□ 溶けるように
第8話
表向きの任務内容は[六花の里へ文を届けるCランク]となっているが、
届ける火影の文は戦火の種を隠し持っていた。
イルカ以外のメンバーは全員文の内容を熟知している。
目的の六花の里の興りは、十年前。
近年興したばかりの六花の隠れ里は、現在不安定な状況にあった。
六花の中心的存在であるトップの二人の忍による志の決裂により、里の力は現在二分されていたが、実際にクーデターを起こしたのは六花の正当な里長の息子であるイェンだった。
助力を求められた木の葉の里は速やかな調査で真の主犯者を突き止め、それを文に記した。イェンの暗躍。そして、反乱者たちの一掃計画。
今回のカカシたちの真の任務は、
六花の里の現状を探り、偵察。後の援軍に情報を流し、援軍が動きやすいように敵を陽動することだった。
「カカシ、明日は何時に出発するの?」
「‥‥‥ん〜?」
台所からの女の質問に、寝転がっていたカカシは生返事をした。
「しばらく任務に出るなら、今日はとくに美味しいもの作るわ。なにがいい?」
「‥‥‥ん〜」
再度話し掛けてくる相手に、暇つぶしの本を読むカカシはどうでも良さそうに答えた。
業を煮やした女が手を拭きながら現れ、
「‥‥もうっ。‥‥ずーっと本ばっかり読んでっ。いいわ、今から買い物行くから付き合って」
「‥‥‥あ〜、めんどくさいな」
「いいからっ。転がってばっかりじゃ体がなまるでしょっ」
ぐいぐいと体を揺らされ、カカシは仕方なく本を閉じた。別に体はなまってはないが、要するに自分と一緒にいたい女の気持ちに譲歩する。
(‥めんどくさいねえ)
嬉々と出かける準備をする女に、カカシはため息をこぼした。
里に戻ってから度々家に訪れる女。里の上層部がよこしたくの一らしいが、つまりは子種確保の専門だ。この手のくの一にしては朗らかな、けして悪くない性格だが、
(オレ、不能だからね〜。種なんて取れないのに)
身の回りの世話をしてくれるので放っておいたが、これ以上無駄働きさせるのも悪い。
女と並び、商店街へと歩きながら、今夜辺り暴露するかとカカシはぼんやり考えた。
「今日はあったかいものがいいわねー」
賑やかな露店は夕食の材料を求める客で溢れていた。
隣の女は嬉しそうに献立を考えながら、「ちょっと野菜見てくる」と、威勢のいい客呼びをする八百屋を指差して言った。
「ちょっと待ってて」
「‥ん〜」
勇んで走り出す女に、カカシはひらひらと手を振り、生欠伸をした。
活気のある人々の熱気が少々鬱陶しく感じる。人の多い場所は好きじゃない。
勝手に帰ったら怒るかなと考えながら、カカシは視線を変えた。
――と、
(‥‥‥お)
前方の人波の中に、見知った顔を見た。
一瞬どうするかと迷ったが、自分を見た瞬間見開かれた相手の驚愕の眼差しに、
「や、イルカ先生」
呼び止める声が勝手に出た。
手を上げて挨拶をするカカシに、
「‥‥‥こんにちは」
イルカは小さく返事をし、ぺこり、と頭を下げる。
俯き加減の顔からは、傍目からでも分かるほど困惑の色が見えた。
(‥そんなに気まずそうな顔しちゃって)
避けられれば避けられるほど、ちょっかいを出したくなる気持ちが分からないのだろうか。
(なにか‥‥普通の話を‥‥)
困っている相手に、カカシはあくまで自然を装うとしたが、
「カカシ‥っ」
2人の間に、買い物袋を下げた女が駆け込んできた。
「ちょっと‥もー。じっとしててって言ったのに。どーして我慢してられないかな」
置いてけぼりにされ少し怒ってみせる女に、邪魔されたのか助かったのか、複雑な気持ちでカカシは肩を竦めた。
退屈だったからだと言い訳すると、
「子供じゃないんだからっ」
