□ 溶けるように 



第2話








 ―――”足”とは、従する者の別名である。
 指名を受けた者は、”頭”となる主に対して絶対服従を強いられる。
 主に一族間に見られる主従関係だが、忍の間でも存在した。
 ”足”を必要とする忍は、ほとんどが暗躍に属する者であり、その多くは現役の暗殺戦術特殊部隊の人間であった。
 特殊かつ高度な任務を請け負う彼らであるからこそ、”足”という絶対的な命令を下せる戦力が必要であり、指名を受けた忍はけして抗うことは許されない。
 彼らの任務内容が公に発表されることはなく、
 ”頭”と”足”の繋がりは、あくまで水面下での関係であり、第三者が気づくことは少なかった。






 イルカが彼と出会ったのは雪の日だった。
 木の葉の里に雪が降り、夜半にかけてさらに積もるだろうとの天気予報に、アカデミーも休校になった。出歩く人影も少なく、店もほとんどが早仕舞をしている。
 その頃イルカは12歳だった。下忍になってまだ一年。最低な成績で卒業したイルカは、与えられるランクの低い任務に焦っていた。
 早く一人前の忍になって、火影様の役に立ちたい。
 少しでも里の役に立とうと、イルカは休日や、今日のような臨時の休みでも、演習場にて自主訓練に励んでいた。
「――なにしてんの?」
 それは唐突な出現だった。
 一人しかいないと思っていた演習場に、突如としてもう一人子供が現れた。
 同い年か年上か‥、鼻まで隠した覆面に判断は難しかったが、額宛からして正規部隊に所属しているのは間違いなかった。
 額宛を斜めにつけて左目を隠すその風貌は、子供のイルカにも異様に見えたが、
「修行してるんだ。ボク、いつまで経っても班の足引っ張ってるから‥。アカデミーでふざけてたツケなんだ」
 近い年齢の子供、ということで警戒心も薄れ、元より人懐っこいイルカは、えへへと
鼻の傷を擦りながら笑った。
 銀髪の少年は、相槌を打つでもなくじっとしていたが、
「‥‥手伝ってやろうか」
 ふいに、ぽそリ、とつぶやいた。
「えっ、本当!?」
 イルカは嬉しそうに声を上げた。
 相手の無表情な右目に怖じることなく、喜んで申し出を受ける。
 やはり相手がいた方が、張り合いがあっていい。班の仲間には、せっかくの休日に付きあわせるのが申し訳なくて遠慮していたが、
 雪の降る中、一人でぽつんと広い演習場にいるのは―――実は、少々心細かった。
「じゃ、よろしく!」
 そんな人恋しさも手伝い、無邪気に見知らぬ忍と手合わせをすることになったイルカだったが、
 ―――三十分後。
 ぐったり地面に倒れ伏すことになる。
「‥‥き、きみ‥‥‥強い‥‥‥ね」
 荒い息を繰り返し、あおむけになったイルカは相手の力を賞賛した。少年との間には、驚くほど歴然とした力の差があり、負けた敗北感よりも感嘆の方が勝った。
「すごいなあ。ボクとたいして年齢変わらないのに。‥‥‥あ、そうだ」
「‥‥‥‥‥‥」
 運動後の頬は赤く、きらきらした尊敬の目で少年を見上げていたイルカは、はたと思いつく。「いたた」とうめきながら上体を起こし、
「ね、ちょっと休憩入れようよ。ボク弁当持参なんだ。わけっこしよう」
 自分を見下ろす少年に、にこっと笑いかけた。
「腹が減ってはなんとやらってね」
 立ち上がったイルカは傘がわりの巨木の下に置いてある荷物へと走り、ごそごそと弁当を広げながら、「早く早く」と手招きした。
 少年はしばらく考えていたようだが、イルカの横に腰を下ろす。
「‥‥自分で作ったから、ちょっと下手なんだけど」
 そんな言い訳をこぼしながらおにぎりを一つ手渡し、イルカも元気よくかぶりついた。
 ちょっと塩加減を誤ったらしくしょっぱかったが、朝からの訓練で腹ぺこだったので難なく平らげる。しかし、少年はどうだろう。
 心配になって、ちらっと横を見ると、覆面を下ろした少年はもそもそとおにぎりを食していた。指についたご飯粒を舐め取る様子に、ほっと息を吐く。
 弁当はすぐに無くなった。一人で食べるつもりで作った弁当なので、2人でわけっこすれば当然だ。
 少年からとくに弁当に対して感想はないが、けして美味しいとは言えない自分の料理をぺろりと胃袋に収めた相手に、なんだか満足なイルカだった。
「‥‥‥寒いね」
 雪空を見上げ、イルカはぽつりとこぼした。
「ボク、寒いのは嫌いだなあ。なんだか心が寂しくなるもの。家でじっとしてられない。‥でも、火影さまの所に何度もお邪魔するのも‥気がひけちゃうしなあ」
 ひらひらと落ちる雪を見つめ、何気なく独り言を口にしたイルカは、はっと横を見る。
「あ、ごめん‥っ。こんな話、いやだよね」
 少年は何も言わなかった。
 ただじっと、イルカを見つめ、
「訓練しないの?」
「あ‥‥‥まだ付き合ってくれるのっ?」
 あれだけの力の差がある以上、少年にとっては何の経験値にもならない。
 不安そうに、しかし勇んで尋ねるイルカに、少年はこくんと頷いた。
 イルカはぱっと顔を輝かせ、
「‥‥うん! お願いしますっ」
 満面の笑みで頭を下げた。


