□ 溶けるように
第一話
夢を見た。
ちらちらと舞い落ちる結晶の塊。
ある地域では白い妖精と言われる雪が、優しく身体に触れていく。
凍えそうなほど寒い。
夢の中なのに、指先が痺れるような痛みを訴えた。
どうして、雪の中にいるのか。
無限に広がる白い景色。
目前の静寂の世界は、まるでこの世界に自分一人しかいない錯覚を憶えさせるが、
視界の先に、一人の人間の姿があった。
いつから対峙していたのか。
それは十代半ばの少年のように見えたが、はっきりと容貌を確認できない。
その口が、微かに開き、言葉を発した。
「―――――――」
声は聞こえない。
だが、耳には確かに届いた。
言葉の内容に衝撃を受け、氷のように膠着すると、
くるりと反転し、少年は呆気なく去っていった。
呆然と立ち尽くし、呼び止めることもできない。
ただ一人、雪の中に取り残される自分。
雪の勢いが強くなり、どんどん身体に降り積もった。
もう、
どこからが雪で、
どこまでが自分なのか分からない。
己を飲み込もうとする白い雪に、
イルカは声にならない想いを呟いた。
雪は、嫌いだ。
夢は、そこで弾けた。
「‥‥‥‥‥‥」
ベットの上で何度も瞬きをする。
唐突な覚醒に、一瞬、夢と現実の区別がつかなくなった。
視界には、見慣れた天井。
大丈夫、雪はここにはない。
しっとりと冷や汗の滲んだ額に手をやり、イルカはゆっくり上体を起こした。
(‥‥‥懐かしい夢だ)
十代の頃、頻繁に見ていた夢だ。
二十代になってから見なくなっていたのに、
(‥今更、なんで)
手が、小刻みに震えている。
ここはもう雪の中ではないはずなのに、身体の芯まで冷え切っているような気がした。
雪の悪夢。
この夢を見た後は、いつも言い知れぬ冷気に心を蝕まれる。
「‥‥‥さむ」
ベットから落ちかけたシーツを引き寄せ、身体に纏わせたイルカは長いため息をついた。
夜明けまでまだ時間があるというのに、目は完全に冴えてしまった。
こんな時、無理にでも睡眠を取ろうとすると、繰り返し同じ夢を見る。
嫌な悪夢。
だが、あれはただの夢ではない。
(雪は‥嫌いだ)
夢の中でこぼした台詞を、そっと心の内で呟いた。
あれは夢ではない。
過去の、実際に起こった記憶の一部だった。
時間と共に薄れていく記憶だが、深層心理には深く刻み込まれている。
忘れようと努力し、思い出さなくなっても、自由にコントロールできない夢の中に現れ、ふいに自分を苦しめる。
十代の頃は不眠症にさえ陥っていたが、二十代に入ってからは、任務や教職の忙しさに夢を見る暇すらなくなった。
―――もう、忘れたと思ったのに。
ぶる、と鳥肌が立った。
窓はきっちり閉めているが、冷たい風が差し込んできたような気がした。
「‥‥‥‥」
カーテンをわずかに開き、外を見上げる。
冴え冴えと光る月が、幻のように輝き、空気が澄んでいることを静寂で教えてくれた。
もうすぐ、冬が来る。
やってくる冬の匂いが、記憶を呼び起こしたのかも知れない。
懐かしい―――それでいて、けして癒されない過去の傷。
夜空を見上げ、イルカはまた長い息を吐いた。
結局、中途半端な目覚めのまま、イルカは朝まで一睡もできなかった。
睡眠不足に少々瞼が重いが、てきぱきと身支度を整え、アカデミーへと出勤する。
一般の出勤時刻よりずいぶん早いのは、授業の予習と準備を行うためだ。
勤勉なイルカは、いつも子供たちより早く到着する。
時には一番に職員室に入ることもあるが、
「‥あ、おはようございますっ、イルカ先生」
珍しい。
職員室の扉を開けたイルカは、半数以上揃った同僚の教員たちに目を剥いた。
