048:熱帯魚









 舟旅は予想以上に長くかかった。
 岸へ上がることが出来たのは真夜中のことだ。
 すぐに場所を確認したかったが、舟に乗り込む前に暴れたイルカは両腕を縄で縛られていた。おまけに、進む道は秘密裏に作られた隠し通路。星を見上げて方角を確認しようにも生憎曇り空だが、
(竜の牙と言ってたな‥)
 記憶にある名だ。岩が大きくせりだした変わった形の山で、森が深く、人はあまり近寄らない。
 木の葉の里から、人の足で三日はかかる場所だが――、
「夜が明けるまでここで休め」
 途中、今にも崩れそうなあばら家で一同は立ち止まった。
 イルカの縄を外すことは許されなかったが、小屋の中でユビナと二人きりの空間を許された。
 気丈であっても、娘の顔色の悪さは隠せない。実際、イルカと二人きりになると、ユビナは目に見えて緊張を解いた。一緒に放り投げられた飲み水や食料に、
「‥ユビナさん。何か、口にした方が‥」
 イルカは食事をするように言ったが、力なく首を振られた。
「‥‥では、せめて横になって休んでください」
「でも、その前にあなたの縄を‥」
「俺は平気です」
 答えて、両腕を拘束していた縄をぱらりと解いた。上手く結んでいたが、基礎を熟知したイルカには容易い。 
 ユビナは少し躊躇いながら、粗末な敷物に体を横たえた。まるで倒れこむように伏す娘に、イルカはちくちくと罪悪感を感じる。
「‥‥すみません。俺が不甲斐ないばかりに‥」
 オンと名乗った男。あれは厄介だった。両腕が自由で二人きりだと言うのに、イルカには逃げられる自信がない。外で番をする男たちは、ひっそりと息を潜めている。彼らは忍びの技を知るプロだ。
「‥そんな‥‥、イルカさんが謝ることなど何もありません」
 肩を落とすイルカに、ユビナは驚いた顔を見せた。
「元はと言えば、すべて私が原因です。‥里を出る前に、あなたの行動を妨げなければ、こんな事にはならなかったでしょう。水辺の時だって‥、私の感情の乱れに、あなたの命を危うくさせました。‥‥私の方こそ、謝らなければならない人間です」
「ユビナさん、そんなことは」
「―――観賞用」
「‥え?」
「あの男の言葉が、どうしても我慢できなかったのです。考えるより先に手が動いていました。‥その言葉は、私がもっとも嫌うべきものです。‥家の者だけならまだしも、見知らぬ誘拐犯にまで言われるなんて」
「‥‥‥‥‥」
「見られるだけ。櫻井家では、私はただそこにいて、見栄えよく背筋を伸ばし、時に舞って見せればいいだけです。誰もそれ以上のことは望まず、父も母も家の者も、誰も本当のことを教えてはくれません。私は自分が恥かしいです‥。これでは、ただ餌をもらい飼われている熱帯魚のよう」
 イルカにはかける言葉が見つからなかった。
 ゆっくり閉じたユビナの睫が、少し濡れているような気がしたから。
「‥でも私は、熱帯魚が羨ましい。少なくともあの子たちは、飼っている人間から愛情をもらいますもの‥」
 声は静かに萎んでいった。
「ユビナさん‥?」
 そっと声をかけると、かすかに規則正しい寝息が聞こえる。
 横になった途端睡魔にのまれるなんて、よほど疲れていた証拠だ。
 イルカは立ち上がり、おもむろに外への扉を開く。
「なんだ?」
 さっと振り返る一同の中で、オンだけが声をかけてきた。イルカのほどけた縄については何も言わない。
「中は寒い。ユビナ様に何か掛け物を。それと、目が覚めた時に食べやすいものを。あんな固いパンでは噛み切れない」
 冷たく告げるイルカに「手の込んだ料理なんてムリな話だ。だが、勝手に作るなら別だ」オンは、その固いパンを噛み千切りながら言った。
「夜明け前に出発する。作るならその前にしろ。まだ道のりは長い。お譲ちゃんの健康管理にせいぜい気を配ってくれよ」
「‥‥‥お前たちと一緒ではムリな話だ」
「違いない」
 オンは挑発には乗らず、破顔した。
 話しているのが馬鹿らしくなり、イルカは男から受け取った毛布を預かり、早々に扉を閉める。
 ユビナの体にそっと毛布を被せ、
(可哀相だけど、夜明け前に一度起こして何か食べてもらわないと。‥スープなら大丈夫かな)
 後で山菜などを探して、もっとマシな料理を作ろうとイルカは思う。
 作っていいと言ったのだから、探しに行くぐらい構わないはずだ。
「‥‥‥‥‥‥」
 けして穏やかとは言えない娘の寝顔を見下ろし、イルカは渋面する。
 辛い、怖いなどけして口にしない、まだ二十代にも満たない娘。
(‥‥自分が恥かしいなんて)
 その告白は心に痛く響いた。罪悪感がさらに増す。
 イルカはむしろ―――己の方が恥かしい。
 自分の意思でここまで彼女についてきたが、本当は、荷車に連れ込まれる前に強引にでも彼女を連れ出して逃げていればよかった。彼女はそのことについて謝罪してきたが――本当は違う。
 ユビナの考えに従ってしまったのは、彼女に対して無意識に負い目を感じていたから。
 ユビナがカカシのために作った贈り物を返しに来た上、その包装紙を伝言用に使ってしまった。
(愚にもつかないことで‥)
 イルカは首を振った。今は、終わってしまったことを悔やんでいる場合ではない。
 ――誘拐から一日が経過した。
 こうなっては、伝言の紙と、眠りに落ちた女中たち目覚め、一刻も早く救出の手が伸びていることを祈るしかない。
 それまでは、なんとしてもユビナを守るのだ。










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