 ――その後、
 雪が本格的に降り始めるまで手合わせは続いた。
 さっき組手をした時よりも、ずいぶん手加減をしてくれているらしい。少年との訓練に、イルカも間合いの取り方と、呼吸のつかみ方を理解し始める。
 身体で直接吸収できる戦いの知識に、時間も忘れて夢中になっていたが、
「‥‥わわ‥‥‥っ」
 攻撃に足を踏み出したイルカは前のめりに倒れた。
 雪が、足を捕らえて離さない。
「うわー、いつの間にこんな積もったんだろう。‥‥‥もう今日は駄目だね」
 こうして空を仰いでいる間にも、雪はさらに強くなる。風に踊る結晶は、2人の視界すら閉ざしかけていた。
「付き合ってくれてありがとう。今日はもう帰るよ」
 身体にまとわりつく雪を払い、イルカは礼を言った。
「あ‥‥‥そうだ、ごめんっ。君の名前聞いてなかったっ。ボクはイルカって言うんだ」
 君は? とあわてて問うと、
「‥‥カカシ」
 少年は、ぽそりと答えた。
「そっか。今日はどうもありがとう」
 イルカは笑い、握手を求めて右手を差し出した。が、その手は握り返されない。
「?」
 無言で自分を凝視する相手に、イルカが不思議そうに首をかしげると、
「――に――」
「え?」
 カカシがなにか呟いた。
「ごめん、なんて言ったの?」
 唸りをあげる雪にかき消され、相手の声が上手く届かない。
 耳に手を当てて聞き返すイルカに、カカシは幾分声を大きくして言った。
「――お前を」
「なに?」

