□ オオカミは歌う
第11話
深呼吸を何度も繰り返し、やっと痛みが和らいだイルカは上体を起こしたが、
「‥‥‥?」
小さな鳴き声に眉を顰める。
大樹のうろを覗き込む小さな生き物は、イサヤの使う山猫だ。
式のそれは、赤虎に気付かれずに来たらしい。
足元に近づいて擦り寄ってくる山猫に、イルカは身体が動くか確かめた。
――イサヤが近くまで来ている。
潜入しやすいように騒ぎを起こしたが、演習場にまで入り込めるか危惧していた。
イルカは多少ふらつく身体を叱咤し、そっとうろから抜け出す。
雨の中、周囲に寝そべっていた赤虎が一斉にイルカを見るが、とくに飛び掛ってくる様子はない。
観察するような目に狂気はなく、一瞥だけで済ませる虎もいる。
逃がしたイルカを特別視しているのか。なんにせよ、今はありがたい。
先を歩き出す山猫について行こうとしたイルカだが、
「‥‥‥?」
赤虎たちが身じろぎし、視線を森の奥へと集中させる。
低く唸り声を上げ、何かを威嚇しているようだ。
森に――侵入者が入り込んだのか。
殺気立つ赤虎たちに、イルカは急いで場所を移動する。
(‥‥‥きっと、あの人だ)
確かめずとも、イルカには分かった。
次々に移動を始める赤虎たちに背を向け、イルカは大地を蹴った。
樹木の枝に着地すると少し眩暈がしたが、劇薬を服用してこの程度で済んだのは幸運だった。もしかしたら他に副作用が出るかも知れないが、今、動ければいい。
しばらく移動を続けたが、何度か他の赤虎とすれ違った。
逃がした数は三十頭。さすがに接触する数も無くなっていくと、
「‥‥イルカさん‥‥っ」
唐突に名を呼ばれた。
山猫が姿を消し、代わりにイサヤが飛び出してきた。
「‥イサヤ‥っ、よく無事で‥‥‥」
駆け寄ったイルカは、その腕に触れた。質感のある、幻ではない本物だった。
「イルカさんこそ‥っ、こんな危険な真似をさせてすみません‥‥‥」
「俺のことはいいんだ。‥こんな作戦しか思いつかなくてすまない。よくここが分かったな」
「山猫があなたの匂いを覚えていますから。‥‥‥イルカさん、本当に大丈夫ですか? 顔色が‥‥‥」
イルカの青ざめた顔にイサヤは眉を顰めたが、「大丈夫だ。――それよりも」イルカは相手の肩を掴み、向き合った。
「―――――記憶が戻った」
「‥‥‥っ、本当ですか‥‥‥っ」
「ああ、すべて」
「‥では‥‥兄が死んだ時のことも?」
「ああ」
「‥‥殺した人間たちを、判別できますか」
「できる。顔は分からずとも、声と体躯から判断できる」
「‥‥‥‥‥‥っ」
イサヤは声もなく震え、目を閉じた。
「‥ありがとうございます‥‥。本当に、感謝します‥‥っ。それでは‥っ、すぐに火影様の元へ直訴に‥‥!」
一年間の逃亡生活が、ついに報われる日が来たと、イサヤは歓喜の涙すら浮かべたが、
「―――イサヤ、その前に頼みがある」
イルカの固い声音が、それを遮った。
「‥え、‥?」
「もう一度、里を出て―――ある人を探して来て欲しい。そして、里へ連れてきて欲しいんだ」
突拍子ないイルカの頼みに、イサヤはやや呆然とした。
「え‥‥里を、もう一度出る‥‥‥?」
「次に入り込む時は、正門から入れると約束する。お前は、今から言う人物を必ず連れてきて欲しい」
「‥イルカさん、あの‥‥何を言っているのか理解できません。誰を探して来いというのですか」
「大事な証人だ」
「証人なら、僕とイルカさんだけで十分ですよ。どうして今更‥‥‥。‥、思い出した記憶に関係する人なのですか‥‥?」
「そうだ」
「‥‥しかし‥‥‥」
イサヤは渋っていた。
苦労の末、やっと入り込んだ木の葉の里だ。次は正門から入れるというイルカの自信も疑わしい。イサヤは自然と厳しい顔つきになった。
「‥どうしても行けと言うのですか?」
追い詰められた環境に長くいたイサヤは、もはや疑心の塊だった。
唯一、信じられる人物に、また外に出ろと言われ――その疑心は剥き出しになる。
もし、イルカが裏切っていたら。またあの逃亡生活に逆戻りだ。
兄の無念は、今日でなければ晴らせないのに。
自然、距離を置こうと離れるイサヤに、
「‥‥‥っ」
イルカは力任せにその身体を引っ張り、抱きしめた。
反射的にもがくイサヤは、力強い腕の抱擁を受け、
「大丈夫だ、イサヤ。―――お前を助ける」
迷いのないイルカの声を聞く。
助ける、と。
「‥‥‥イルカ‥‥さん‥‥‥」