「おはようございます‥‥‥。皆さん、お早いですね」
けして、珍しい、の第一感想は口にせず、イルカは挨拶を返した。
集まった教師の中には、いつも遅刻ぎりぎりにやってくる先生の姿まである。
なにか緊急の召集でもあったのか。
「あっ、も‥もしかして、会議とか‥ありましたか?」
イルカは慌てて問いかけた。今朝の夢のせいで忘れてしまったのかと、自分の記憶を急いで探るが、
「違いますよ、イルカ先生」
隣の席の女教師が優しく否定した。
「召集がかかったわけではないんです。実は‥まだ一部の忍しか知らないのですが、昨夜[猛る炎]の一団が里へ帰還したらしくて‥‥‥」
「‥‥‥え」
一瞬言葉を無くすイルカに、他の職員も口を開く。
「長く里を離れていたからなあ。途中で帰還するメンバーもいたらしいが、一番長い者で‥十年近く前線にいた忍もいるだろう」
教員たちは口々に発言した。
「大変な長期任務だったなあ。わたしら万年中忍には耐えられんよ」
「[猛る炎]は里の忍の中でも最も優秀な人材から選抜されたエリート集団だからな。その忍たちが帰ってくるとなれば、里の戦力も一気に向上するってもんさ」
「‥‥でも、ちょっと心配ですわね。ずっと各国を回って、戦に関わってきた忍たちでしょう?子供たちになにか影響があるんじゃ‥‥‥」
「おいおい、[猛る炎]の忍者たちは木の葉では英雄だぞ。子供たちだって知ってる。生徒の前でそんなこと言わないでくれよ」
「たしかに、不安に思うこともあるがな。何人かのメンバーが下忍の教育者として当たるのはもう決定事項だ」
「各国の視察、暗躍を終えて、やっと戻ってくる優秀な忍たちだ。皆思う所はあるだろうが、快く迎えようじゃないか」
「‥‥‥そうですね」
早朝から集まった教員たちは、数年ぶりに帰還する[猛る炎]の忍の何人かが、下忍の教育者として当たることについて話し合っている様子だった。
口々に発言し、最終的には受け入れることに決定したようだが、
「―――イルカ先生? どうなさったんです? 顔色が‥‥‥」
隣の席の女教師が、呆然と突っ立ったままのイルカの顔を覗き込んだ。
発言もせず、ただ立ち尽くしていたイルカは、
「だ、‥大丈夫です」
なんとか笑顔だけは浮かべたが、きっと酷い顔色をしているだろう。
[猛る炎]の忍たちが帰ってくる。
その言葉を聞いた瞬間、一気に血の気が下がった。
帰ってきた。
あの男が。
あの少年が。
今朝の夢は、冬の匂いに呼び起こされたものではなく、
この突然の帰還を予知し、警告を込めて蘇ったものだったのかもしれない。
帰ってきた。
イルカは頼りない足取りで、自分の席へついた。
帰ってきた。
―――はたけカカシが。
その日、静かな出迎えの宴が設けられた。
盛大な接待などはない。
ただ静かに、生きて戻った忍に対して、里は最高の敬意を表した。
下忍を外した忍のほとんどが集合し、その宴に参加した。
[猛る炎]の忍たちは炎を象った模様の、独特の忍装束を着ている。一目で分かる誉れ高き装束に、現れた瞬間、出迎えの忍たちにざわめきが走る。
それぞれ生還者に相応しく、隙の見えない完成された空気を纏っていた。
人々の感嘆、羨望の視線を受けながら、[猛る炎]の忍たちは、火影の御前に並ぶ。
ねぎらいの言葉がかけられる間、参加者の一番後ろにいたイルカは、人込みの間からそっと[猛る炎]の一団をのぞき見た。
参加することを最後まで渋っていたが、教員という立場上断ることはできなかった。
一番後ろで隠れるように出迎えながら、視線はこっそりあの男を捜している。
「‥‥‥っ」
イルカは瞬きをした。
(‥変わってない)
――――いや、変わったか?
