□ オオカミは歌う
第3話
不可思議な対面はどれほどの時間だったか。
見慣れぬ隠し部屋に取り残されたイルカは、完全に消えてしまった影分身のイサヤを諦め、外への道を探した。
隠し部屋の出口は、小さな四角い形をしていた。仕掛けを押すと、簡単に開くが、
「‥‥‥こんな所に‥」
這うようにして外へ出たイルカは、自分の出てきた後方を振り返って呟く。
そこはアカデミーの裏庭。茂みの奥にある、傍目からはまったく分からない土壁に隠し部屋の入口はあった。
子供たちの安全を守るため、アカデミーの隠し部屋等は頭に叩き込んでいたつもりだが、この場所はまったく未確認だ。使われていないと言っていたが、この調子なら外にもあるかも知れない。
(‥‥‥明日も‥‥この場所に‥‥)
入口を閉め、隠し部屋の痕跡を完全に消しながら、イルカはイサヤの言葉を思い返した。
イサヤは、明らかに何かに追われている。
ずっと会っていなかったし、気にも留めていなかったツルギの弟。彼に関しても、記憶の操作があったのかもしれない。
追い詰められた目は、いったい誰に追われているのか。何処にいるのか。
まともな説明はもらえなかった。
ただ記憶が封印されていると、大きな疑心を残していっただけの青年。
(‥‥‥頭が痛い‥‥‥)
イサヤとツルギのことを考えると、ずきずきと頭が痛んだ。
隠し部屋にいた時と格段に違う頭痛。最近やけに痛むと思ったら、これも誰かが意図することなのだ。
イルカは頭を押さえて歩き出し、校門へと向かった。
仕事を持ち帰るつもりだったけれど、とても集中力がもたない。
(――イサヤの話は、本当だろうか)
自分の記憶に何か違和感があることは、薄々感づいていた。
だが、よりによって―――カカシに気をつけろなどと。聞かされたイルカの心中はけして穏やかではない。そんな身近に、暗躍の手が伸びているなんて、考えたくも無い。
しかし、イサヤがなにか切羽詰った状況下にあるのなら、助けの手を伸ばしてやりたい。
(調べないと)
もっと深く、一年前に死んだツルギの死について。
火影に相談すべきだろうか。暗部に関しては、自分のような中忍ではとても情報を得ることはできない。いや、その前にイサヤともう一度対峙しておくことが必要だ。
まだすべての話を聞いていない。
イサヤの話から察すれば、自分にも監視がつけられていても不思議ではない。
下手に動いて、明日の彼との接触に問題があってはならないだろう。
「‥‥痛‥‥‥」
頭痛が酷い。
額に滲む脂汗をぬぐうと、手の下に人影が見えた。
「――――」
おもわず、足が止まる。
―――カカシだ。
「お疲れさま、イルカ先生」
校門にもたれていたカカシは、目が合うとにっこり右目を細めた。
ゆっくり歩き出し、近づいてくる。
―――どうしよう。
動けないイルカは、唾を飲み込んだ。
脳裏に、イサヤの言葉が蘇った。気をつけて。だが、何をいったい気をつけろと。
逃げようか、とちらりと考えた。だが無理だ。なら説明を乞うか?