「俺を信じてくれ。これは、ツルギの意志でもあるんだ」
「‥‥‥‥‥‥分かりました‥‥‥」
イルカの腕の中で、イサヤは穏やかな声で頷いた。
「あなたを信じます。‥‥‥でも、イルカさん。あなたは‥‥」
もう裏切られたとは思うまいが――この状況下にイルカを残していくことを、イサヤは懸念した。
そんなイサヤの危惧に、少しの沈黙の後、
「‥‥‥約束するよ。必ず合流する」
イルカは強く頷き、優しく微笑む。
イサヤは、その言葉を信じた。
再び里の外へと出発するイサヤを見送り、イルカはため息をついた。
安請け合いをと、己を批難したい気持ちはあるが――守りたいと思う気持ちも本物だ。
(必ず合流する)
その為には、あの人と対峙する必要があった。
「‥‥‥‥‥」
いまだ強く降る雨の中、消えぬ血の匂いが流れてくる。
イルカはゆっくり後ろを向いた。
雫で流れ落せない血を浴びたカカシが――そこにいた。
「話は済みましたか。イルカ先生」
血糊のついたクナイを払い、カカシは無造作に近づいてくる。
「終わるまで待ってくれていたんですか」
「ま、最後くらいはね」
静かな殺気を剥き出しに目前に立たれても、イルカは動かなかった。
「アンタも、オレを待ってたんでしょ?」
「‥‥‥‥‥‥ええ」
否定はしない。その通りだったから。
「――静かに眠らせてあげますよ」
濡れたクナイが振り上げられる。
ぽたぽたと、切っ先から血と雨が混ざった雫が落ちて、イルカは無感動に眺めた。
「カカシ先生」
相手の目を見る。
覗く右目に宿るのは、迷いのない殺意。
「ひとつだけお願いが」
返答は無かったが、言葉を続けた。
これだけは、どうしても―――言っておかなくては。
「俺にも、あの歌、うたってくださいね」
言葉にしたら、自然と頬が緩み、笑顔が出た。
覗くあの人の右目が、歪む。
瞬きを一度したら、二度と光は無かった。
暗転。闇の中へと、イルカは落ちていった。
雨はやまなかった。
誰かが雨の音は拍手の音に似ていると言っていたが、雨は雨だ。
濡れるのを嫌がって腐ってるところを、賛美されて何が嬉しいか。
(でも俺は、雨は嫌いじゃない)
大地は喜ぶし、カエルだって嬉しい。地上の埃を洗い流してくれるし。
きっと、人の恨みや怒りも、洗い落してくれる。
(‥‥でも、今日の雨は‥冷たい‥)
冷えた身体が、感覚を鈍らせる。
無意識に何かあたたかいものを求めようと手を伸ばしたら、柔らかい物に当たった。
これは、人だ。
(‥‥‥あれ‥‥?)
目が開いた。
闇から光へ、開かれた瞼から外の光景が飛び込んでくる。
イルカは生きていた。
大きな木のうろの中で、雨を避けるように横たわっている。
そして、隣に座っているのは――カカシ。
夢うつつで伸ばした手は、カカシの腕を掴んでいた。
カカシは、うろの外の雨を見詰めるようにじっとしている。
覚醒したイルカを見ようとはしなかったが、
「―――オレ、あの歌、嫌いなんです」
ぼそり、とカカシが言った。
イルカは両腕に力を入れ、身を起こした。首筋が、手刀を食らったのかひりひり痛む。
「‥‥だから、殺さないんですか?」
少し擦れた声で尋ねると、
「そうです」
やや疲れた声音で、カカシは肯定した。
「‥‥‥そうですか」
身体をずらし、イルカはカカシと背を合わせた。
くっつけあった部分から、じんわりと熱が伝わってくるが、二人ともずぶ濡れだ。
「‥‥‥このままだと、風邪引きますね」
意味のない言葉。
分かっていながらも、イルカは言いたかった。
少し涙が出てくる。
安堵の涙ともいえるが――、また、カカシをこうして肌で実感できて、嬉しい。
「‥‥‥あいつですけど‥‥」
イルカは静かに口を開いた。
「‥ツルギは、いつも悩んでました。でも、あの場所が、自分の生きる場所だと言ってましたよ。だから――変えたいと」
思い出した記憶を、イルカはゆっくり辿った。
「でも‥自分の危険も理解していたようです。死期すらも。‥‥‥俺はあいつほど物分りはよくなくて、なんとか出来ないかと思ったけれど‥でも、結局は役立たずでした」
死にゆく友の傍で、無様に意識を失っていた自分。
思い出すのは辛いけど、記憶の中のツルギはいつでも命溢れていた。
「‥‥ツルギのやつ、カカシ先生ともっと話してみたいと言ってました」
相槌を期待しているわけではない。でも、聞いてくれていることは分かった。
独白のような思い出話の最後に、