女は苦笑しながらカカシの腕に自分の腕を絡ませた。
そして、ようやくイルカの存在に気づく。
誰なのかと尋ねる女に、カカシがかわりに説明をした。明日から任務に出る仲間だと。
―――多くを省いたが、嘘ではない。
気まずそうなイルカの顔を眺め、
ふと思いつく。
「この人、婚約者」
カカシは女を自分の婚約者だと説明した。
はっきりそういった話を女としたことはないが、上層部ではそう片付けられているはずだ。
「――‥え?」
きょとんとした顔のイルカは、言われたことをすぐに理解できなかったようだ。
隣の女はカカシに指をさされ、恥かしそうに頬を染めている。
「あ、はは、えと、そうなんです。私、カカシの婚約者で‥‥‥今年中には結婚することになってるんです‥。でも、この人、やっと帰ってきたのに、また一ヶ月も出て行っちゃうんですよ?」
酷いですよね、とイルカに同意を求める女をよそに、カカシはじっとイルカの顔を見詰めた。
返事に困り、わずかに眉を寄せる顔。
突然そんな内輪の話をされても、対処に困るのは当然だろう。
(‥‥‥なにやってんの、オレ)
別に見得を張りたいわけではない。
ただ、イルカの口から何かを聞きたかった。
――――なにを、聞きたかったというのか。
「オレ腹減ったよ。早く帰らない?」
まだ話を続けようとする女の背にもたれ、強引に引っ張った。
自分のことをよろしく頼むとイルカに言う女に、微かな苛立ちを感じる。
身勝手な――苛立ち。
***
「私うれしかったな。カカシ、何も言ってくれないからちょっと心配になってて」
食事を終え、後片付けをしながら女は歌うように言った。
「私のこと‥‥‥認めてくれたんだよね?」
ベットに転がったカカシの顔を覗きこみ、女は嬉しそうに微笑んだ。
(‥‥何か言ったっけ?)
しなだれかかってくる女の重みに、カカシはようやく先程の婚約発言のことを言っているのだと理解する。
ああそうかと納得し、同時に潮時かと考える。
「‥‥‥あのさあ。オレ不能だから」
胸に顔を埋める女に、カカシは単刀直入に言った。
「‥‥‥‥‥‥え?」
ややあって顔を上げる女に、カカシは「不能」とわざとゆっくり言った。
困惑顔の女がめまぐるしく思考しているのが分かる。
――――だから、今まで抱かなかったのかと。
「オレ変態なんだよね。異常な状況じゃないと勃たないの」
カカシは駄目押しのように続け、だから、もう帰ってくれる? と淡々と告げた。
女は顔色を失い、
「え‥‥で、でも‥‥‥私は‥‥‥」
「いや、帰って?」
口を開こうとする相手の肩を押しのけ、カカシは背を向けて寝転がった。
背中で完全に膠着した女の気配が伝わってくる。
義務的な一時的関係だ。
すぐに利用価値がないことを悟り、上層部に指令を受けに行くだろうと思ったが、
意外にも女は、長い間沈黙を守った。
―――やがて、
そっと立ち上がり、女の気配が室内から消える。
閉じる玄関の音を聞き、気配が完全に消えるのを確かめたカカシは上体を起こした。
室内には、まだ夕食の香ばしい残り香が残っている。
悪かったな、と思う気持ちはあったが、ずるずる続けても仕方がない関係であり、続ける気もまったく無いので仕方がない。
上層部に連絡して、もうふざけた真似はするなと忠告しよう。
彼女にとっても、無駄なことだ。
(なにせ変態が相手だからね)
カカシはがしがしと頭を掻いた。
――――十代半ばからだ。
カカシには性的な癖があった。
女を抱けないわけではない。男性体としての欲求もあり、性欲処理として任務中何度か夜伽の機会があったが、その時の気分によって一切勃たないこともあり、逆に興奮する時もある。
カカシが性的興奮を憶える時、
