□ 隣の人




第2話









(‥俺は、いったいどうして、こんな人と暮らすことに‥)
 友人の話では、まるで無理強いをされているかのような口調だった。
 この人に脅されていたのだろうか。
 会って一時間も経っていないが、なんとなく人となりは分かってきた。
 はたけカカシは、おそろしく自分勝手で、多分半端じゃなく――怖い。
 浮気なんかしたら、相手もあんたも殺すと言ったあの目。思い出すだけで背筋が凍る。
(これで‥もしあなたのことを忘れてしまったなんて言ったら‥‥俺‥俺‥‥)
 ――殺される?
「言えない!!!」
「はー‥‥?」
 思わず叫んだ声に、居間に転がった上忍が訊き返す。イルカは慌てて首を振った。
「な、何が食べたいですか?」
「ん〜‥適当に。いいですよ、頭痛いんでしょ」
 それでも、休めとは言わないあたり、この人の人格が出ている。
 軽く食べていくだけのつもりが、彼の分まで用意することになってしまった。
 出勤の予定時間はとっくに過ぎている。
 あの後、ついた血に結局もう一度風呂に入って時間をロスし、おまけに「ご飯〜」のカカシの一言。
 イルカは手早く調理し、急いで運んだ。
 食事に関しては、何も文句は言わなかった。もぐもぐと無表情に食べる姿に、おいしいのかまずいのか訊きたかったが、まずいと言われたら嫌なので黙っていた。
 狭い食卓で、知らない男と昼食。
 血は洗い流させた。洗濯するしかない上着は脱衣所に入れさせたが、あれを洗濯するのはもしかしなくても自分だろう。
 洗濯籠の中を見たが、自分の服の中にやはり知らない服があった。――この人のものなのか。
 しかしこうして近くに座っていても、イルカには何の感情も浮かばなかった。むしろ、とにかく落ち着かない。
 そもそも、情人とはどんな情人なのか。
 意味は複数ある。恋人、愛人、いろ。‥‥単なる性欲処理という立場が一番惨めだが、この場合どれも嬉しくない。
(いや、そんなことより、記憶のこと説明しないと‥‥、でも本気で怖いなあ‥理不尽にものすごく怒られそうだ‥‥)
「ごちそうさまでした」
「あ‥はいっ」
 きちんと手を合わされ、イルカは「おそまつでした」と頭を下げた。
 食器を持っていこうとすると、先に片付けられた。「ん? 後片付けはオレの役目でしょ?」と不思議そうに言われ、かちゃかちゃと台所で水の音が始まる。
(‥‥一応、ちゃんとしたところもあるんだ)
 イルカは少し感心しながら、居間の荷物をあさった。
 予定より遅くなったが、今からでも出勤したい。本を出し、準備を整えていると、洗い物を終えた上忍が戻ってきた。近づく気配に少し緊張したが、大きな身体をごろりと床に横たえる。
(寝るのかな)
 食べた後横になるなら、右を下にした方が‥と思いながらも、構ってはいけないと準備を続ける。
(よし、終わり) 
 やっと終わって、さあ行こうかと立ち上がりかけたが、突然、ばんばんっと畳が鳴った。
「?」
 見れば、寝そべった上忍が手で畳を叩いている。
 アザラシの真似?
 何か催促するような動作に見えるが、イルカには理解不能だった。
 眉を顰めて困っていると、
「――‥‥イルカ先生、ひざまくら〜‥」
「えっ! ‥‥‥あ‥‥ハイ‥」
 大仰に驚くイルカに、逆に相手の方が驚いたようだ。
 怪しまれないように慌てて傍へ行き、正座をした。本当に膝枕なんてする気なのかと緊張していると、銀色の頭はあっさり膝に乗った。
「‥ちょっと足くずして。高すぎ」
 そればかりか、注文までつけてくる。
 自分にちょうどいい高さに調整すると、青い片目は瞼を閉じ、そのまま眠ってしまった。
 イルカは唖然と、それを見守るしかない。
(‥動けない‥。つーか‥え? これからどうするんだ?) 
 緊張に足の痺れが増す。
 いつもこんなことをしていたのだろうか。大の男に膝枕を?
 イルカはちらちらと時計に目をやった。
 仕事に行きたい。でも動けない。
(‥‥‥‥‥ふさふさ)
 銀色の髪は犬の毛のようだ。ちょっと触ってみると、頭が身じろぎする。
 起きてくれるかな、と何度か触っていると、むくりと上忍は起き上がった。
 やっと自由になるかと安心したが、すっと身を寄せられる。
 首筋へのキスは本当に自然で、イルカは何も反応できなかった。
(‥え‥?)
 間近で目が合う。色違いの目は深く底が見えず、目が離せない。首の後ろに掌が当てられ、ちゅっと唇に唇が触れる。――やわらかく、生々しいほどの人の唇。
 耳たぶを弄られ、一度離れた唇がもう一度触れた時、イルカははっと我にかえった。
「はたけ上忍‥っ、やめ‥‥」 
「嫌だ。――いつものようにカカシさんって呼んで下さい」
「ん‥‥っ、‥‥」
「呼んで‥」
「‥やめて下さいっ。‥俺は‥、カカシさん‥っ」
 もがきながら名を呼ぶと、ぐいっと強く抱きしめられた。
 力強い腕に身動きがとれない。緊張に忘れていた頭痛がする。怪我をしているというのに、この男はなんて横暴なのか。
 苛立ちと悔しさに更に暴れてやろうとしたが、
 強く押付けられる胸の――鼓動が。
(‥‥‥早い)
 どきどきと、明らかに普通よりも早い鼓動は自分じゃない。
 抱きしめる腕の持ち主――カカシの心臓。
(‥余裕綽々に見えるのに)
 抱きしめながら、唇に耳を寄せてキスされる。慣れた仕草で、時に髪をまさぐって。
 間近から、また目が合う。
 強い目は、拒まれると思っていないようだが、
(‥‥‥鼓動が、また早くなった)
 音を聴こうと集中すると、自然瞼が落ちかける。それを承諾と受け取ったかどうか。
 唇は再びふさがれて、今度は濃厚な口付けとなった。舌がからまると、ぞくっと首筋が震える。これ以上はまずい。じっとしていられない感覚に喉を鳴らすと、
「‥キスだけだから」
 カカシが唇を少しだけ浮かして呟いた。
 それ以降は、やわらかく濃厚な口付けが続く限り。
 もう抵抗するのも億劫だ。抵抗を放棄し、されるがままのイルカは内心もやもやとした葛藤を抱いた。
 まるで、うっとりキスに身を任せているような自分が――恥ずかしい。
 本当なら絶対に許さない。
 上忍だからって関係ない。
 だが、
(‥‥‥くそ)

