□ オオカミは歌う




第1話








 どこか調子外れな歌が聞こえる。
 歌詞は分からない。
 息を吐くような小さな声で、肝心の詩は途切れ途切れ。
 狂ったリズムは、曲名を知らずとも正しいとは思えない。
 いったいなんの歌か、検討もつかないけれど、

 ――――とても、静かな歌。

 闇色の霧の中に、ぼんやりと月が見える。
 影を映し出すほどの力はなく、世界は深い闇の中。
 聞こえるのは、やる気のない調子外れな歌。
 誰が歌っているのだろうか。
 人の形が見えるようで、見えない。
 闇色の霧は濃く、自分の指先すら見えないのだ。
 それに―――とても恐い。
 霧は身体に纏わりつくように重く、心臓をゆっくりと圧迫する。
 説明できない恐怖が、じんわりと襲い掛かり――イルカはその場から逃げ出した。
 早く、遠くへ。

 見てはいけない。
 知ってはいけない。


 思い出しては――――いけない。 





  ***





 今日は酷く気分が優れなかった。

 きっと夢見が悪かったせいだと、イルカはもそもそ朝食を粗食しながら思った。
 夢の内容はもう覚えていないが、ひんやりと全身を舐めるような恐怖感は憶えている。
 おまけに、起きた早々酷い頭痛が始まり、あんまり飲みたくないが今日は薬に頼ってしまった。お陰で少しは楽になったが―――これほど夢見が悪かったのは初めての事だ。
 いつもなら朝までぐっすり快眠の自分にも、夢で苦しむ繊細な部分があったのかと、なんだか苦笑が浮かんでくる。 
(‥大方、駄目生徒に悩まされてる夢だろうな)
 金髪頭の問題児がやっと卒業したと言うのに、アカデミーにはまだまだイルカを激昂させる悪ガキたちが揃っていた。三代目の孫も含め、まだまだ子供たちの卒業への道は遠い。
 ―――しっかりせねば。 
「よし、今日も頑張ろうっ」
 出勤準備を整え、朝の清々しい空気を肺一杯に入れたイルカは背伸びをした。 
 教師が子供たちに疲れた顔を見せてはいけない。少なくともアカデミーの中では。
 気持ちを奮い立たせ、はりきって歩き出したイルカは、
「‥あれ?」
 幾ばくも行かない内に、珍しい顔と会った。
 向こうもこちらに気付き、会釈する。あわてて頭を下げたイルカは破顔した。
「カカシ先生、おはようございますっ」
「おはようございます」
 立ち止まったカカシに、イルカは急ぎ足で駆け寄った。
「意外です。カカシ先生をこんなに朝早くからお見かけするなんて」
「酷いですねえ、イルカ先生。オレだってたまには早起きするんですよ〜」
 カカシは苦笑いで反論したが、眠そうな声で言われても説得力がない。イルカはこみ上げる笑いをかみ殺した。
「イルカ先生はこれからご出勤ですか」
「はいっ。‥カカシ先生は‥‥?」
「オレもちょっとアカデミーの方に用事がありましてね。あ、そうだ、イルカ先生」
 自然と並んで歩き出すと、カカシがふと思い出したように言った。
「今日の午後、時間ありませんか」
「え、今日ですか‥‥?」
 問われて、イルカは今日の予定を頭に浮かべた。午前はアカデミーで授業があるが、今日は午後までの日だ。いつもなら受付業務などが入っているが、今週は臨時職員増量で引っ張り出される心配はない。開いた時間でたまった雑用を片付けようと思っていたが、それも別に急ぐ必要のない仕事だ。
「大丈夫です。開いてますよ」
「良かった。実はですね、午前に入ってる七班の任務が蜜柑の木を荒らす野獣退治なんですよ。まあ、大した任務じゃないんですけど、午後からは収穫作業も手伝うんです」
「はい」
「その時、特別に蜜柑を好きなだけ持って帰っていいって依頼主が言いまして、良かったらイルカ先生もどうですか」
「え、俺も‥ですか?」
「あいつがね、呼べ呼べってうるさいんですよ。”イルカ先生は貧乏だからこういう時に非常食を蓄えておかないと駄目なんだってばよっ”てね」
「‥‥‥‥‥‥」
(‥‥‥あいつ‥‥‥)
 眉を寄せ、イルカはぷるぷると拳を震わせた。確かに嘘ではないが、生徒に心配されるほど貧乏じゃない。しかも、よりによってカカシ先生に暴露しているとは。
 これでのこのこ収穫の手伝いに行ったら恥以外何ものでもないじゃないか。
「‥せっかくですけど‥‥‥」
 イルカは動揺を隠しつつ、やんわりと断ろうとしたが、
「でもまぁ、これはオレの口実でもありまして」
「え?」
「作業が終わったら、そのまま夕食いかがですか。手伝ってくれたお礼に奢ります」
「‥‥‥っ」
 おもわず立ち止まったイルカに、カカシがちょっと照れた笑みを見せた。
「どうですかね」
「あ、‥‥はいっ。もちろんですっ」
 一、二もなく、勢いよく頷いてしまったイルカは、次いで赤くなる。恥かしい。断るつもりだったのに。これでは、期待していたみたいではないか。
 じゃ、昼に迎えに行きます、と言い残し、カカシは去っていく。
(‥‥‥俺って分かりやすい奴だろうなあ)
 立ち去るカカシの背をこっそり見送り、イルカは小さなため息をついた。