それは、十年前の夜に見た、刺青を施す時のイルカの肢体を脳裏に思い浮かべた時。
突っ張った両脚に滴る汗や、痛みに潤んだ目や、荒い息遣い、くぐもった声、なすすべなく自分の体の下で悶える姿に、じんわり体が熱くなる。
その意味を、カカシはあえて考えないようにしてきたが、
「‥‥‥なにやってんのかね‥‥‥」
浅ましい己に自嘲の笑みが出る。
***
木の葉の里を出発してから七日間。
六花の里へ向かう道中、イルカとの間の会話はほとんど無かったが、とくに問題もなく順調に進んだと言える。
書類によってイルカには任務詳細を知らせているが、それは表向きのこと。
彼はあくまで文を届けるだけの任務のCランクだと思っているが、薄々裏があるだろうとは気づいているだろう。それを口にすることはなかったが。
騙すならまず味方から、という言葉があるが、イルカにはかなりの重要な情報が伝わっていない。が、それでいいとカカシは思っていた。
あまり詳しく任務に入り込めば、それだけ背負う危険も大きくなるというものだ。
目的地は目の前。
あくまで任務内容は文を届けることと視察であることをしつこいほど繰り返し、カカシはよけいな事をしないように念を押した。
六花の里に近づくにつれ、だんだんと狭まる街道に、
「‥‥六花の里まで、この一本道しかないのでしょうか」
後方のイルカが周囲を観察しながら口を開いた。
話しかけられたカカシは、
「一般人や六花の里の人間たちは、この道のみを利用していますよ」
口調に気を使い、なるべく優しく答えるように心がけた。
道中、イルカとの間には義務的な会話しか存在しない。自分から沈黙を選んでいるくせに、イルカとの少ない会話をカカシは内心嬉しく思っていた。
「‥‥では、戦闘になると、まったく交易など断たれるわけですね」
なにやら深く考え込むイルカに、
「そうですね。地上で陣地を構える反乱者たちの方が断然動きやすいでしょう‥‥‥が」
カカシは話が続くように他の情報も付け足した。
もう一つ、緊急時用の忍道。忍び専用とあり道筋も楽ではなく、急な崖や迫り出した岩。雪など降ろうものなら、忍の足をも捕らえ、過去何人もの行方不明者を出していた。
正気なら絶対に通らない道だとカカシは思う。
「移動だけで戦力を奪われる。両者ともそんな道使わないでしょ」
話し終えたカカシに、イルカは更に深く考え込んでいた。
ちらり、と後ろの様子を伺うと、
「‥‥‥あの‥」
イルカが、なにか手土産でも用意すべきではなかっただろうかと話し出した。
冬も本格的に訪れようというこの時期、蓄えは十分できているだろうかと。
六花の里の状況に自分のことのように頭を悩ませ、ちょっと引き返して、なにか保存にいい食料でも‥と進言するイルカに、
(‥‥‥これだから‥‥‥この人は)
「――アンタ‥、相変わらずの天然ですね」
カカシは呆れた眼差しを押さえらなかった。
このまま続けて口を開けば、またイルカを傷つけてしまうかも知れないと思うが、
駄目だ。
「いいですか。任務ランクはCですが、アンタも察しの通り、別行動の二人は暗部です。文を届けた後、なにが起こるか分からないのも本当です。その時点で任務はAランクに上がるかもしれない。そんなやばい所へ今から足を踏み入れようとしてるんですよ」
言っておかなくてはいけない。
その人の良さが、死を招くこともあるのだ。
「頼みますよ、足手まといになるのだけは勘弁してください」
言いながら、カカシは任務に連れてきたことを少し後悔した。
互いに大人で、一人前の忍で、そんな人情に振り回されるような年ではないだろうと思っていたが、彼は違う。
項垂れるイルカを見ていられず、カカシは少し足を早める。