イルカはぎこちない笑みを浮かべた。
「‥どうしたんですか? カカシ先生、任務は‥‥」
「早く終わったんで。イルカ先生病み上がりだし、恋人らしく迎えに来てみました」
カカシはすぐ前に立った。
少し、近い。
「はは‥大丈夫ですよ。俺は丈夫だけがとりえですから」
つい不自然に俯くと、
「実はこの後、イルカ先生の家に行きたかったんで」
わざわざ屈んで覗き込まれた。
視線を合わせられない。駄目だ。表情を作れないなんて、それでも忍のはしくれか。
「すみません‥‥今日は」
「何か用事が?」
「仕事が‥溜まってて‥‥」
「―――イルカ先生」
少し強く名を呼ばれ、イルカはどきっとした。
自分の態度が不自然であることなど、カカシには一目瞭然だろう。
その心の乱れを、カカシはいったいどんな風に受け取ったのか。
短い沈黙が落ち、イルカは仕方なく目線を上げて相手と合わせた。
カカシは、にこにこと笑っていた。
その笑顔を見て、あ、と思う。
優しい笑顔だと、気さくな人だと安心感を抱いたカカシの笑みは、
よく見るとなんて――作り笑いなのか。
「イルカ先生。オレね、こう見えても不貞は嫌いです」
露な右目は、さらに細められた。
「‥‥‥え?」
「そんなに挙動不審にされたら、オレ疑っちゃいますよ〜」
少し眉を下げ、カカシは冗談めかして言う。
不貞?
まさかそんな心配をしてわざわざ来たとでもいうのか。
突然の発言にぐるぐると思考を回すイルカに、
「もし他の男と密会なんてやったら、オレ怒っちゃいますよ?」
にっこりと笑い、カカシは言った。
密会。
なにバカなことを。
そう言って、笑い飛ばさなくては。
(‥‥‥笑え‥‥‥っ)
戦慄し、震える身体をイルカは叱咤した。
微笑の奥、カカシの目が一瞬だけ息が止まるほど冷たく光るのを見て、イルカはようやく自分の置かれた状況を悟る。
独占欲とか、そんな微笑ましい話ではない。
「じゃ、行きましょうか」
くるりと踵を返し、カカシが先に歩き始める。
後をついてくると疑わない男の背に、イルカは操られるように足を進めた。
帰ってはいけない。
自分に、この男と向き合えるだけの精神力は、きっとない。
なりふり構わず、火影の元へ逃げ込んでしまおうか。
――はたけカカシに、気をつけて。
いったい、何に気をつけろと言うのか。
足が重い。
躊躇いながら進むと、二人の距離は次第に広がり、
「ねえ、イルカ先生」
ふいに、くるりとカカシが振り返った。
「今日は何食べますか」
「‥‥え?」
「ついでに買い物して帰りましょう。商店街、寄っていきますね」
にこにこと楽しそうに話すカカシに、イルカは力なく頷いた。
どうしたことだろう。
つい先程までの緊迫感が霧散した。
見えない影を潜ませていたカカシは、すでにいつも通り。
のろのろと足取りの遅いイルカと歩幅を合わせて、
「昨日作ってくれたイルカ先生のご飯、とっても美味しかったです。今日も期待してますんで〜」
低く聞き心地のいい、優しい声で話し掛けてくる。
カカシは他愛無い話を始めた。
今日は自分も料理を手伝うなど、そんな邪気のない話。
それは、胸の内の不安さえも吹き飛ばすほど楽しくて、イルカは時々心から笑顔を見せた。
切なくなるほどいとおしい、平穏な夕暮れ。
しかし、イルカは心の内で問い掛けていた。
(‥‥‥カカシ先生)
今日はたくさん色んなことがありました。
できればあなたに相談したい。
でも死んだ友人の弟が言うんです。あなたに気をつけろと。
さっきの氷のような目と、その労わりに満ちた目。
カカシ先生。
―――どっちが本当のあなたですか?