 カカシとは、卒業生を預ける時に知り合った。
 実力はあるが、胡散臭い上忍で任務態度も不真面目。同僚たちの批判は厳しかったが、話してみるとそれほど悪い人ではなかった。
 むしろカカシは、気さくにイルカに接近してきた。
 包容力の大きいイルカのこと、カカシに対して偏見など持っていなかったので、関係はスムーズに進んだ。生徒たちの状況も知りたかったし、―――彼自身に対しても興味があった。
 自分にそんな感情があったなんて信じられない。同性に対して好意を抱くなんて。
 どこが気になるのか。何がそんなに魅力的なのか。はっきり言葉にはできないが、イルカはカカシを完全に特別視していた。
 気さくに近づいてくるカカシの気持ちは分からないが、多少は自惚れてもいいのだろうか。
 その誘惑は甘く、むしろそうであったらいいのにと考える自分にため息が出る。
 イルカは自然と浮き立つ心を叱咤し、職員室で次の授業の準備をはじめた。
 行きます、と断言したのはいいが、すでに迷いかけている。プライドなんてそれほど持ち合わせていないが、困った約束をしてしまったものだと、正直ため息をつきたい。
 せめて、収穫作業だけでも逃げられないかと、イルカはもう一度今日の予定を見直してみたが、やはり、午後は丸々時間が開いている。
 今から無理矢理用事を入れてみようかとも考え、「なぁ、なにか急ぎの用事とかないか?」と、同僚の一人に声をかけてみた。
「なんだ、イルカ。勤勉だな。‥でもお前、今日の午後は非番だろ?」
「う‥‥まあ、そうなんだが‥‥」
「ずっと前から自分で休み入れといて。なにか都合でも悪くなったのか?」
「え?」
 同僚の言葉が気になって、聞き返した。
「今日の休みは‥俺が入れたんだっけ?」
「‥‥お前、まだ寝惚けてるのか? 今日はあいつの命日だろ。墓参りに行くっつってたじゃないか」
 あいつの命日。
 ―――――墓参り。
「‥‥‥おい‥っ」
 ガタガタっと職員室に音が響いた。
 突然、眩暈を起こしたイルカが机に手をつき、私物が床に落ちてしまう。
「大丈夫か?」
 覗き込む同僚に、イルカはぱちぱちと瞬きをした。
 大丈夫だと支える手を断り、背筋を伸ばして額に手を置く。
「‥‥‥そうだった。今日は、あいつの命日で‥‥‥、俺、墓参りに‥‥」
 すべて、同僚の言った通りだ。その為に、わざわざ休みを取ったのに。それを、どうして忘れていたのか。
(‥忘れっぽいにも程があるぞ‥‥)
 思わず滲み出た冷や汗を拭いながら、イルカは同僚に謝り、やっぱり予定が入っていたと言った。  
「だろ? おかしいと思ったよ。‥‥‥でもお前、まさか忘れてたのか‥‥?」
 ぎく、と狼狽する心情はばっちり顔に出ただろう。何もいえないイルカに、同僚は呆れた顔をした。
「お前、あいつと仲良かったのに‥。忘れちまうなんて酷いぞ。ま、そういう俺は墓参りにも行けないんだけどな。明日にでも寄っていくわ」
 俺の分もよろしく言っといてくれ、と同僚は言った。
 あいつは、教師たちにも人気のあったいい奴だったから、と。
  