上手く言えていないことは、自分でもよく分かっていた。
山頂まで一気に上がった二人の前に、里全体を囲む障壁が現れた。
里の中に入ると、一斉に不躾な視線を向けられるのが分かる。
(‥‥まるで山猿の群れだな)
視線は様々だが、観察の目を向けてくる輩はまず反乱グループの一員だと考えていい。
警備の忍に里長の元へと案内されながら、カカシは視線を向けてくる住民の中から里長の息子イェンの姿を見つけていた。
真の首謀者があれほど暢気に里にいるのだ。反乱グループの一味も当然里の中には存在するだろう。
カカシとイルカは里長のいる砦の中へ案内され、
そこで里長とは今日は面会できないことを告げられた。
イルカは戸惑っていたが、これは予想済みだった。
案内人の説明を受けて困っているイルカが、どうするのかと視線を向けてきたので、
「了解しました」
あっさりと認めた。
その態度に、イルカが何か勘付いたようだが、まだ事情は話せない。
向こうにとってもこっちにとっても様子見だと適当に誤魔化したが、実際は暗部二人の説得の失敗によるものだろう。
息子イェンの暗躍に薄々気づいておきながら、まだ認められず、木の葉の里に助力を求めた里長だが、いざとなったら、文を受け取るのを躊躇っていると報告を受けている。
実は、カカシが所持している火影の文は偽物で、本物は別行動の暗部二人の手から里長に渡されることになっている。
本当ならすでに手渡しているはずの文だが、今日会うことを拒まれたということは、まだ里長は躊躇っているらしい。息子との完全なる決裂を。
また案内役を用意され、今度は宿泊所へと誘導される。
(―――動くか)
案内役の説明を受けながらカカシは思案し、イルカに里の見物を勧めた。言い方がまた嫌味なものになってしまったが、できるだけ早く暗部二人と連絡が取りたかった。
イルカを一人にすることに不安がなかったわけではないが、木の葉の里の使者を六花の里の中でいきなり襲撃するということはないだろう。
言葉の中に、先に行動しろ、という意味を含ませると、
「――はい」
イルカは静かに頷いた。
案内役と共に宿泊所へ向かいながら、背中にイルカの視線を感じる。
(‥とにかく状況確認が先だ)
六花の里の中で、自分たちの安全を確保するためにも。
カカシは宿泊所まで案内してもらい、そこで単独行動に移った。
目立った行動はしない。どこからか監視を受けていることは分かっていた。
(‥‥‥‥‥‥本日中には説得‥‥‥ねえ)
あらかじめ連絡を取り合う場所は決めている。
里の広場の一本の木に記された暗号に、カカシは顎を撫でた。
明日は確実に接見できそうだが、なかなか大仰際の悪い長である。
(後継ぎを諦めきれないか)
木の葉の援軍も到着すれば、反乱者の一掃は確実だ。
カカシは足の向きを変え、土産店へと歩き出す。
一人にしたイルカが気になった。
ほどなくして、さきほど案内役が自慢げに話していた土産店に到着したが、
「‥‥‥?」
イルカの姿が見えない。
まだ里を探索しているのか。それとも、なにか予想外の状況に巻き込まれたのではないのか。
とっくに来ていると思っていたカカシは不安で胸が重くなった。相手は成人の男で、一人前の忍だと言うのに。
予想以上に焦ったカカシは、探しに行こうかとまで考えたが、
イルカが現れた。
内心ほっと安堵の息を吐き、カカシはその背に呼びかける。
「――遅かったね」
あわてて振り向いたイルカに、
「とっくに来てると思ったけど、まさかこんな狭い里で迷ってたわけ?」
少し離れただけで心配する自分に苛立ち、つい皮肉が出てしまった。
申し訳なさそうに謝るイルカに、ああ、またやったと苦渋したカカシは、
(‥‥‥?)