鼻まで覆った覆面。右目を覆った額あてで、例の写輪眼を隠しているようだが、寝癖のような頭も変わりない。隙のない張り詰めた雰囲気と、鍛えられた細身の長身は成人した男のものだが、外見的には、昔の記憶の中にある少年が、そのまま大きくなったイメージそのものだ。
イルカの眼には、カカシの姿が少年の頃と同じ姿に見えた。
(‥もう十年近くになるのに)
夢の中ですら容貌の記憶が薄れていたのに、いざこうして肉眼で見ると、離れていた時間など大した影響はないような気がする。
イルカの脳裏に留まる、一つ上のカカシはいつも暗部の姿をしていた。
まだ互いに十代の頃。
記憶はあまり鮮明ではないが、それは忘れようと努力した結果。
「‥‥‥」
やがて、火影の言葉も終わり、[猛る炎]の一団は退席を始めた。
このまま宴の席へと移動し、参加者たちも向かうが、
(俺は帰ろう)
複雑な心境ながらも、無事に戻ってきた同じ里の忍たちに敬意をあらわし、出迎えの席だけは出席したが、宴まで出る気にはならない。
抜け出すタイミングを窺っていると、
退席する一団の中、カカシの目線だけが、ふとこちらを見た。
「―――――っ」
たった一瞬のこと。
だが、視線は迷わずイルカの眼とぶつかった。
カカシは、自分の存在に気づいていたようだ。
あのふいに向けられた視線の意味はなんだろう。
じんわり滲む冷や汗に、イルカは俯き、自分が息を止めていたことに気づく。
(‥酷いびびりようだな)
自分の過剰な反応に、自嘲の笑みが出る。
だが、緊張するのも仕方がない。
(―――また、何かさせられるのか)
自分は、
けしてあの男に逆らえないのだから。
***
[猛る炎]の忍たちが帰還して二週間。
予想に反して、カカシからの接触はまるでなかった。
連日、極度の緊張を強いられてきたイルカも、ようやく普通の生活に戻り始めた。
帰ってきた[猛る炎]のメンバーの、その後の活動についてはほとんど伏せられているものの、一部は炎の装束を脱ぎ、木の葉の忍者服に袖を通した。
ほとんどのメンバーが暗部、もしくは内密な活動に身を投じる中、一部は先の予定通り、アカデミー卒業生の下忍教育者として当たる。
その中に―――はたけカカシもいた。
教師となって、何組かの下忍見習いの試験を担当したようだが、一度も合格者は出していないようだ。
木の葉の忍の中で、彼はすでに話題のほとんどを浚っていた。
教師にあるまじきことだが、常に十八禁の書物を持ち歩き、集合予定には必ず遅刻する。
[猛る炎]の元メンバーとして、同じ上忍たちも扱いに戸惑っていたが、飄々とした物腰、強いのか弱いのか分からない雰囲気と、上忍を笠に着ない態度に、好感は高かった。
彼をよく知らない人間は、里の外でも有名なコピー忍者として尊敬を込めて話し、
彼を少し知る人間は、飄々とした掴み所のない人間だと言い、
彼をよく知る人間は、仲間を大事にする信頼のおける忍者だと言う。
イルカの知るカカシは、
――そのどれにも当たらなかった。
それでも、
数年ぶりに木の葉の里での生活を始めたカカシは、昔からここに住んでいたかのような順応ぶりを見せ、周囲に溶け込んでいった。
そんな彼と、受付所で偶然に会った。
今まで会わないように、細心の注意を払ってきたというのに。
「おい、はたけ上忍だぞ」
隣の席の同僚が嬉しそうに小声で話し掛けてきた。
そんなことは分かってる。
イルカは俯き、書類に目を通すことに専念した。
「すげぇよなあ。あんなエリートになってみたいぜ」
感嘆の言葉をもらす同僚に返答できるだけの余裕はない。
受付所という、こんな狭い空間に、あの男と一緒にいる。
(‥‥また、何か言われたらどうしよう)
蘇るのは十代の頃の嫌な記憶。
掌に冷や汗が滲むほどの苦痛に、息さえも詰まったが、
「‥‥‥‥‥‥?」
カカシは一向に接触してくる気配はない。
むしろ、イルカの存在に気づいていないかのように、上忍仲間と会話をしている。
受付所へは、その同僚に用があって訪れたらしい。
(‥‥‥どうして‥‥‥?)