(‥‥‥本当に、なんで忘れてたのかなぁ)
 一つ思い出せば、連鎖式に記憶が戻ってくる。 
 あいつの名前はツルギ。お互い万年中忍だったが、ツルギは実力のある友人だった。
 人当たりもよく、正義感の強い信頼のおける人間。そんな真っ直ぐな性格に上から疎まれることもあったが、ほとんどの人間に好かれる男だった。
 その彼が死んだと聞いた時、イルカはこれ以上にないほど落ち込んだ。
 大事な友人だったツルギ。
 その友の命日をどうして忘れられようか。
(‥‥いや、実際忘れてるし)
 イルカは重いため息をついた。慰霊碑の前でしっかり謝ろう。
 しかし、とりあえず今は。
(カカシ先生に断りを入れないと)
 さっきまでは、断る口実を考えていたイルカだが、実際に出来てしまうと躊躇うものがある。せっかく誘ってくれたのに。承諾しておきながら、実は最初から予定が入っていたというのも罪悪感がある。
 イルカは午前の授業が終わると、墓参りの準備を整えて七班の所へ向かった。
 カカシたちはまだ野獣退治に奮闘しているようだった。子供たちが蜜柑の木々の間を走り回っている姿が見える。見つかると、また説明に困るので、そっとカカシの後ろに近づいた。
「カカシ先生」
 呼びかけると、くるりと広い背が振り返る。
「や、イルカ先生。お早いですね」
 にこっと笑顔を浮かべるカカシに、イルカは頭を下げた。
 非常に言い出しにくいが、言わないわけにもいかない。カカシが、手元にある墓参りの道具を見ている。
「あの、実は‥今日のお約束なんですが」
「駄目になったんですか」
 ずばり言われ、イルカは急いで頭を下げた。
「すみません‥っ、友人の命日だったことをうっかり失念していて‥‥」
 動揺のあまり、忘れていたことまで話してしまった。恥かしさと申し訳なさでいっぱいになるが、内心では―――カカシなら笑って許してくれるとも思っていた。
 お互い大人だし、カカシとの約束が急な仕事で駄目になったことは今までにもあったことだ。その時だって、一度も文句の言葉を口にしなかった。それに、夜の予定まで駄目になったわけではない。約束を一つ破ってしまったお詫びに、今夜は奮発して自分が奢る側に回ろうと考えていたが、
「残念ですねえ。あいつら、イルカ先生が来るの楽しみにしてたんですが」
 カカシは、いつもの笑顔を浮かべていた。
「あいつらには、オレから上手く言っときますよ。それに‥‥夜の食事まで駄目になったわけじゃないでしょ?」
 屈み、耳元で囁くカカシに、イルカは少しほっとして頷いた。
「もちろんです。‥今日はお詫びに俺の方が奢りますので」
「いいですよ、そんなの気にしなくて。なんでしたら、イルカ先生の手料理で手を打ってもいいですが」
「え、でも‥たいした物は作れませんよ?」
「いえいえ。じゃ、楽しみにしてますので」
 良かった。やっぱり分かってくれた。
 イルカはほっと安堵し、子供たちに見つかる前に退散することにした。「夜は俺が迎えに行きます」と言い残し、墓参りに出発する。
 が、歩き出して数歩。
「――――――‥‥っ」
 突然、ぞわっと背筋に冷たいものが走った。
 思わず身構えて振り返ったが、
「‥‥‥?」
 のどかな光景に、とくに異常は見当たらない。
(‥‥な、なんだろ‥‥‥)
 子供たちに指示を出すカカシの横顔を見て、イルカは再び歩き出した。
(風邪でも引いたかな‥‥?)
 午前中の眩暈といい、どうも変な日だと、イルカは首を傾げた。