 彼の鼓動があんなに早く打っていなければ。
 




 *




 結局、本当のことは言い出せなかった。
 その日は仕事に行くことはできず、カカシ上忍は夕方になると任務にもそもそと動き出した。
 裸の上半身が服に隠れる。
 何事もなかったように衣服を整えていく姿を、イルカは布団の中から覗いた。
 肩越しに視線が合い、
「起きた?」
 低い声音の問いに、首筋がちりちりした。まだ、耳の奥で囁かれた声がするようだ。
「‥任務ですか。出かけるのでしたら手伝いを‥」
「準備くらい一人でできますよ」
 カカシが面白そうに笑った。「そんな事言うの、初めてだね」と。
「いつもは‥」
「いつもは、虎の子供みたいに暴れるのに。おかげでこっちは引っかき傷だらけ。今日はどうしたんです?」
「え‥」
「イっちゃう顔なんて初めて見た」
「‥‥‥っ」
「まあ、下手じゃないと分かって嬉しいですよ」
 じゃ、と短く言って、カカシ上忍は出て行った。
 ベッドの上に残されたイルカは、しばらくぼうっとしていたが、勇気をもって動いてみた。
 予想していたほど痛くない。それはつまり、慣れているということなのか。
 複雑な気分で起き上がり、風呂場へと向かった。
 なみなみに入れた湯に体を静めると、ほうっと大きなため息が出る。
(‥抱かれちゃったよ、おい‥)
 今更ながらとんでもない体験をしてしまった。
 抵抗しようと思えばできた。カカシ上忍もそこまで無体な真似をする雰囲気じゃなかったが、ついうっかり。
(‥うっかりで、男に抱かれるか?)
 自分の思考に辟易する。
 しかし、本当に今までの自分はどんな人間だったのだろうか。
 他の記憶はすべてあるのに、カカシ上忍に関してだけすっぽり抜けていて、彼に対する自分の姿だけがまったく想像つかない。
 力ずくで押さえつけられるなんて絶対嫌だ。
 したがって円満な関係だったとは思えない。
 友達だって心配していた。無理やり言うことを聞かされているのではないかと。
 今となっては記憶が戻らない限り分からないが――不本意な形であったことは間違いないだろう。
(‥‥あの人、誰かを抱く時はいつもあんなに‥激しい‥のかな) 
 男として見ても、カカシ上忍の抱き方はけして優しくない。息をする間もない、何かに急かされるように激しく、本当に噛み殺されるのではないかと思った。 
 あれでは女が可哀想だ。気絶しかねない。
(だから、俺が代わりに? ‥‥やっぱり性欲処理係‥‥) 
 後悔する。どうしてうっかり抱かれてしまったのか。
 ほかほかの湯に、痛む関節が効く。
 顎までつかり、イルカはため息をついた。
 問題は、
(それほど、嫌じゃなかったことだ)
 性欲処理係で、俺様の上忍からまるで召使扱い。
 経験があるとはいえ、記憶がない以上、はじめて男と寝たのに――。
(‥嫌じゃなかった。むしろ気持ちよかった。‥‥‥やっぱり、円満な関係だったのかな?)
 理不尽な扱いを了解した上で、自分はあの上忍と一緒に暮らしていたのだろうか。
 大きな疑問だ。
 どうにも不自然で、不可思議なことが多すぎる。
 とにかくもう少し様子を見よう。事は慎重に行動したほうがいいようだ。
 明日になれば、記憶を思い出すかも知れないし、機を見て、カカシ上忍から詳しい自分たちの関係を聞いてみるのもいい。
 友人から聞いていたよりは、話の通じる人に見えたから。
(‥多分)
 完全にぬぐい切れない不安は今の自分のものか。
 はたして無くした記憶の自分のものか。
 どちらにしろ先行きは暗かった。










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