「――オレの”足”に任命する」 

「‥え」
 イルカは、瞬きした。
 耳に入った言葉がすとんと胸に落ち、ひやりと冷たい恐怖を憶えさせる。
 少年はなんと言った?
 ”足”? 
「‥‥それって‥‥」
 アカデミーを卒業したイルカも、額宛を身につけている以上”足”がなにを意味するのか理解している。
 もしかしたら、自分がその対象となる可能性もあると分かっていたが、まさか、自分と大して年の変わらない少年から指名されるなんて。
「‥君、上忍?」
 原則として、”足”を指名できるのは上忍階級の忍でなければ無理だ。
「‥‥え‥‥‥ボクが‥‥‥、足‥‥‥?」
 信じられない。
 今の今まで胸にあったカカシへの好感は、こなごなに打ち砕かれた。
 ”足”になれということは、事実上――奴隷になれと言われたのも同じだ。
「あ、‥‥あの‥」
 突然の任命に、イルカは混乱した。
 タチの悪い冗談ではないかと、その宣言を撤回してくれないかと、弁明を求めようとしたが、
 カカシはくるり、と背を向けた。
 拒絶する背中が「――後に、連絡する」淡々と述べた。
「‥‥‥あ‥‥‥」
 呼び止めることも叶わず、
 吹き荒れる雪の中に、銀髪の少年は消えていった。
 イルカは呆然と立ち尽くし、言葉を無くす。 
 また雪が強くなった。
 
 
       
  



 ”足”に任命する。
 そう言われてから四年間、イルカは下忍としての任務に当たる傍ら、呼ばれればすぐにカカシの元へ駆けつける”足”の役目も果たした。
 カカシはやはり上忍だった。しかも暗部に所属し、アカデミーを5歳で卒業したという。そして、翌年には中忍に。
 ――天才。
 まさにその名に相応しい彼の任務は文字通り激務であり、とても下忍のイルカにサポートがつとまるレベルではなかったが、
 任務らしき用事で呼び出されたことは、一度もなかった。
 あの少年は、自分をからかっている。
 イルカは一度目の呼び出しにて、それを理解した。
 雪の日から5日目。
 子犬の忍犬が、イルカに接触してきた。
 持っていた紙には、ある忍術の本を持ってくるようにとのカカシからの伝言が書かれていた。
 どこにでもあるような、安い基本忍術の本だ。
 イルカは言われた通り、それを購入した。
 届け先は、上忍の待機場所。任務時以外は常駐することが義務づけられている上忍しから入れない場所だ。下忍が訪ねてくるなど皆無に近い。
 扉の前で入室を躊躇ったが、イルカは意を決して中へ入った。
 待機所には、予想通り、大人の上忍がほとんどを占めていた。
 数は少ないが、イルカが一歩踏み入れたことによって、室内の空気が一気に張り詰めたものになる。
 じろ、と向けられる視線に、俯きながらカカシの姿を探すと、彼は窓際の椅子に座っていた。
 なにをするでもなく、ぼんやりと外を眺めている姿に足早に駆け寄って本を差し出すと、
「ああ、来たの」
 さも今気づいたように、カカシはイルカに目をやった。
 そして、差し出された本を手にとり、ぺらぺらと数ページ捲ると、
「――もういいよ。返しといて」
 そう言った。
「‥‥‥え‥‥‥」
「ありがと。もう帰って」
「‥‥‥」
 イルカは言葉を無くした。
 こみ上げてくる屈辱感に涙が出そうになり、急いでその場から逃げ出した。
 自分の存在意味を理解する。
 彼はこの先、自分に屈辱以外与えないつもりだ。
 上忍待機所に、下忍の子供がのこのこと訪れれば、おのずと噂になる。
 カカシは、自分が”足”であることを周囲に宣言したのだ。はっきりと言葉にせず、意味のない用事で動かすことによって。
 悔しかった。
 逆らえない自分が。