  ***






 慰霊碑に到着したイルカは、持ってきた酒を用意した。
 自分と、ツルギの分を置き、どっかりとその前に座る。他の殉職者に対していささか無作法だが、今日ばかりは大目に見てほしい。
 添えた花が風に揺れる。空は見事な晴天だ。
 一年前は―――確か雨だったのに。
「‥‥‥‥‥‥」
 慰霊碑の前に座るイルカは、空の天気とは裏腹に晴れない顔をしていた。
(俺、‥なんか変だなあ)
 友人の名前は思い出した。彼の性格も、どれだけ親しかったかも。だが、肝心の顔が浮かばない。確かに辛い記憶だったが、友人の顔を忘れるなんて真似はしない。
 しかも、
(ツルギ‥‥‥なんで、死んだんだっけ?)
 ここまでくると、忘れたでは済まされない気がする。
 辛かった。ツルギが死んで本当に辛かった。その痛みは憶えてはいるけれど、まるで霞のようだ。時が癒してくれたのかも知れないが、
 イルカは、大事なものを無くした痛みを忘れたいとは思わない人間だ。
(‥‥‥おかしい‥‥‥)
 腕を組んで渋面し、首を傾げて考え込む。
 どれほど経ったか、
「―――わ‥‥」
 ふいに、突風がイルカを襲った。ばさばさと添えた花が騒ぎ、おもわず目を瞑る。
 春一番かと思わせる風はすぐに収まり、やれやれと目を開けると、
「‥‥っ」
 慰霊碑の前に一人の人間が立っていた。
 いや、人間ではない。 
(‥‥す、透き通ってる‥‥‥っ)
 イルカの前に出現した青年は、幻影のように透き通っていた。鳥肌が立つような冷気も感じ、まるで亡霊のようだ。何者かが術を仕掛けたのかと咄嗟に身構えたが、
「‥‥‥え‥」
 瞬きした一瞬の内に、青年は消えてしまった。
 そして、イルカははっと気付く。
(そ、‥そうだ‥‥‥っ)

 今の男は、亡き親友の――――ツルギ。

「なんで‥‥俺、すぐ気付かな‥‥、‥‥つ、‥‥痛‥‥」
 ズキンズキン、と酷く頭が痛み出した。
 額を押さえて、イルカは瞼を閉じる。
 たった一瞬現れた友人。チャクラを感じ取ることはできなかったが、今の時点であれが術によるものか本物の亡霊かは判断できない。が、それよりも。
 おかしいのは自分だ。
(‥‥‥今のは、ツルギだ。‥‥たぶん‥‥‥)
 一時確信を抱いたというのに、それでもイルカには「間違いない」と断言することができなかった。
 なんて曖昧な記憶。
 おかしい。自分は―――忘れすぎている。
「‥‥‥‥‥‥」
 立ち上がったイルカは、じっと慰霊碑を見下ろした。
 確かめた方がいいのかも知れない。
 考えすぎかも知れないが、そのままにしておくには不安が大きすぎる。
 それに、
(‥‥‥泣いてた)
 慰霊碑の前に現れた男は、静かに泣いていた。虚ろな目は、何も映していなかったが、彼の抱え込む虚無が目に見えるようだった。
 空は吸い込まれそうなほど快晴なのに、風が、急に冷たくなったような気がした。
「‥‥なんにしろ、何か言いたいことがあるんだよな?」
 周囲に誰もいないことを確認しながらも、イルカはあえて声を大きくして言った。
 誰かの意図が絡んでいないとは言い切れない。
 もしかして、慎重に動いた方がいいことかもしれない。
 漠然とした危惧を抱きながら、鈍く痛む頭を押さえ、イルカは受付管理室へ向かうことにした。





