□ オオカミは歌う
第6話
―――――朝が来て、
イルカはカカシの言うとおり、アカデミーに休みの連絡を入れた。
朝食はカカシが作ると言っていたが、丁重に断った。なにか混ぜ物をされる恐れがあるかもしれないと危惧したから。
あっさり引いたカカシだが、彼の方は平気でイルカの作った料理を口にする。
カカシの方こそ、何か混入されると思わないのか。
それを信頼と勘違いする気はないが、無防備な姿を見せるカカシに、イルカは辛くなって目を伏せた。
それとも―――俺の命なんてすぐに掴めると思っているのか。
「イルカ先生、膝枕して」
朝食後、愛読書を取り出したカカシがちょいちょいと手招きをした。
当然のようにイルカの膝に頭を置いて、ぺらぺらと本を捲りだす。
まさか、のんびりというのは、本当にのんびりという意味なのか。
イルカの困惑をよそに、カカシは本当に言葉通りごろごろしていた。
時々、あたたかいコーヒーを飲んだり、傍目から見ても全身から寛いで見える。
その間、イルカはなんだかんだと、カカシのすぐ傍に置かれた。
確かに、これ以上の監視はないが、イルカもずっと家にいるわけにはいかない。
試しに買い出しに外に出てもいいかと聞いてみると、
「そうですね。散歩に行きますか」
昼食後、午後は散歩と決まった。
やっぱりついてくるカカシと共に外に出ると、空は灰色の雲。
空気は重く、今にも泣き出しそうな空だ。
(明日は、雨かも知れない)
買い出しを外出の理由にしたが、散歩の意味を込めて遠回りの道を選ばれた。
カカシはぴったりと隣を歩くが、家にいるよりは動きやすく、人目も利用できる。
いつ、どうやって単独行動に移ろうかと考えながら、
(‥‥‥妙な気分だ)
イルカは自身の心を見つめた。
明日になれば死を賭けた戦いが起きるというのに、イルカの心はひどく穏やかだった。
監視、という言葉がなければ、カカシは何もなかったようにいつも通りで。
まるで、最初の頃のようで。
―――――いっそ、何も思い出さなければ。
(‥‥‥馬鹿が‥)
おもわず浮かんだ思考に、イルカは眉を顰めた。
捨てたはずの甘い望み。そう思わせることが目的なのかと、疑いたくなるほど平穏な時間。
それならば成功だ。
この不謹慎なほど穏やかな心が、どれほどそれを欲しているか。
だが、
それ以上に覚悟もある。
(生き残るために)
昨夜、カカシに宣言した通り、死ぬ気などまったくない。
真実を追い求め、その果てに死があったとしても、自身から死を求めることはない。
―――生き残る。絶対に。
「‥‥あ〜、ちょっとここで待っててもらえます?」
見晴らしのいい高台のベンチを指差し、カカシがふいに言った。
返答も聞かずにさっさと立ち去る背に、離れるなら今だと思ったが、カカシがいなくなった途端に、別の視線がイルカにまとわりついた。
カカシの背が近くの林に消え、そこから複数の気配を感じた。
なんの話し合いか。
ベンチに腰を下ろし、イルカは嘆息した。
(こそこそと、殺しの話)
顔も知らない暗部たちの中に、カカシが加わっている。その光景を想像すると、ため息ばかりが出てくる。
イルカは胸元にある薬の存在を確かめた。
武器は最小限しかないが、使い慣れたものばかりだ。
たとえ力の差が歴然としていても、相手だって生身の人間だ。
自分に勝機がゼロだとは思わない。
武器の重さを確かめて、イルカは自分の心を落ち着かせた。
一気に動こうとした、その時、――――前の道を歩いてくる通行人が見えた。
(‥‥‥‥子供)
小さな女の子が、その場の緊張感に気付くはずもない。
デタラメな歌を口ずさんで元気に歩く姿に、イルカの集中は途切れたが、
(―――‥‥‥この歌‥‥‥っ)
どこかで聞いたことがある、と思った瞬間、イルカは立ち上がり、子供を呼び止めていた。
きょとん、とする女の子の傍に屈み、今口ずさんでいた歌は何かと聞くと、女の子はもじもじと身体を揺らした。
―――まだ下手なの。