イルカの右手が赤くなっていることに気づいた。
よく見れば、それは人の手の跡のようだ。
―――――この人に、跡をつけた奴がいる。
右手を無意識に隠そうとするイルカに、カカシの目が怒気を帯びた。
どうしたのかと強い口調で突き詰めると、ポーカーフェイスの作れないイルカはしぶしぶ口を開く。
その内容に、カカシは殺意さえ抱きそうになった。
(‥‥‥首謀者イェン。手薄な所から攻めたつもりか)
その狙いは外れていないだろうが、あの男がイルカの腕に跡を残したのかと思うと冷静ではいられない。
(‥だから、つけこまれるんだ)
困ったように話すイルカにも、その理不尽な怒りは向けられた。
(人の良さそうな顔して。アンタなんか絶対忍に向かない。戦場なんか行ったら慰み者だ)
いっそのこと、
一度痛い目に遭わせればわかるだろうか。
そんな気持ちが、カカシの口を動かした。
「―――いいじゃない。里長のイェンでしょ。たしかお喋りそうな男だ。いろいろと聞き出してきてくださいよ」
まずい、と頭のどこかで思ったが、
「適当に愛想振り撒いたらいいんですよ。笑うの得意でしょ」
オレはどこかおかしいんだ。
だから、
この人を傷つける言葉しか吐けないんだ。
無防備な姿を見せるこの人が、この時は心底憎い。
イルカは言葉を失い、わずかに手を震わせていた。
見たくなかったカカシは顔を逸らし、勝手に動く己の口を罵る。
重い沈黙が二人の間を包み、
「‥‥‥‥‥‥‥‥はい」
掠れた声で返答するイルカの声が、虚しく響いた。
阿呆、阿呆め。
イルカが立ち去った方角を見詰め、カカシは何度も己を罵倒した。
すべてが裏目に出る。気遣いの言葉も、イルカの心を裂くものにしかならない。
天を仰ぎ、カカシは深くため息をついた。
気分は弛みきっている。正直、任務なんてどうでもいい。
それよりもイルカだ。
(正しい人間関係ってどんなものよ)
一向に出口が見つからない。
(オレには無理なわけ?)
苛立たしい。
焦るなと言い聞かせればするほど焦り、普通にと注意すればするほど悪化する。
(――――‥‥‥あの人、まさか本当に行ってないよね)
しばらくして、カカシはふと思う。
あんなふざけた命令を聞く愚か者はいないはずだ。
「‥‥‥‥‥‥」
カカシは胸がざわりと騒いだ。
(あの実直な人が、簡単に体を許すわけ‥‥‥、相手は同性だぞ)
掠れた声で、自分の命令を承諾したイルカ。
彼なら、
きっと、言われた通りにイェンの元へ行く。
「――――」
もはや考える時間も惜しかった。
その時のカカシは、任務のことなど頭になかった。
場合によって、イェンを手にかけていいと思っていた。
六花の里長は、どれだけ悩もうと最終的には木の葉の援助に頼るしかないのだ。
多少時期が早まろうと、イェンの未来には死しかない。
狭い里の中、カカシはすぐにイルカの所在を突き止めた。
用意された宿泊所。
イルカが利用する客室に、二つの人の気配がする。
カカシは気配を殺し、切れるような殺意を全身に滲ませた。
(馬鹿だ、あの人は)
本当に、あの男に体を許す気だったのか。
そんな、馬鹿な命令を出したのが自分自身だと分かっていたが、
イェンの息の根を止めた後、衝動的にイルカにも手をかけないかと不安だった。
理性が沈む。
入り口にぴったりと身を寄せ、殺意すらも無にしたカカシは静かにその時を待った。
中から、会話が聞こえてくる。
情報を求めるイルカに、詮索してほしくないと言うイェン。
それでも怯まないイルカに、イェンが動く気配がする。室内の二人の距離が近づく。
――途端、
ガタっと激しい物音が響き、イルカの呻き声がわずかに聞こえた。
急いで中へと踏み込んだカカシは、
(――――)
大腿を押さえ、声もなく苦痛に顔を歪めるイルカを見る。
押さえたその場所には、昔、自分が刻み込んだ刺青が眠る場所。
(‥‥‥そうか)
失念していた。
イェンがイルカの体を好きに翻弄できるはずはない。