  ***
 





 受付管理室に来た理由は、これまでの任務履歴が調べられるからだ。
 本来簡単に入っていい場所ではないのだが、イルカは受付業務にもついているので「調べ物がある」と言えばすんなり入れた。
 非番なのに大変だな、と声をかける同僚に苦笑を向け、イルカはすぐにツルギの履歴を探した。もしかして、隠されていたりして―――と、そんな心配もしていたが、いらない危惧だったようだ。
 すぐに見つかったツルギの生前の任務履歴書を手に、イルカは椅子に腰掛けた。
 ぺらぺらと捲り、ゆっくり目を通していく。
 任務の中には、イルカも携わったものがあった。読む度にツルギとの記憶が戻ってくるようだ。―――しかし、それでもはっきり携わったと断言できない。
 この曖昧さが自分でも苛立たしい。どうして、この男は友人だったとはっきり言えないのか。
「‥‥‥っ」
 報告書の最後に、ついにツルギの死に関する文書を発見した。

 ―――最後の任務中、帰還途中にて崖崩れに巻き込まれて死亡。  

 読み終えたイルカは息をつく。
 そうだ。雨で地盤が緩み、崖崩れは大規模なもので他にも何人か町人が巻きこまれた。見つかったのは、体の一部だけ。
 明確な報告書を前に、イルカは自分の記憶と照らし合わせて納得しかけたが、

(――――違う)

 と、なにかがイルカの頭に囁いた。
 違う。
 あいつは、本当は‥‥。
「‥‥‥痛‥‥っ」 
 鈍器で殴られたような痛みが頭に走った。
 衝撃で思わず椅子から落ち、音が管理室に響き渡る。「大丈夫かっ?」と慌てて職員が入ってきたが、声も上げられない。
 痛い。何度も何度も頭を殴られるような痛みにイルカは吐き気がした。息も荒くなり、指先も白くなっていくイルカに、ただごとではないと周囲は騒ぎ出す。その声すらも遠ざかっていく。何も考えられなくなるまで、そう時間はかからなかった。
 最後に憶えているのは、冷たい床の感触だけだった。