 それからのカカシは、頻繁にこういった意味のない用事でイルカを呼び出した。
 酷い罵声を浴びせるわけではない。辛い肉体労働を強いるわけではない。
 彼は、それよりも深く、心を抉る舞台を用意する。
 その中でも最も酷かったのは、 
 ”頭”と”足”の関係が、三年という時間を越えたある月の晩。
「―――ね、そいつ拷問して」
 夜半に呼び出されたイルカは、暗部の面を被ったカカシと対峙していた。
 場所は演習場のひとつである森の奥。
 イルカは目前に転がされた男に、声もなく震えていた。
 他国からの侵入者。どこの忍であるか判断できないが、それは容貌も同様。満身創痍の身体は、かろうじて若い男だということだけ判別できる。
「やり方知ってるでしょ。なんでもいいからやって。オレ、手疲れたから」
 侵入者は、もはや虫の息だった。
 微かな呼吸と、時々痙攣を起こしたような身じろぎをするだけ。
 すでに十分の報復を受けている。これ以上の拷問がどうして必要なのか。
「――やって」
 カカシの声が、再度威圧する。
 イルカは震える手でクナイを取り出した。
 地面に広がる血溜まりが異臭を放ち、早くなる鼓動を制御できない。
 目の前の男は、少しの衝撃でも事切れそうだ。
 相手は侵入者で、里に危害を加える人間ならば、報復を与えなくてはならない。
 だが、
 出来ない、と。
 イルカは心の中で叫んだ。
「―――」
 振り上げたクナイを、イルカは自分の掌に突き立てた。
 両方の掌が、使い物にならないように、自らの手を傷つける。
 何者の命も奪えないように。
「‥‥‥っ‥‥‥」
 持てなくなったクナイが地面に突き刺さり、真赤な雫がぽたぽたと滴り落ちた。
 イルカの手から流れ出る鮮血に、カカシは大きなため息をつく。
「‥‥‥アンタ、馬鹿?」
 暗部の面を外し、カカシは侵入者の男を蹴飛ばした。
 ごろごろと、荷物のように転がる――死体。
「もたもたしてるから、死んじゃったよ」
「‥‥‥‥‥‥」
 イルカは答えられなかった。
 呆然と立ち尽くすイルカの目の前で、
「もしもーし」
 カカシがひらひらと手を振る。
 反応はない。
 カカシは精力に欠けた虚ろな漆黒の双眸を覗き込み、またため息をついた。
「こっちおいで」
 血だらけの腕を引き、死体の見えない巨木の裏側へと座らせた。
 そして、いまだ溢れでる出血にポーチから包帯を出し、手早く巻きつけ始める。
 手際のよい応急処置に、それほど深くなかった傷口も血を止め、
 イルカはその光景を、ぼんやり見下ろしていた。
 ―――どうして、手当てをするのだろう。
 死にかけた人間を殺そうとした手なんて、無くなったほうがいいのに。
「ちょっと寝れば?」
 カカシの手が、イルカの身体を横たわらせた。
 強張った筋肉が痛い。されるがままのイルカの肌は、冷たい地面の感触も伝えてこなかったが、――ふわり、と何かに包まれる。
 それは、カカシの持っていた上着だった。
 肌が痺れたように硬直しているのに、上着のあたたかさがイルカの身体を包む。
 じんわり、と指先に熱が戻ってきた。
 深い森の静寂が、自失するほど荒ぶった心を静め、
「‥‥‥‥悪かったよ」
 頭上でつぶやくカカシの声を、鮮明に耳に届けた。
 初めて聞く謝罪だった。
 何に謝っているのか分からない。謝られる仕打ちは、これまで数多く受けてきた。
 いまさら。
 謝罪など。
「‥‥‥――――」
 瞼が熱くなった。
 熱い、熱い水が、瞳からあふれ出る。
 悔しかった。
「‥‥アンタ、すぐ泣くね」 
 カカシの指が、何気なく瞼を滑る。
 涙を掬い取り、珍しそうに眺める”頭”に屈辱を憶えた。
 まるで、飴と鞭で遊ばれている。
 この少年は、様々な悪質な行為で自分を振り回し、興味深げに観察するのだ。
 それほど珍しいか。
 人の命の重さに悩み、自らも傷つけてしまう名ばかりの忍が。
 ―――カカシに言われたとおり、自分は馬鹿だとイルカは認識した。 
 これほど嫌悪しているのに、
 カカシのたった一言の謝罪で、もう責めることのできない自分がいる。
 そんな自分が憎く、哀れだ。
 逃げ出したい。
 この生活から、この少年から、早く逃げ出したい。 
 でなければ、
 自分はきっと狂ってしまうだろう。





