□ 隣の人 最終回









 雪が降ってきた。
 記録的な大雪になると聞いたが、とくに寒いと感じない。
 何もかも麻痺していた。
 あの晩から。
 倒れたイルカの冷たい身体。病院のベッドに横たわる姿を見るたびに、何かが凍りついていく。
 せっかくあったかくなったのに。
(‥あったかくしてくれたのに、ごめんよ。イルカ先生)
 眠ったままのイルカを見るのが辛くて、最近は病院にも行っていない。
 ただ遠くから、病室の明かりを見上げる。
(起きて、イルカ先生) 
 嫌われてもいい。
 どんな酷い言葉にも耐えるから。
 ――どうか、起きて。

 

 倒れたイルカを再び病院に運ぶと、精密検査が開始された。
 結果、どうやらイルカの記憶が戻ったようだが、術の反動によるものか意識が一向に戻らない。
 詳しいことは判明せず、イルカはもう二週間も昏睡状態になっていた。
 身体的に問題はなく、いつ目覚めてもおかしくない状態だが、覚醒の兆しがないのでは意味がない。カカシは苛立ちを抑えられなかった。
(起きたくないの? 記憶が戻ってしまったから)
 消灯後の病室に、カカシはひっそりと立っていた。
 イルカに会いに来るのは五日ぶりだ。
 静寂に耳をすませて、イルカの呼吸を確認する。大丈夫。ちゃんと生きてる。
(‥生きてる。‥‥もうそれだけでいいから)
 イルカの胸に耳を当て、ゆるやかな浮き沈みを感じる。
 触れると、愛しさが泉のようにあふれ出て離れられなくなった。
「‥好き、‥イルカ先生‥‥好きなんです。こんなの初めてで、どうしたらいいから分からなかった。だってあんたは‥とても綺麗で‥、オレがあんたを好きだなんて、恥ずかしかった。オレは‥あまりに汚い人間で‥滑稽すぎるでしょ。‥意気地なしなんです。笑ってください。――起きて、笑って?」
 心臓の音に語りかけるように、カカシは独白を続けた。
 そっと顔を上げたが、固く閉じられたままの瞼に細いため息が出た。 
(‥‥泣きたい)
 目覚めてほしいと心から願うが、目覚めたらそこでおしまいだ。
 記憶を自分で消してしまうほど嫌われたなら、もう何も望めない。
 記憶を失っている間、許すと言ってくれたイルカの言葉が死ぬほど嬉しかった。
 許されることをしたとは思ってない。
 人間として最低で、愛の常識に反している。
 欲しいというだけで、力ずくで自分のものにして――。
「‥好き‥‥」
 眠る顔に優しく唇を押しつけて、カカシは静かに離れた。

 その眠りが心地いいものならば、いっそ起こさないでいよう。
 初めてイルカに与えられる――安らぎだ。
(おやすみ)
 雪が足音を消してくれることを、この時は深く感謝した。


 イルカが、病院から忽然と消えたと報告を受けたのは、
 その翌日の事だった。





 報告を受けてまず向かったのは、イルカの家だった。
 任務から里に戻ってきたのはつい先ほどのことで、空は白く厚い雲に覆われていた。
 いつでも降り出しそうな雪に、鼻先が冷える。不規則な荒い呼吸にみっともなく赤くなるのが分かるが、これ以上にない速さでイルカの家を目指した。
 冬は陽が落ちるのが早い。明かりをつけている家もあり――、
「‥‥は‥‥‥」
 イルカの家も、明かりがついていた。
 呼吸を整え、カカシはどくどくと胸打つ心臓に唇をひきしめた。
 躊躇った。
 目覚めたなら、もう二度とイルカの前には現れまいと思っていたのに。
 ――会いたい。
 カカシは思い切って、扉を開いた。