  ***






 夢も見ないほど、深い混濁から目を覚ますと、そこは自分の家だった。
(‥‥‥あれ‥?)
 上体を起こそうとすると、酷い眩暈がしてすぐにベットに逆戻りした。体が酷く重い。
 仰ぐと窓の外はもう真っ暗だ。いったい何時なのだろうとぼんやり考えていると、
「――起きましたか」
 ひょい、と銀髪の頭が視界に入った。
「‥‥‥カカシ先生‥‥?」
 自分の家に見慣れぬ人物を見て、イルカは一瞬夢かと思ったが、
「大丈夫ですか? あなた受付所で倒れたんですよ。医者はゆっくり休めば大丈夫だって言ってましたけど、ちょっと働きすぎじゃないんですか?」
 心配そうに覗きこみ、カカシがそっと話し掛けてくる。
「え‥‥どうして‥‥、カカシ先生が?」
 まだ頭がはっきりしないイルカは混乱した。状況を飲み込めない。
「オレが家まで運んだんですよ。さっきまで子供たちも一緒でしたが、あんまりうるさいんで帰しました」
「カカシ先生が‥‥‥運んで‥」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ふいに、イルカはがばっと起き上がった。
「‥‥あ‥‥‥っ、俺、食事の約束‥‥‥っ」
「大丈夫、大丈夫」
 真っ青になるイルカを、カカシは苦笑しながら宥めた。起こした上体をベットに戻させ、
「食事ならいつでも出来ますよ。オレのことはいいんです。それよりも、イルカ先生の身体の方がずっと大事ですよ」
「すいません‥っ、俺、結局、今日の約束ぜんぶ駄目にして‥‥‥」
「いいんですってば」
 謝りとおしのイルカに、カカシは明るい声で言った。
「それに、オレとしては外食よりも、こうしてイルカ先生の家で二人っきりのほうが嬉しいです」
「‥‥‥‥‥‥」
 にこにこと笑うカカシに、イルカは顔を赤くして沈黙した。
「あんまり急に食事をするのはよくないですから、一応おじやとか作ってみたんですが、食べてみますか?」
「え‥、カカシ先生が‥‥っ?」
「まあ、戦時用のおじやみたいで味ないですけど」 
 言って出されたおじやは――――本当に味がなかった。
 戦時用しか作ったことないんで、と苦笑いをするカカシに、イルカは小さく笑った。
 嬉しい。カカシが自分のためにわざわざ作ってくれたなんて。
 同性ということに戸惑いを抱いていないわけではない。早急に事を起こして関係を壊したくはないが、イルカはこの時、自分の中にあるカカシへの好意をはっきりと感じた。
 ――――カカシも、きっと。
 はっきりとした言葉で、互いの想いを口にしたことはないが、カカシもきっと同じ気持ちだと、今夜のことで自信がもてたような気がする。
(‥‥‥ちょっと、自惚れてみてもいいよな?)
 だって、カカシの作ってくれたおじやは、本当にあたたかくて美味しくて。
「あ、イルカ先生」
 ふと呼ばれて顔を上げた。
 ―――ふいにカカシの顔が近づき、ちゅっと音を立てて唇が触れる。
「〜〜〜〜〜〜!!」
 ばっと慌てて後退するイルカに「お礼は頂戴しましたんで」カカシはにんまりと笑顔を見せる。
「カカシ先生‥‥‥っ」
 首筋まで赤くしたイルカに、まあまあと宥めながら、カカシはカラになった二人の食器を片付けた。手伝おうとするイルカを制し、台所でかちゃかちゃと手際よく洗っていく。
 その音を聞きながら、ベットのイルカはまだ赤みの残る頬を擦る。
(‥‥恥かしい。たかが口づけぐらいで大慌てして‥‥‥)
 自分の取り乱しようにどっぷり落ち込んだが、込み上げてくる笑みは隠せない。
 今日は朝から本当におかしな日だったが、最後の最後で立て直せたようだ。
(まず夢見が悪かったな。‥‥それから、カカシ先生に誘ってもらったのに、大事な予定を忘れてて‥‥‥、えと‥‥‥‥‥‥)
 ベットの上で、イルカは首を傾げた。

(―――‥‥俺、なんで倒れたんだっけ?)


 



 その後、イルカはカカシから薬を手渡された。
 薬に頼るのは嫌だと言ったが、病院から渡されたものだからとカカシに言い含められる。
 確かに、今日ぐらいは飲んでおいたほうがいいかも知れない。
 少し眠くなるかもしれません、と言うカカシの声を聞きながら、イルカは仕方なく、冷たく固い錠剤を飲んだ。
 せっかく家にいるカカシに、色んな話をしようと思っていたイルカだが、すぐに眠気が襲ってきた。上体を起こしていられず、横たわったイルカが申し訳ないとカカシに謝ると、額に唇を押し当てられた。
 子供じゃないんですよと文句を言いたかったが、もう瞼も開けていられない。
 心地良い眠りが、イルカを包んでいく。


 夢うつつ、誰かの声を聞いた。




 ――――あれあれ、封印が弱くなってるよ。





 甘く、優しい。
 ねっとりと体の内側を舐めるような、ざらりとした声音。





 やだねぇ、この人。
 昔のことをずるずるひきずっちゃって。
 ‥頭痛くらいじゃ駄目かな? 
 しかしあんまり弄るとぱーになるし‥‥。






 指らしき感触を、頬に感じたような気がした。
 それはまるで氷のように冷たくて、






 ――――ねえ? かわいいイルカ先生。どうされたいです?







 声が遠のいていく。
 それにつれて、
 声も、言葉の内容も闇に消えていく。

 深い闇が、イルカを包んだ。










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