   *** 





 カカシとの別離のきっかけは、それから一年後に訪れた。
 雪の日の出会いから、四年後。
 十六歳になったカカシは、他国への遠征へ赴くことになり、隊の中でも特殊な[猛る炎]に正式に所属した。
 長期間に渡って里を離れるカカシの話は、イルカの耳にも届いた。
 解放される。
 突如として訪れた希望の光に驚き、同時に不安になった。
 まさか、同行を強要されはしないだろうかと。
 数々の常軌を逸したカカシの行動から、その恐れも十分に考えられたが、
「―――オレ、ちょっと里離れるから」
 出発の前夜、呼び出されたイルカはカカシの口から直接聞くことになる。
 場所は、はじめて出会った、あの演習場。
 カカシの次の言葉を、イルカは固い表情で待った。解放して欲しいと願う気持ちを顔に出さないよう、必死に堪えて。
 カカシは、長い間イルカを見詰めていた。
 覆面は下ろされているが、無表情なので何を考えているのかは分からない。
 いや、一度として彼を理解できたことはないが。
「‥‥ま、しかたないか」
 長い沈黙の後、カカシはふいに口を開いた。
 諦めの言葉。
 イルカは安堵に崩れ落ちそうになったが、
「ねえ。――刺青彫っていい?」
 続けて投げられたカカシの言葉に仰天する。
「‥‥‥え‥?」
「オレの肩の暗部のマークみたいに、オレもアンタにマーク残したいんだ、”足”としてのね。いいでしょ」
 質問の口調なのに、声の響きは決定事項のように伝えた。
 実際、荷物からごそごそとカカシが取り出したものは、刺青を彫るのに必要な道具一式だった。
 彼は、元から自分の身体に針を入れるつもりだったのだ。
 嫌だ。
 カカシに残されるマークなんて嫌で堪らなかったが、
 これで解放されるというなら、それは安いものではないだろうか。
 たかが刺青。
 カカシが去った後で、肌を削るなりして消せばいいことだ。
「ここに座って。靴も脱いでよ」
 道具を確認していたカカシは、地面に広げた布を叩いた。
 しばらく逡巡を繰り返していたイルカだが、長期間の解放という甘い誘惑に負け、おとなしく布の上に膝を落とす。
「下も脱いで」
「‥‥え、下‥‥?」
「ズボン」
「‥‥ど、どうして」
 てっきり腕に彫るものだと思っていた。
「早く」
 急かされ、イルカは下を脱ぎ始めた。さすがに下着までは手が伸びなかったが、
「――わ」
 とん、と胸を押され、布の上に倒れた。
 すぐ起き上がろうとしたが、両足を強く割られ、右の大腿を擦られる。
 感触がくすぐったくて身じろぎすると、
「‥‥‥ここだと痛いかな‥‥、でも、ここがいいな」
 カカシの独白が聞こえてきた。
 まさか、
 こんな場所に彫るというのか。
 制止の声を上げようとしたイルカの唇に、
「‥‥‥‥‥ん゛‥‥っ」
 布を巻いた竹が挟み込まれた。
「轡。舌噛まないようにね。アンタの為だよ。落とさないでね」
 仰向けになり、カカシに両足を広げることを強要されたイルカは、あまりの羞恥に瞼を閉じた。
 自分に我慢だと、言い聞かせる。
 彼の属する[猛る炎]は、夜明け前には出発する。
 朝日が顔を出すまで、ほんの数時間。
 我慢すればいいと、そう言い聞かせたが、
「‥‥ん‥‥っ、‥‥!」
 その痛みは尋常ではなかった。
 最初、大腿の内側になにかを描いていたようだが、激痛は突然に襲ってきた。
 びくんっと撥ねる足が、強く押さえ込まれる。
「――じっとしてないと、縛るよ」
 さらに羞恥を煽る行為を盾に脅してくるが、痛みになれた忍のイルカでも、その痛みは尋常ではない。
 刺青など彫ったことはないが、これほど痛いものなのか。
 轡に歯が食い込み、額には脂汗が滲む。
 自由な両腕で、痛みに歪む顔を隠し、イルカは必死に耐えた。
 時間が経てば慣れてくるはずの痛みも、変わらず頭の先まで衝撃を伝えてくる。
