカシは訊いた。
言葉の内容にイルカは吹きだしそうになる。
(それは俺の台詞ですよ)
彼に心配をかけてはいけない。イルカは満面の笑みを浮かべた。
病院を出て、イルカは黙々と歩き出す。
今日の用事はすべて終わった。あとは家に帰るだけ。久しぶりに自分の家に。
臨時に使っていた家は、すでに荷物を運び出して空家になっている。
最初は住むのも嫌だった家だが、今となってはカカシと暮らした特別な家だった。
離れるのは、少しだけ寂しい。
手前勝手な話だが。
(……そうなんだな。俺って本当に勝手)
でもここまで我慢したのだから、頑張ったほうだ。
取り乱すことなく、木の葉の忍びとして恥じなく働いた。カカシの術も完全に解けて、耳も完治する。今は安全な病院の中で――。
(あ……ここ)
人のいない道ばかりを選んでいたら、またあの裏道に来ていた。
雑草の細い道。満月に照らされて光っているように見えた。
端にすとんと腰を下ろし、イルカは両手を見下ろす。
ぶるぶると小刻みに震える手は、まるで血の気がなかった。
(もう泣いていい)
感情を押し込めるのは得意じゃない。無様に泣くまいと堪えてきたが、もう限界だった。せめて人がいない場所で、大いに泣いてやろう。そう思ったが、
(……?)
涙が出ない。
胸はパンクしそうなほど張り詰めているのに。
悲しみも喜びもぐるぐる渦を作っている。出口を探して暴れるが、固い壁があるようで出てこれない。――出せない。
イルカは唇を噛み、
(…また明日なんて……)
のんきに言うカカシが今は腹立たしい。カカシに非があるわけじゃない。けして。
でも、その明日をどれだけ自分が恐かったか分かっていない…!
また明日なんて言って、本当に同じように笑ってくれるのか。そのままのカカシでいてくれるのか。
術はもう解けて、カカシは元通りになった。でも、もしもまた他人の目で見られたら…っ?
耐えられない…っ。もう忘れられるのは嫌だ。一人になるのは……。
今だって――どうして俺は一人なんだ。
涙が出ない。お得意の涙が。
泣いて、何もかも流してしまいたい。こんなバカな考えは全部――、
「イルカ先生」
「…………!」
あるはずのない声。
イルカは目を見開いて振り返った。
いるわけがないのに、どうして、
「カカシさん……なんで…」
喉が震える。唾を飲み込み、イルカは意識していつもの声を出した。
「駄目ですよ、一日入院するって言っ…」
「イルカ先生が」
遮って、カカシが言った。
「オレを必要としているかと思って」
「――」
言葉は胸に飛び込み、何かをこじ開けた。
あふれ出そうになるものを、イルカは手で押さえて顔を背ける。
「別に……俺は大丈夫ですっ。俺は………っ」
「聞こえないし分からない。イルカ先生、オレを見て話して」
頬に手を添えられ、上向かされる。カカシの目をまっすぐ見上げると――何かが切れた。
「………心配だったんです…ずっと……辛かった…! あなたの方が辛いって分かってるけど、どんどん俺のことを忘れて……っ、俺のことを知らないって…! 朝なんて…来なければいいと思った! 明日なんて…っ」
叫びながら泣いていた。
抱きしめて欲しくて手を上げると、先に浚われる。
「…ごめんよ。イルカ先生に辛い思いをさせて…ごめんね。それでも…離れずにいてくれてありがとう。あなたがいてくれたから、オレは戻って来れました」
声もなく泣くイルカの顔に、カカシは何度も唇を押し付けた。
「前のオレだったら、そのまま行ってしまったかもしれない。あの術師のようになっていたかも。…でも大丈夫。オレは見つけましたから。……ね、特別なあなたを見つけたオレもまた特別になったんです。……えーとつまり、……スーパーマン?」
突飛な例に、イルカは思わず笑った。
泣きながら笑うとしんどい。カカシにもたれ、イルカは泣き笑いを続けた。
そんな泣き虫にカカシは特別甘いキスを送り、
朝まで一緒にいましょうねと囁いた。
イルカが朝を好きになるように、朝日の中で最高の笑顔を見るために。
明日はもうすぐにそこに。
たたずむ二人は、昇ってくる日の光をまぶしく見つめた。
END
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2005.12.18