昔なら、なにかちょっかいを出してきた。
おもわず疑問の眼差しでカカシを盗み見したが、背を向けた男は振り返らない。が、
「お、おい。こっちに来るぞ」
同僚が慌てたように言い、イルカも急いで俯いた。
カカシと話していた上忍が、隣の同僚に報告書を差し出す。その横に、カカシも立った。
自然、イルカはカカシと向き合う形になり、そのあまりの近さに眩暈がした。
完全に膠着していると、隣の同僚はあわてた様子で報告書を確認している。
早く、終わらせてくれ、と心の内で願うイルカだったが、
「一日中、報告書の受付なんて大変でしょ」
ふいに、カカシが話し掛けてきた。
自分にかけられたのだと一瞬遅れて気づき、びく、と手が震えた。
「そうなんですよ、任務内容に不満をこぼす方とかいますからー、対応も大変で」
答えたのは、隣の同僚だった。
「頑張ってくださいね、アンタたちは里の顔なんだから」
今度のカカシの言葉は、イルカを含めて同僚にも向けられた。
同僚は嬉しそうに「またまた、上手いこと言いますねー」と笑い、
「‥‥‥‥‥‥」
俯いたままのイルカも、このままの態度は変に思われると、必死の思いで顔を上げた。
カカシは、まっすぐにイルカを見下ろしていた。
感情の読めない右目に、すぐにでも顔を伏せたくなるが、
「‥‥‥ありがとうございます」
少々つまり気味だったが、なんとか礼儀だけは保てた。
十年ぶりの接触は、呆気なく終わった。
報告書の確認を終えた同僚が頭を下げ、上忍とカカシは、その後とくに目立った行為もせず、受付所を後にした。
「イルカー、お前、いいなあ。はたけ上忍に声かけられて」
見えなくなるまで見送った同僚は、羨ましそうに話し掛けてきたが、
イルカは半ば放心状態になっていた。
今だかつて、あれほど普通の会話をあの男としたことがあるだろうか。
イルカは必死に記憶を探り、皆無であると確信する。
(‥‥もう‥‥‥いいのかな)
あれから、十年近く経過した。
しかも、互いに十代と若かった。
長い任務を経て、少年は名高い忍者へと変貌し、志強き木の葉の忍として帰ってきた。
今までの不安は杞憂であったか?
あれは、子供の頃の冗談であったと、今カカシは、何もなかったように接することによって、イルカに伝えたのではないだろうか。
―――楽観しすぎる思考か。
だが、イルカは、その考えに縋りつきたかった。
あれは、若かりし頃の悪い冗談だと。
あの言葉は、もう無効であるのだと信じたい。
(‥‥‥もう‥‥‥いいよな?)
カカシが里へ戻ってきたから二週間。
イルカはやっと、人心地つく息を吐いた。
その帰りだった。
受付業務が終了し、少々残業にも手をつけたイルカがようやく家路につこうとすると、
「イルカ先生」
同僚の女性から声をかけられた。
アカデミー職員の、隣の席の女性だ。
「お疲れ様です。‥‥‥あの、よければ一緒に夕食でも‥どうですか?」
姿を見た瞬間、偶然でないことは分かっていた。
女性は、前々からイルカに好意を示してくれていた。誕生日や祝いの日には、必ず贈り物を用意してくれる、気配りを忘れない優しい女性である。
イルカ自身、好かれることを悪く思うはずもなく、女性の好意を嬉しいと感じていたが、
長く、彼女に対してはっきりした言葉を言うことを躊躇っていた。
その原因は―――はたけカカシ。
過去の記憶がイルカを縛り、女性の好意を受け入れることを迷わせた。
はっきりした態度を見せないイルカに、今まで何人かの女性は反応がないと諦めていったが、この女性だけは、忍耐強くイルカに好意を示し続けてきた。
受け入れられない理由も話さないイルカ。そんな男に、女性は今日も、肌寒くなってきた夜にわざわざ誘いの言葉をかけに来てくれる。
イルカは、ついさっき受付所で会ったカカシの態度を思い起こした。
(‥‥もう、いいよな)
再度、イルカは許しを請うように心の中で呟いた。
そして、
「――ええ、飲みに行きましょう」
「‥‥‥え」
承諾の言葉を口にしたイルカに、女性はぽかんと口を開けた。
今まで数限りなく断られてきた誘いが、まさか受け入れられると思っていなかっただけに、その驚愕は大きかった。
「あ、あの‥‥あの‥‥‥っ」
顔を真赤にして、泣き出しそうになる女性に、イルカはすまなさそうに笑う。
「今日は、俺が奢ります。‥‥‥今まですみませんでした」
「いえ‥‥‥いえ‥‥‥っ」
高ぶった感情に堪えきれなくなったのか、顔を押さえて泣き出した女性は、体当たりするようにイルカに抱きついてきた。