 せめてみっともない醜態は見せまいと努力するが、時折身体の芯まで貫くような激痛に気が遠くなる。
 びくびくと震える大腿にも、いくつも汗が滴り落ちた。
 どれくらい経っただろう。
 もう時間の感覚すら掴めない。
「‥‥‥痛い?」
 両脚の間に屈んでいたカカシが問うた。
 彼も集中力を強いられるのか、額には汗が滲んでいた。
 イルカは霞む目で相手の顔を見上げ、
 彼の左目が露になっていることに気づく。
 ――紅の目。その眼の奥に見えるのは、三つの巴。
 その時のイルカには、その異質な目の名称を理解することはできなかった。
「‥痛覚でも勃つんだ」
「‥‥?」
 なにを言われているのか一瞬理解できなかったが、さわ、と股間を触れられ、カッと顔を赤くする。
 与えられる強い激痛に、股間のそれが反応を見せていた。
 反射的に閉じようとした足を、カカシが押し止める。
「べつに構わないから」
「‥‥、‥ん‥‥‥‥っ」
「もうちょっとで終わるから、それまで我慢して。――‥‥なんか、こっちまで変な気分になるな」 
「‥‥‥、ふ‥‥っ‥」
 再び激痛が走る。
 首を仰け反らせたイルカは、眦に涙を滲ませた。さっき僅かに視界におさめた右腿に、赤い模様が目に入ったが、これだけの痛みと時間をかけて、いったい何を彫っているのか。
 イルカは瞼を震わせ、いつ終わるか分からない、ある意味拷問に近い作業に耐える。
 おそらく数時間は経過したか。
「終わったよ」
 消えるような呼吸を繰り返していたイルカは、その声にぼんやり目を開けた。
 伸びてきたカカシの手が、咥えた轡を外してくれる。噛みすぎて、唇が少し切れていた。
 がくがくと震える手でなんとか上体を起こし、下肢を見たイルカはすぐには分からなかった。
 右腿の内側に、赤い刺青。
 それは、カカシの左目の三つの巴型と同じだった。
「痛かったでしょ。普通の刺青じゃないからね」  
 刺青に目を奪われるイルカに、大腿を擦るカカシはいつもより感情を見せた声で言う。
「断っとくけど、肌を削っても消せないから」
「‥‥‥っ」
「これでいい。――チャクラ入りだから、オレのだってすぐに分かる」
 どこか満足気な口調に、イルカはどん底に突き落とされた。
 普通の刺青ではない、とカカシは言った。
「‥‥‥っと」
 ぐらり、と倒れそうになった体を、伸びたカカシの手が支え、
「熱があるな。‥ここでしばらく休んでなよ」
 呆然とするイルカに上着を被せた。
 そして、僅かに色の変わってきた東の空を仰ぎ、「もう時間か」と呟く。
 腰を上げたカカシは色違いの双眸で、座り込むイルカを見下ろし、
「本当は、連れて行きたいんだけど‥‥‥まあ、マーク残したし。オレが生きてる限り、アンタはずっとオレの”足”だからいいか」
 イルカにとっては極刑の宣告に近い言葉を口にする。
 俯くイルカは動かない。
 朦朧とする頭で、早く立ち去って欲しいと心底願っていた。
「ね、アンタ先生になりたいんだって? 下忍のお仲間が喋ってたんだけど。‥‥‥ま、アンタならぴったりかもね」
 カカシが片膝をつく。
 顎をつかまれ、顔を上向かされたイルカは、間近から覗きこむカカシの双眸と視線を合わせた。
「またね。―――イルカ先生」
 別れの言葉は、それだけ。
 一陣の風が吹き、カカシの身体は煙に巻かれたように消えた。
 気配も途絶え、
 夜明けを迎える無人の演習場に、イルカは一人残される。
 ――自分が教師を目指していると、彼はどうして知っていたのだろう。  
 緊張が切れたように倒れこみながら、イルカはそんなことを考えた。
 あの少年は帰ってくるだろうか。
 天才と謳われても、まだ若い。
 どこか見知らぬ土地で命を落としたりはしないだろうか。
 そして――自分は、それを喜ばしいと思うか?
 当然である。
 当然であるはずなのに、 