あの刺青に練りこんだチャクラは、自分だけのものだという印だ。他者の干渉は許さない。
印に触れられて苦しみイルカを見て、カカシの凪いでいた心が驚くほど落ちついた。
大丈夫。
この人は、オレのものだ。
(―――‥‥‥やめた)
カカシは諦めた。
(やめた、やめた)
いい人ぶったって仕方が無い。
急に真人間になろうたって、元から壊れてるんじゃ直しようがない。
イルカという人間を征服したいし、自分のものだと宣言したい。
解放する気なんてあるものか。
この人が欲しい。
全部、全部。誰にも渡したくないのだ。
倒れ込んだイルカを助け起こそうと手を伸ばすイェンに、
「‥あ、触らないでくれる?」
カカシは忠告した。
驚いて振り向く顔。―――反乱グループの首謀者ともあろう男が、これほど近くにいたのに気づけなかったのか。
あるいはそれほど、イルカの体調に気を取られていたのか。
どちらにしろ、面白くない。
最初見た時から、この男は気に入らなかった。
―――イルカを、違う目で見ているから。
イェンを牽制し、外へ追い出したカカシは、
床にうつ伏せたまま、まだろくに動けない様子のイルカを見下ろし、思案する。
さて、どうしてくれようか。
痛みに潤んだ目と合うと、口が勝手に動く。
「なに勝手にやらせてんの?」
アンタはオレのものなのに。
開き直ると同時に、身勝手な意識も出てきた。
すると、イルカの目が強い光を放つ。
「‥‥あの男には、効果的だと思いましたが」
痛みに掠れた、不遜な口調。
明らかに苛立っているイルカの様子に、カカシの静かな怒りも触発される。
「―――あ、そう。‥‥‥アンタ、しばらく見ない間にいろいろと便利になったね」
はっきりとした蔑みを含ませて言った。
本気で、彼がそんな分野を身につけてたとは思っていない。
だが、
そんな手馴れているような言葉を吐かれると、分かっていても苛立ちは止められない。
本能も手伝い、
「じゃ、相手してよ」
カカシはさらりと自分の望みを口にした。
「‥‥‥え?」
イルカは信じられない、といったように顔を上げる。
「向こうが接待に女用意するっていうんだけど、そんなの信用できないでしょ。だから、アンタが今日の夜の世話して」
命令するカカシに、イルカが眉を寄せた。
「‥‥あんた、里に婚約者がいるでしょう」
「関係ないです」
そんなことか、とカカシは肩を竦めた。
「あの女は、子孫を確保するのに上層部が勝手に用意した女ですから」
「‥‥‥そんな」
「身の回りの世話してくれるんで置いてましたけど」
「―――‥‥‥さっき」
俯いたイルカが右足を押さえる。
「‥刺青がひどい痛みを発しました。こんなこと、今まで無かった。‥‥どういうことですか」
「ああ、それ」
カカシは屈み、無造作にイルカの大腿に手を置いた。
微かに熱を持っている箇所を撫でると、びくりとイルカが震える。
「‥オレ以外の忍が触るとそうなるんですよ。アンタだって、子供の頃、自分のおもちゃを取られるのは我慢ならなかったでしょ。‥‥子供の独占欲だと思ってください。すみませんね。若気の至りで」
カカシはやけに饒舌だった。
逃れるように身じろぎするイルカに、滑りのいい口は止まりそうにない。
眉を顰め、じっと堪えるイルカに、カカシは顔を寄せた。
「誰にどれだけ尻を貸そうと、アンタには大したことじゃないでしょ? 適当に愛想振り撒けとは言ったけど、そっちの処理もできるとは‥‥‥」
「―――――」
突然、
イルカの体が動き、右拳が動く。
衝動的な相手の攻撃。無論避けられたが、しなかった。
拳を受けるぐらいのことを、自分は数え切れないほど彼に強いてきている。
頬に衝撃を受けたカカシは、流し目でイルカを見た。
殴っておきながら、自分が痛がっているような辛そうな黒い瞳。
カカシはわざと貸しにすると言い「今夜」とだけ告げた。
呆然とするイルカを残して退室すると、廊下の冷たい空気に頬が痛む。