「あ、おかえりなさい」

 居間からひょこっと顔を出し、イルカが言った。
 カカシはあっけにとられる。何を言っていいのか分からず、ぼうっと立ち尽くしていると、「カカシさん。寒いから早く閉めて下さい」イルカに注意された。
 急いで閉めて、はたして自分も出て行ったほうがよかったのか迷ったが、
「今日はお鍋にしましょう。もうすぐできますから、座って待ってて下さい」
 ちゃんと手を洗って、土も落としてくださいよ、と台所の方から響く声。
 いつもの――イルカの声だ。
 でも分からない。
 どっちの?
 言われるがまま、カカシは洗面所へ行って手を洗った。
 昨日まで意識不明で入院していたイルカだ。急に病院からいなくなって、お鍋の準備。おかしすぎる。
 だが、訊くのが怖い。
「運ぶの手伝って下さいね」
 てきぱきと支度をするイルカに、カカシは人形のように従った。
 湯気に包まれるお鍋はあったかくて、久しぶりに胃が温まる。
 このまま、何事もなかったようにいられたら。
 イルカと向かい合って、カカシは本気で願ったが――そんなわけにもいかないだろう。
「‥‥どっちのイルカ先生?」
 目を伏せたまま、カカシは問いかけた。
 鍋の具をつついていたイルカの箸が止まり、少し空気が重くなる。
 問いかけの意味を、イルカは理解している。
 途端、胃が圧迫されるように緊張する。無表情を装っても、いつだってイルカの前では赤子のように心が乱される。
 はたして何と答えるつもりか。
 じんわり掌の汗が滲み出て、それを隠すように拳を作った時、
「‥‥‥どっちであるか、必要ですか?」
 イルカの静かな声は、予想外の答えを言った。
 カカシは呆けた顔を上げる。イルカは箸でとった白菜を、口に放り込んで噛んでいる。 そんなのん気な顔をして――。
「必要も何も‥‥他の誰でもないあんたのことですよっ。こうやってまたオレを家に簡単に入れて‥。分かってんでしょ、オレがすべての原因だって。だったら、はっきりと‥」 
 別れる、会わなくする、とは口にしたくなかった。
 ずるく黙り込むと、イルカはゆっくり箸を置いた。
 黒い真っ直ぐな目が、一ミリも逸れることなく自分の目を捉える。 
「じゃあはっきり言いますよ。カカシ先生、あなたは最低な人間です。最初っから大っ嫌いでした。絶対許してやる気なんて無かったのに、あなたは厚かましくも俺に人間らしい付き合いを求めてきて、もうどうにもならないなら、いっそあなたのことなんか忘れてしまおうと思ったんです」
 淡々と話すイルカの言葉に、カカシは内心眩暈を起こしそうだった。
 予想はしていたが、本人から直接聞くとショックは大きい。嫌われてて当然だと知っていても、イルカの声で聞きたくなかった。
 しかし、これでもうおしまいだ。
「‥お鍋、ご馳走様でした」
 カカシは頭を下げ、退席しようとした。引き際が肝心だ。
 何度も覚悟はしたはず――、
「――お待ちなさい」
 立ち上がりかけたカカシを、イルカがぴしゃりと止めた。
「まだ話は終わってません」 
 終わっていない?
 カカシは怪訝な顔で、しかし促されるまま座り直した。
 その動作を見届けて、イルカはなんだか疲れたため息をこぼした。
「‥‥‥記憶を失っている間、どうして自分は記憶を消してしまったのだろうと考えました。単純に、あなたという人間に愛想を尽かしたというのも頷けますが、どちらにしろあなたは俺にぞっこんでしょう?」
 ぞっこん。
 まさかイルカの口から聞くとは思わなかった。目を剥いて驚くカカシに、
「記憶を消したって、あなたは俺から離れない。なのにどうして記憶喪失なんかに。――それだけ追い詰められていたのかと考えましたが、違うだろうとも思っていました。それは、記憶が戻ってはっきりと確信をもてました。‥つまり、仕方ないんですよ」
「‥‥え?」
 話が見えない。
 うろたえると、イルカは鍋に蓋をして、すっくと立ち上がった。
「もういいから、抱きしめてください」
 手を広げて、ありえないことを言う。
 ありえない。この人が自分が抱きしめろだなんて。――だが、断る理由などどこにもない。
 ぎゅっと強く内側に抱きこんだ。
 もう触れないと思っていたのに、腕の中にある。信じられない。
 絶対、離すものか。
 感極まって震えると、耳元でイルカの嘆息が聞こえた。
 仕方ないですね――と、子供をあやすように。



 イルカが言うには、
 ――もう懐に入れてしまったのだから仕方がない――だそうだ。
 記憶喪失になる一番の目的は、一度、まっさらになった心に、はたけカカシという人間を入れる隙を与えること。
 最初の最悪な出会いと固定観念を忘れて、本当のはたけカカシを見て、つまり――自らほだされてやろうと。
 それでもうまくいくとは限らない。
 最悪の印象は心の奥深く染み付いていたかも。
 けれどイルカは、自分の手がかかる人間ほど見捨てられない性格を知り尽くした上で、多分、カカシを受け入れることを分かっていたと言う。
 カカシの罪を許し、受け入れ、カカシもまた己の過ちを認めて本心を吐いたところで記憶が戻るように。
 戻っても、カカシを同じように許せるように。
 イルカは準備をしたのだ。
(‥怪我までして‥)
 もう頭の傷は完治しているが、あの日、頭に包帯を巻いたイルカを見て血の気が下がった。改めて、自分という存在は、イルカに害しか与えないのだと自覚する。
 外は雪が降っていた。
 けれど、ベッドの中は二人分の体温でとても温かい。
 ぬくもりが、また戻ってくる。
(‥イルカ先生が、オレの火)
 離れるなら、今かも知れない。
 これが最後。――しかし、離れようとした体を、イルカの手がつかまえた。
「‥‥寒いから、離れないで下さい」
「最後の――チャンスかもよ? イルカ先生」
「いいから、そんなに冷えてるくせに」
 絡み合う指。すぐに冷たくなる指を、イルカが撫でて包んでくれる。
 抱きしめられて、危うく涙が出た。
「‥オレ、もしかして愛されてますかね」
「そういうことです」
 諦めた優しい声に、安堵の息が出た。
 この上なく、幸せな――息を。



 正直まだ、わだかまりが消えたわけではない。
 すべて無かったことにして許すわけではない。ちゃんと悪いことは悪いと指導していくつもりだ。
 ひとまずは、
「‥‥‥俺は昨日まで入院してたんですよ」
「ごめんなさい。お願い、イルカ先生。ね」
 謝れば許されると思っているこの男を、どうにかしなければ。
 もぞもぞと不埒な動きをする手をひっぱたき、イルカはこれからの心労に長いため息をこぼした。











end






以上で777777キリリク終了致します。
イコ様。リクエストありがとうございました!







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