その夜は、共に夕食を作り、和やかな時間を過ごした。
帰り道、すっかりいつもののんびりした態度に戻ったカカシに不審な行動は見られず、
イルカが恐れていたような展開は起こらない。
カカシは大人しく帰っていった。
イルカは最後までぎこちなかったが、なにも追及されることはない。
それが、逆に恐い。
勘の鋭い男。自分の異変に、カカシが何も勘付かなかったはずはない。
おそらく、あえて触れなかったのだ。
―――いったい、この記憶に何があるというのか。
結局、カカシにそのことを問いただすことはできなかった。
カカシが帰った後、イルカはベットには入らず、沈黙の時を過ごした。
テーブルに残された、カカシの分のお茶をぼんやり眺めて、静寂に身を任せる。
いったい、何を信じるべきか。
誰を、信じるべきか。
翌日、ろくに睡眠を取っていない状態でイルカは出勤の準備をした。
少し早めにアカデミーに向かい、義務的に仕事を片付ける。
睡眠不足や、頭痛による苦痛を顔に出さないよう、なるべく目立たないように行動し、一人になる時間帯を狙う。
自分に誰の監視もついていないことを慎重に確かめて、
イルカは再び――昨日の隠し部屋へと向かった。
知りたい。
一晩考えた結果だ。
イルカは、記憶に隠された真実を知りたい、と心から願った。
***
部屋の中に、イサヤはひっそりと立っていた。
だが、集中すれば分かる。今日の彼も式を媒介とした影分身だ。
「来てくださったんですね」
疲れた笑みを浮かべるイサヤに、入口を閉め、イルカは慎重に歩み寄った。
「お前、大丈夫なのか」
昨日よりも明らかに疲弊しているイサヤに問い掛ける。
「――今は。しかし、長く会話はできません。僕は今、木の葉の里の周辺に潜んでいます。追手の数も増えた。長い力の放出は居場所を特定されてしまいます」
その言葉が真実であることを、緊張に満ちたイサヤの表情が語っていた。
「追手は振り切れそうにありません。‥それに、あなたにも監視の目がついているはずです。時間が惜しい。直接的な言葉を選びますが、どうか落ち着いて聞いてください。――――まず、なぜ今なのか、ご説明しましょう」
話はすみやかに始まった。
「‥‥わざわざ一年間待ったのは、暗部の見張りがあなたについていたことと、あなたにかけられた封印が完璧だったからです。しかし、人の手が施した封印です。絶対であるはずはない。だから、兄の命日を待ったのです」
「ツルギの‥‥?」
「兄の記憶をすべての人が忘れたわけではありません。命日にこそ、あなたが兄のことを思い出してくれる日だと思ったのです。――肝心の記憶は封印されたままでも、あなたは慰霊碑にやってきた。そして、僕の作り出した兄の幻影に反応しました」
イルカは、ツルギの命日に慰霊碑に現れた幻影の姿を思い出した。
泣いていた親友。
あの涙は、ツルギのものなのか、――それとも。
「僕にとって、兄の命日はあなたと接触するのに最も適した時であり、最後のチャンスでした」
イサヤは瞳に強い意志を宿らせて言った。
「兄ツルギは事故によって死んだのではありません。―――暗殺されました。そして、イルカさん、あなたは兄が死んだ時、その場所にいたはずなんです」
「‥‥‥な‥‥‥っ」
「兄の死には里の上層部の一部と暗部が関わっています。三代目火影は認知していません。あくまで隠密に、兄は非業の死を遂げたのです。忍として最も恥ずべき‥‥仲間たちの手によって。真実は闇に葬られました。それを探ろうとしている僕は負われる身です」
「‥‥‥‥‥‥っ」
ズキズキと痛む頭を押さえ、イルカは目を泳がせた。
分からない。部屋の中和さえも届かない頭の奥で、ギリギリと何かが停止をかける。
思い出してはいけないと。
――――この頭の中に、真実があるというのか。
(俺は‥っ、ツルギが死ぬ瞬間を見ているのか‥‥!?)