衝動的な力だったので下手な加減はない。まともに受けたので少し痣になるかも知れないと考えながら、カカシは冷めてきた頭を自覚する。
イルカにとっては最悪の状況になっただろうが、
(‥‥あの人を抱ける)
カカシの心は高揚していた。
あえて考えないようにしてきたが―――とっくに分かっていた。
自分の性欲は、イルカにしか向けられていないし、反応もしない。
誰か見知らぬ人間を抱くよりも、イルカの顔を思い浮かべて自慰するほうがよっぽど気持ちいい。
あの人は分かっているだろうか。
自分がどれほど、その体を渇望していたか。
***
夜、イルカはやってきた。
かなりの逡巡をおきながら、それでも命令に背けなかったのか、憔悴しきった顔で訪れた。
カカシは躊躇わない。その体を引き込み、貪るように唇を奪った。
がっつく自分を笑い、腕の中にあるイルカに安心する。
組み敷いて、無防備な腹を探り、のけぞる喉元に歯を立てる。怯える体を宥めて、両脚を割り、刺青の存在を舐め上げて確かめる。そして彼の奥へ深い入り込み、己自身をぶちまけた。
自分の匂いが染みこめばいい。
カカシは我を忘れた。
それは―――目が眩むような快楽だった。
イルカと深く交わり、腕の中にあるのを確かめると、言葉では言えないほど穏やかな気持ちになる。
情事が終わっても、カカシはイルカを放さなかった。
腕の中のイルカの体から自分の匂いがするのを確かめ、カカシは浅い眠りを憶える。
眠ってしまうのは勿体無い。
そんなことを考えていると、
―――――俺は‥‥‥あなたにとって、何ですか。
腕の中のイルカが、小さく呟いた。
それは、問いかけのようで、
独白のようで。
カカシは返答に困った。
浅い眠りに身を任せ、眠って聞こえていないふりをしたが、
それに気付いているか、いないか、
やがて、腕の中で静かに泣くイルカの浅い息に、
カカシは結局なにも言えない。
これでは、子供の頃の二の舞だと分かっていたけれど、人間はそう簡単には成長しないものだ。
とくに、自分のような壊れた人間は。
どうか、そんな質問はしないで欲しい。
こんな時返す言葉を―――自分は知らない。
アンタを腕に抱いて、
敵地にいることも忘れて眠ってしまうほど安心するこの気持ちを何と言ったらいいのか、
自分には分からないんだ。
***
翌日、予定通り里長との謁見は終了し、ダミーの文を手渡した。
イェンが黒幕であることを、里長もようやく受け入れたようだ。
覚悟を決めた里長に、歓待の宴に出席したカカシの気分は心持軽かった。
楽しげな会話が周囲から聞こえるが、里の住民たちは緊張している。
里長が覚悟を決めた今、反乱者たちとの全面対決は避けられない。
木の葉の里へはもう援軍要請の連絡は届いているはずだ。
後は援軍が動きやすいように反乱グループに陽動をかけるだけだが、その事についてはあとで暗部二人と話し合えばいい。
それよりも、早く任務に終わりが見えてくれてありがたい。
昨夜無理をさせたイルカは、朝から顔色が悪い。
さっきも間違えて自分の器に入っていた酒を飲み乾してしまった。
できるだけ早く里へ帰って、休ませてやりたいし、
(この男も早く消そう)
いまだ里内をうろつくイェンは、宴の後、イルカに何か話し掛けていた。
内容までは聞こえなかったが、切羽詰ったイェンが馴れ馴れしくイルカに触れるのを見て、当然邪魔をする。
心置きなく邪魔者を抹消できる大義名分が出来て嬉しかった。
―――そして、その機会はわりと早く訪れそうだった。
里に入り込んだ反乱者たちに人々は騒ぎ、都合よく姿を消したイェンに、カカシたちも現場に向かう。
凄惨な現場にイルカは言葉を失っていた。
指先が少し震えているのが見え、泣くんじゃないかと胸が騒ぐ。
泣くのはまずい。
イルカの泣き顔を見たくなかったカカシが、先にそれを指摘した。
逆に彼の自尊心を傷つけてしまったようだが、
(‥‥‥?)