「―――俺は、あの歌好きですよ。カカシ先生」
イルカは歌のことに触れた。
「‥‥‥あいつへの手向けに、歌ってくれたのでしょう?」
調子外れで、メロディーなんて子供といい勝負だけれど、切ないほど心がこもっていた。
ありがとう、とイルカは感謝の言葉を口にする。
すると、触れ合った背が僅かに身じろぎし、「‥‥‥?」カカシの異変に、イルカは身体を起こした。
震えているようにすら感じるその背に、
「‥‥泣いてるんですか?」
まさか、と小さな声で尋ねる。
上体を伸ばして、そっと覗き込んだが、
いまだ滴り落ちる雨水で、それが涙かわからなかった。
カカシの目がイルカを見詰め、
「イルカ先生―――キスして?」
いつかの言葉を言われる。
あの時よりもずっと疲れた声で、まるで降伏するようにキスを乞うカカシに、
イルカは覆面の上から、そっと唇を押し付けた。
そっと押し付けられた唇は、意図的か覆面の上からだった。
直に感じたくて、自ら覆面を下ろし、イルカの唇を貪った。
息をする体が、たまらなく安堵感を呼ぶ。
どうして、このあたたかさを消せると思ったのか。
(‥‥降伏も降伏。――この男にはかなわないよ)
イルカの首根っこを押さえているつもりだったのに、イルカはいつでも逃げ出し、そして向き合ってくる。
忘れてたわけじゃないが、イルカも男だった。
そして、そんな潔さに――駆け引き無しで惹かれていた。
(‥オレ、かっこ悪いねぇ‥‥)
結局殺すことはできず、その上、慰めてもらう始末。
(‥‥オレと話したかったって?)
その話を聞いて、初めて自分もそう思っていたことに気づく。
自分は、馬鹿正直に生きる人間に惹かれるようだ。
だが、変えるなんて無謀な話だ。この世界じゃ長生きできない。それが分かっていながら突っ走る彼らの神経だけは、未だに理解できない。
ツルギに対しても、一度は制止を促した。
縋ってくるなら、なんとか手を打ってやったのに。
ツルギも、イルカも、その手を思い切り叩き落してくれる。
(‥‥‥さて、これからどうしようかね)
自暴自棄な人間に惹かれる己の性癖を憎み、カカシは諦めのため息をついた。
腕の中の男を、逃がしたくないし、殺したくない。
だが、自分には暗部の仲間たちの鎖があった。
罪で繋がった一蓮托生の鎖を、いったいどうすればいいか。
「―――カカシ先生」
思考を、イルカの声が遮る。
肩から顔を上げて、間近から覗き込む黒瞳の透明さに少し息を飲んだ。
だが、それ以上に、
「ここはひとつ―――俺の味方につきませんか」
次の言葉には、心底呆気に取られた。
「‥‥‥‥‥は?」
「‥‥あなたが、俺を選んでくれるか――命をかけた賭けでした」
口調も眼差しも、なんて迷いのない。
「罪も、責も、すべて一緒に背負います。だから、古い鎖を断ち切って、俺についてきてください」
「‥‥‥‥‥‥」
言葉が出ない、とはこの事だ。
自分側につけと? 中忍一人が、暗部上がりの上忍を買う?
代償は、罪と責を共に背負い、共に、歩くこと。
(古い鎖は‥断ち切れだって‥‥‥)
カカシは唖然としながらも―――ああ、この人だなぁ、と奇妙に納得した。
自分が言えることではないが、ツルギにも、イルカくらいのふてぶてしさがあれば。
(そう‥‥ふてぶてしいよね、この人)
自分がいくら誘っても、言う事を聞かなかったくせに。
アンタが、このオレの主導権を握るつもり?
――さすが獣使い、といったところか。
しかし、やられっぱなしも癪なので、何かやり返してやろうかと思ったが、
「カカシ先生は、俺を選んでくれた。そうでしょう?」
駄目押しとばかりに、覗き込むイルカが言った。
はい。惨敗決定。
ああ――しかし、まいった。
アンタ、けっこうしたたかだったんだね。
流されるままかと思ったら、負ける気なんて全然ない目をして。
腐ってたこの心にも、火をつけてくれるよ。
「‥‥言っときますが、イルカ先生。オレは負けるのは嫌いですよ」
やるからには―――勝利の位置に立つ。
獣のやり方でね。
一応凄んでみた発言だったが、俺もです、とイルカはにっこり笑った。
「‥‥‥アンタにはかないませんよ」
カカシは、降参の意味を込めて手を上げた。
ミイラ取りがミイラになるって話は、きっとこれだろうな。
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