やわらかい身体の感触にぎょっとしたイルカだが、
その肩を宥めるように叩いた。
女性はそんなイルカに、
「‥‥生徒にするような慰め方、しないてぐださい」
鼻を啜りながら訴える。
見事に真赤になった彼女の鼻に、イルカはつい笑ってしまった。笑ったことについてまた怒られたが、どんどん赤くなる相手の顔に、微笑みはこぼれてしまう。
終いには二人とも笑っていた。
―――その後、
二人は初めて夕食を共にした。
行き着けの居酒屋に女性を連れて現れたイルカに、店主や馴染みの客が散々冷やかしの言葉を投げかけ、酔った二人の顔をさらに赤くさせた。
同じ職場で働く二人の会話は弾み、互いに楽しい時間を過ごす。
帰り道では、家まで送ったイルカに、部屋へ上がってはと誘われたが、それはさすがに断った。
女性もはた、と我に返り、自分の積極的な行為に頬を赤らめる。
「あの‥‥‥では、また明日」
「‥ええ、また明日」
まだ、この関係は始まったばかりなのだ。
いつまでも手を振る女性に何度か振り返りながら、イルカは遅い帰路へとついた。
夜道は静まり返り、頭上には月が出ていた。
吐く息が、微妙に白い。
冬がまた、近づいてきた。
だが、今年の冬は雪に怯えなくて済みそうだと、そんなことを考えていた、
矢先、
「――――あ、どーも」
突然、静寂に声が響き、
イルカの足が、びくっ、と止まった。
道先に、忽然と人影が現れた。いや、最初からそこにいたのか。
今にも消えそうな外灯の明かりに、銀髪が照らされる。
うっそり現れた猫背の男は、目線を下斜めにずらし、ぼりぼりと頭を掻きながら現れた。
どうして。
イルカの頭には、それしか浮かばなかった。
昼間の受付の時とは状況が違う。
今は、明らかに自分を目的として現れた。
―――はたけカカシ。
「えーとですね」
カカシの右目がゆっくりと、イルカの足元から顔に上がる。
「誰が女作っていいって言いました?」
「‥‥‥‥‥‥っ」
昼間と変わらぬ気さくな口調。
だが、その裏に潜む絶対的な威圧感に、イルカは言葉を無くした。
「アンタ、オレの”足”でしょ。内緒で勝手に人生作らないでくれます?」
突きつけられた事実。
必死で、忘れようとしてきたのに。
また、
また―――始まるのか?
イルカは目の前が闇になりそうな絶望感を憶えながらも、必死に声を出そうとした。
「で、‥でも‥‥‥」
「昼間は、らしくもなく遠慮してあげたんですがね。教師という仕事柄、オレの”足”って立場がばれると面倒でしょ」
―――”足”
今だ生きている、過去の契約。
十年以上経っても、
まだそれは、自分を縛るのか。
消えない鎖。
忘れもしない。雪の中で繋がれた、言葉の鎖。
「‥‥‥‥‥‥‥‥すみません」
イルカは謝るしかなかった。
抵抗はできない。
彼の言葉、絶対なのだ。
「‥ま、いいですよ」
無表情に、対峙するカカシはあっさり言った。
「それより、イルカ先生。5日後に任務に出ますので、そのつもりで整理しておいてください」
「‥‥‥‥えっ?」
唐突な命令だった。
「‥どのような任務で‥‥‥」
「後で書類送ります。予定としては一ヶ月はかかりそうなんで、そのつもりで」
カカシの言う整理とは、身支度だけでなく、もしもの時のための、あらゆる意味での整理を含んでいた。それだけ、重要な任務なのだ。
言いたいことはある。だが、
中忍として、”足”として、断れるはずがない。
「‥‥‥承知致しました」
「はい。じゃ、そういうことで」
承認したイルカの言葉と共に、カカシはくるりと背を向けた。
―――いつかの記憶と重なる。
(この人は‥‥本当に、いつも突然なんだ)
闇の中に溶けていくカカシの後姿を見つめ、イルカは体中が重たく感じた。
見えない鎖が、ぎりぎりと自分を締め上げているような気がする。
仰げば、そこには変わらぬ月。
冬が来る。
あの空から、もうすぐ雪が降る。
「‥‥‥‥‥‥」
白い息を吐きながら、イルカは考えた。
明日、彼女には断りの返事を告げよう。
こんな自分を好きになったことを悔やむほど、辛辣な言葉を用意して。
自分を憎むぐらいの、酷い態度で。
また――、
彼女を泣かせてしまうだろうか?
(‥‥‥‥あの人は、月のようだ)
昂然と頭上から見下ろす、
高潔なまでに冴えた存在。
「‥‥‥」
細い息を吐き、
イルカはゆっくりと、家路へと歩き始めた。
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