ツルギが事故にあった時、自分は里にいたはずだ。アカデミーで、授業を‥‥、いや、はっきりとは断言できない。
「たかが崖崩れで、身体の一部しか見つからなかった兄の死に疑問を抱いた僕は、独断で真実を求めました。兄は実直な人だった。‥どうやらその頃、暗部と繋がりがあったようなのですが、確かな証拠は得られない。―――イルカさん。でもあなたなら出切る。あなたはその現場を見たはずです。兄を殺した人間たちを。あなたは名指しで言えるはずだ。僕に必要なのは、その証言なのです」
「俺は‥‥‥」
話すうちに感情が高ぶり、必死の形相を浮かべるイサヤに、イルカは後退りした。
激しい混乱に耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。
事故死だと疑わなかったツルギが、上の人間たちに暗殺されたなんて。
そして、その現場を自分は見ていて、その時の記憶が何者かによって封印されている。
暗部の監視がついて、ツルギの弟は負われる身。
(‥‥ぐちゃくちゃだ‥‥)
荒い息を吐き、頭痛に俯いていると、
「‥‥‥一年前の惨劇に」
イサヤの低い声がこだました。
陰の深い声音に顔を上げると、虚ろなイサヤの目がイルカを見下ろしている。
「‥‥‥あの惨劇に関わり、疑問を抱いた人間たちのその後の消息は、僕を含めてほぼ行方知れずです。―――イルカさん。こんなことを言うと気を悪くされるかも知れませんが、あなたは三代目から親同然の愛情を受け、狐子の保護者でもある。その立場からして、消されるメンバーには含まれなかったのでしょう。‥‥‥そのかわり、記憶の操作を強いられた」
「‥‥‥‥‥‥イサヤ‥‥‥」
「‥‥‥あなたを妬んだ気持ちがあったことは認めます。こうして記憶を掘り返すことは、あなたの立場を非常に危険に追いやることになる。‥‥‥。‥‥再びあなたを巻き込んだその罪も認めます。でも僕には、もうあなたしか頼る人がいないんです」
非難と懇願を含むイサヤの眼差しに、
(‥‥‥確か、まだ二十くらいだ)
イルカは、イサヤの年齢について考えた。
まだ忍として若い青年は、突然に兄を奪われ、一年間追われる身となったのだ。
危険を覚悟で自分と接触し、今こうして、助けを求めている。
イルカは深く息を吸った。
「‥‥‥どうして、昨日は‥‥‥はたけカカシに気をつけろと?」
「彼は奴らの仲間です。―――なにより、あなたの記憶を封じている張本人でもある」
「―――――‥‥‥」
「兄の死に関わっている上層部と暗部の人間を何人か割り出してはいますが、断定はできない。しかし、兄の命日を過ぎ、あなたの記憶の封印が弱まりだしたことによって、推測にすぎなかった標的たちが静かに動き出しています」
もう少しで、尻尾を掴めるのだと、イサヤは言った。
「‥火影様に直訴することは」
「できません。慈悲深い三代目とはいえ、関係する上の忍たちは里の実力者ばかりです。それらを罰することは里にとっての痛手。――うやむやに片付けさせるわけにはいかないんです。確かな証拠を突きつけなければ、奴らは簡単に逃げてしまう」
しかし、と口を開きかけたイルカだったが、
「‥‥‥っ」
突然、視界の端で動いた影に身体を強張らせた。
「大丈夫、僕の式です」
翼を持つ山猫に似た式が、いつからそこにいたのか羽を震わせている。
戸惑うイルカの前に、山猫は口にくわえていた包みを足元に落とした。
「‥これは」
「薬の調合に必要な材料です」
薬、と聞かされ、拾い上げたイルカは中身を確認した。
確かに、調合に必要な材料ばかりだが―――そのほとんどが、入手の困難な危険な代物ばかりだ。
おもわず言葉を無くすイルカに、
「あなたの記憶を呼び起こすのに必要な薬です。‥ご察しの通り、大変危険が伴います」
中に調合の手順を記した紙があるとイサヤは言った。
躊躇いのない声。
しんと静かな瞳に、イルカは青年の覚悟を見た。
「一年間、存在を殺して待ち続けました。これを逃せば、望みはもうない」
痛みの共用を求める、迷いのない覚悟。
悲痛な声が、イルカの心をつらぬく。
「―――イルカさん。どうか、兄の敵討ちを僕にさせてください」
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