女の子は恥かしそうに笑った。
小さな右手には、白い花束が握られていて、
イルカの視界の端で、蝶のようにひらひらと動いた。
―――あのね、この歌はね。
女の子が立ち去った方角を、イルカはずっと見つめていた。
カカシはすぐに戻ってきて、
「どうしました?」
呆けているイルカの顔を覗き込む。
「‥‥‥‥」
イルカは、カカシの顔を見つめ返した。
じっと、食い入るようにその露な右目を凝視し、
「‥いえ」
結局、口を閉じた。
「はあ。‥‥‥じゃあ、そろそろ買い出し行きますか」
イルカの呆けぶりに首を傾げ、カカシが先を促した。
高台の通路の先には、林の通り道がある。
木々に挟まれた長い寂寞の石畳を、二人は無言で歩いていた。
空がますます灰色になり、雨の匂いがきつくなってくる。
「カカシ先生」
イルカはふいに口を開き、
「初めて出会った時のこと、覚えてますか」
カカシと出会った時の、第一印象を話した。
「正直、胡散臭い人だと思いました。この人に生徒を任せて大丈夫かと」
「はは、なかなか鋭いですね〜」
歩きながら、なんてことのない他愛無い話。
気さくに答えるカカシの背中に、
「―――カカシ先生、俺のこと好きですか?」
唐突な質問を投げかけた。
今更聞かずとも分かりきっていること。
「ん‥? 何をいまさら」
前を歩きながら、カカシも背を向けたまま返す。
「オレたち恋人同士でしょ、Hだってしてますし」
間延びした声は、だるそうな含みを隠さなかった。
――今更のことだ。
「‥そうですね」
イルカは小さく口の端を歪めた。
返答に、何かを期待したわけではない。
カカシがこの話題を好まないことは分かっていた。
当たり前だ。
カカシは監視者だ。
でも、
どうしても今、伝えなくては。
「―――――俺は、あなたを愛しています」
これがきっと、
最初で最後の―――愛の言葉だ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥は?」
カカシの足が止まり、ようやく振り向いた。
珍しいものを見るように、カカシの目がイルカを下から上まで眺めた。
少し剣呑な色を浮かべた眼光が、痛いほど見つめる。
「‥そりゃまた、‥‥‥ずいぶん可愛いーこといいますねぇ、アンタ」
可愛い。
男には不似合いな言葉を、これまで何度かカカシから言われたが、今なら分かる。
カカシの「可愛い」は、「阿呆」という意味だ。
「なら、ちょっとはいい子にしててくださいよ。そしたら、アンタの望む言葉をあげてもいいから」
カカシはにっこり笑って言った。
優しい、貼り付けた笑顔。
イルカは小さく笑って、
「いりません」
と首を振った。
「はい?」
「俺も、もう二度と言いません」
「‥‥‥は」
「お別れです。カカシ先生」
「‥‥‥‥‥‥」
決別の言葉を、イルカは迷いなく口にした。後悔はない。
「あ〜‥」
カカシは、珍しく反応を鈍らせていた。
「‥イルカ先生。アンタの身柄はオレが預かってます。勝手な行動されると困るんですよ」
「じゃあ、殺しますか」
「――‥‥‥まあ、そうなります」
カカシは頭を掻いて、茫洋に答えた。
その困ったような呆れたような顔を見詰めて、イルカは言った。
「カカシ先生。――――あの時‥‥、あなたは何を歌っていたんです?」
カカシの身体が硬直するのが分かった。
全身に緊張が走り、眠そうな右目に本物の殺意が走る。
びりびりと伝わる気迫に耐え、
イルカはゆっくりと踵を返した。
殺意を剥き出しにするカカシに背を向ける。
歩き出そうと一歩踏み出すと、
「――――行けば、すべてが終わりですよ」
カカシの声が空気を震わせた。
すべてが終わり。
それはきっと言葉通り。
だけど、
イルカは振り返り、笑って見せた。
「‥いいえ、すべてのはじまりです」
そうしてみせる。
きっと。
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