先程よりも悪くなった顔色に気付く。
上向かせて瞳を覗きこみ、体調を問いただしたが、イルカは平気だと答える。
そんな言葉で納得できるような容態には見えない。
(―――この人、先に里へ帰そう)
じきに派手な戦闘が起こる。
イルカが戦闘に巻き込まれないように、カカシは彼を先に里へ戻そうと考えた。
そうなると、早急に暗部二人と連絡を取り合う必要がある。
イルカの傍を離れることを躊躇ったが、
最後のミーティングのため、イルカにうろつかないように言い含めると、カカシはその場から立ち去った。
「森に潜伏する反乱グループはすでに動き出している。援軍は八小隊。今日中には接触予定だが、昼間の騒ぎで最初の戦闘が早まりそうだ。先に先制攻撃をかける」
密かに落ち合った別行動の暗部一人と、カカシはこれからの予定を話し合っていた。
状況は予想以上に早く動いている。
早い対応が必要となり、木の葉の使者として、一番大事な場面での目立った活躍が欲しかった。後に、援助をしたという事実を元に、友好な関係を六花の里と将来長く続けていくために。
「‥‥‥先制攻撃って、なにするわけ?」
陽動をするとは知っていたが、カカシは何か嫌な空気を感じ取った。
向き合う面をつけた暗部は、
「察しが悪いな、カカシ。なんのために荷運びを連れてきたと思う」
「―――――――」
「その為の中忍。”足”だ。‥‥‥ちょうど首謀者のイェンとは訳ありの中のようだしな。上手く敵陣の中へ潜り込めるかも知れない。無理なら、爆薬を持って飛び込んでもらおう」
木の葉の里が六花を助けるために犠牲まで出したという構図も、予定の内だった。
淡々と計画を話す暗部は、相槌を打たないカカシを怪訝に思い、
「‥‥‥‥‥‥っ」
―――肌を突き刺す殺意に、ぞっと鳥肌を立てた。
「‥なに言ってんの、お前?」
「カ‥‥‥カシ」
「あれはオレのよ? お前らが勝手に使う、殺すだの言えるものじゃないの。駄目駄目、やめてよ、そんな馬鹿な計画。つーか、お前が行け」
「‥‥‥お、俺は‥‥‥っ」
「はい、決定〜」
後退りをして狼狽する相手に、カカシはぱちぱちと祝福の拍手を送った。
「残りの人にも言っといて。一斉攻撃にはオレも参加するけど、あの人は先に里へ返すから‥‥‥」
そこまで言って、カカシはふと口をつぐんだ。
小首を傾げてあごに手を当て、斜めに相手の顔を直視する。
仮面の向こうにある、引き攣った顔を。
「‥‥もう一人、どこ行ってるわけ?」
最後のミーティングに姿を見せないもう一人の仲間に、カカシは胸がざわついた。
「――――まさか、言いに行ってる?」
あの人の元へ、
自分のいない間に、阿呆な命令を告げに向かった?
「‥‥‥‥‥‥」
返答はない。
ただ、膨れ上がるカカシの殺気にガタガタと震えることで答えた。
(‥‥‥くそ‥‥‥)
おもわず舌打ちが出る。
弁明に、行かなくては。
そんな馬鹿げた任務は、受けなくていいと。
自分みたいなクズに振り回される素直で実直な彼は、木の葉の里のため、きっと黙って引き受けるだろう。
立ち尽くす暗部を置き去りに、カカシは急いで走り出した。
狭い里の中、すぐに彼を見つけられると思ったが、六花の里内にイルカの姿はなかった。
屋根に立ち、もしかしてと里の衝壁に視線を巡らせる。
(まさか、もう向かった‥‥?)
胸を不安が襲った。
「――手伝え」
忍犬を一匹呼び出し、カカシはイルカの捜索を里外にも広げた。
行方を捜す時間は、予想以上にかかった。
空から雪が降りだしたことにすら気付かないほど、カカシは必死にイルカの姿を探す。
そして、
寒さと環境状態から、異常な早さで雪が降り積もっていく中、
突如、忍犬の遠吠えが空に響く。
白く染まり始めた雪野原、
―――雪の中に、イルカはいた。
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