 この言葉にできない孤独感はなんだ。

 ――胸が、痛い。
 うつ伏せに顔を伏せたイルカの眼から、
 意味の分からない涙が、次から次へとあふれ出た。
 






  ***







「‥‥‥‥‥‥」
 天上を見上げ、イルカはぱちぱちと瞬きをした。
 ここは自分の部屋。演習場ではない。
 掌で清潔なシーツの感触を確かめ、イルカはようやく現実感を得る。
(‥また、あの夢)
 カカシが里へ戻ってきてから、連続して見るようになった過去の夢。
 しかも悪いことに、見るたびに鮮明になっていく。
 ――今夜の夢は、今までの中で一番きつかった。
「‥‥‥」
 イルカは、そっと寝間着の上から大腿を擦った。
 誰も知らない。この右足に隠された刺青の存在を。 
 吐く息が白かった。家の中だというのに。
 冬が、
 また近くなったのだ。








 人伝に、任務内容を記した書類が回ってきた。
 ”六花の里へ文を届けること”
 ランクはC。
 任務に直接当たるのは一小隊。カカシをリーダーとして、次にイルカ。残りの二人については名前も階級も明らかにされていない。つまり、暗部。
 姿の見えない二人とは共に行動しないらしく、移動はカカシと2人きりになる。
 六花の里は十年前に出来たばかりの小さな里だった。往復に十五日はかかる。
 書類を無感情に読みながら、イルカは文を届けるだけではすまないだろうと思っていた。
 カカシを含め、暗部まで同行する任務ランクがCであるはずがない。
(‥‥聞いて、素直に教えてくれるかな)
 小隊の中で、明らかに浮いているイルカ。自分が選ばれた理由は不明だが、カカシが一枚噛んでいることは間違いない。
 出発は四日後。
 与えられたその期間、イルカは仕事や身の回りの片付けに徹した。
 長期任務の手続きも終え、同僚たちには、自分がいない間の生徒達へのサポートを頼んだ。ひとまずは、一ヶ月の遠出ということで話している。
 例のイルカに好意を抱いてくれていた女性は、今はここにいない。
 イルカとは一切顔をあわせず、殊更避けていた。
 二人の微妙な関係を知っていた同僚たちは詳細を聞きたがったが、イルカは多くを語らなかった。盛大に叩かれた頬がひりひりと痛んだが、彼女の心のほうがもっと痛い。
 そんなもやもやした気持ちを払うように、準備にあちこち走り回っていたら、あっという間に出発が明日に迫った。
 職員室で机をきれいに整理したイルカは、壁の時計に目をやった。
 明日の出発時間は、早朝。朝日が昇る頃。
 しばらく里を離れるイルカにとって、ゆっくりできる夜は今日だけとなる。
「――買い物して帰るか」  
 イルカの家には今晩来客が訪れる予定になっていた。
 ラーメンが大好きなアカデミーの問題児。誰より手がかかるが、その分目が離せない大事な生徒であるナルト。
 しばらく一楽に連れて行ってやれないかわりに、今夜は家で食事に招待することになっていた。
 一度帰宅してから家に来いと言ってあるが、あまり帰りが遅くなると、腹が減ったと騒ぎ出す。近所迷惑になるとまずいな、とイルカは急いで荷物を片付けた。
 立ち寄る場所は、商店街。
 麺類ばかり食べているナルトに、少しは野菜を食べさせようと、イルカは熱心に露店の商品に目を配っていた。
 ――と、
「‥‥‥‥‥‥っ」
 前方の人波の中に、見知った顔を見た。
 一瞬、顔を合わせないように逃げるか、と思ったが、
「や、イルカ先生」
 相手はとっくに自分の姿を見つけていたらしい。
 手を上げて挨拶をするカカシに、
「‥‥‥こんにちは」
 ぺこり、と頭を下げた。
 ――なんて間の悪い。
 明日から嫌でも顔をつき合わせる人間に、最後の休息の時にまで介入されるとは。
 内心溜息をつきたいイルカだったが、 
「カカシ‥っ」
 2人の間に、細身な女性が駆け込んできた。
「ちょっと‥もー。じっとしててって言ったのに。どーして我慢してられないかな」
「んー、退屈だったから」
「子供じゃないんだからっ」
 女は苦笑しながらカカシの腕に自分の腕を絡ませる。
「‥あら?」
 そして、ようやくイルカの存在に気づいた。
「どちらさま?」
「あ‥‥俺、‥‥‥いや、私は‥‥‥」
 任務内容をもらしていいのかと躊躇うと、
「うみの中忍。明日から一緒に任務に行く人」
 カカシがあっさり喋った。
「あ、」
 納得がいったように手を打つ女に、
「‥はじめまして」  
 イルカは再び頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。えと‥‥‥私は」
 一緒に頭を下げた女も、続けて自己紹介をしようとしたが、
「この人、婚約者」
 カカシが口を挟んだ。
「――‥え?」
 イルカはおもわず聞きかえす。
 指をさされた女の方は恥ずかしそうに頬を染め、
「あ、はは、えと、そうなんです。私、カカシの婚約者で‥‥‥今年中には結婚することになってるんです‥。でも、この人、やっと帰ってきたのに、また一ヶ月も出て行っちゃうんですよ?」
 酷いですよね、と同意を求めてくる相手に、イルカは狼狽した。
 返事に困っていると、
「オレ腹減ったよ。早く帰らない?」
 ぺたり、と背中にもたれてくるカカシに、女はくすぐったそうに笑った。
「‥もー、話してるのに」
「じゃ、イルカ先生。明日からよろしく」
「あ、あの、この人のこと、よろしくお願いしますっ」
 ぐいぐいと引っ張られながら、女はイルカに頭を下げた。
 イルカは反射的に軽く頭を下げたが、声までは出なかった。
 女がもう一度ふり返り、ぺこりと頭を下げる。
 二人の姿が人波に消えるまで、イルカは目が離せなかった。 
 ――女性の名前、聞かなかった。
 二人を見送りながら、イルカはふとそんな事を思った。
 いや、別にいいか。
 あの人が、どんな人間と家庭を持とうと、
 自分には関係ない。
「‥‥‥‥‥‥‥早く帰らないと」
 待ちくたびれたナルトがきっと騒いでいる。
 そう思うのだが、
 足が動かない。
(‥婚約者‥‥‥)
 どうして、自分はこれほど衝撃を受けているのだろう。
 胸の中で渦巻く感情の正体が分からない。
 イルカには、
 もはや自分の気持ちすら理解できなかった。
 ――ただ分かるのは、
 今夜も夢見が悪そうだと言う事だけだった。


 







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