057:熱海
一人娘の誘拐騒動は、あくまで内輪だけの話に治まった。
そして、それからの櫻井家は大っぴらな商売から手を引くことになる。
竜の牙周辺は完全に立ち入り禁止となり、良戯の葉はすべて燃えた。流出してしまったものはもはや回収できないが、種まで燃え尽きた薬はもう出回ることはない。
離反が認められた村人たちは正式に解放され各々旅立ったが、何人かは木の葉の里に残り、再び葡萄の栽培を始めている。
そして櫻井家では、当主が現役から退いた。引退にはまだ早いが、後に一人娘が後を継ぎ、経営力を発揮することとなる。
偶然から始まったイルカの功績を、火影は労った。
イルカにしてみれば、諌められるべき失態はいくつかあったが、火影は特別に休暇を与えてくれた。まだ薬も残っていることから、しばらく身体を休めようとイルカも納得したが、ちゃっかり休暇に便乗したカカシには呆れた。
「オレも休まず走って疲れたんですよ〜」
そう言われては何も言えないが、どうやって火影を説き伏せたのか。
大きな謎に不審を抱きながら、しかしいざ出発の日になると心が躍った。
目的地は――温泉宿だ。
「あんたの薬が移ったって言ったんですよ」
到着するまでの間、休暇を与えることを渋る上層部を説得したカカシが種明かしをした。
「移ったって‥」
確信犯のくせに。
非常に心外であったが、反論は伏せた。屁理屈には勝てないし、
(たまにはいいか)
久しぶりにのんびりできる休暇に、イルカは鷹揚な気分になっていた。
部屋に通されると、さっそく浴衣を手にする。いそいそと着替えるイルカをしっかり眺め、
「楽しそうですねぇ」
どこへ行っても変わらぬテンションのカカシが言う。
「カカシさんも着替えたらどうですか」
「や、オレは結構です」
「ここで忍服は逆に失礼ですよ」
「う〜ん。でも急に任務で呼び出されそうな気がするんで」
「‥‥‥」
意外な返事にイルカは振り返った。
いつでも行動できる忍服を着崩さないカカシは、のんびりした部屋の空間に恐ろしいほど似合わない。
なんとなくカカシの前に座り、
「‥‥すみません。俺、浮かれすぎましたか?」
訊ねると逆に驚いた顔をされる。
「え、そんなことはないですよ。元々あんたの休暇なんだし」
それはそうだ。
「イルカ先生は相変わらず真面目ですねえ。‥だからオレみたいなのにつけこまれるんですよ」
「‥‥重々承知しています」
「オレは適当に休むんで、気にしなくていいですよ。それよりあんたの体調を戻すことが目的なんだから」
少しやわらかな口調に、気遣ってくれているのかと気づく。どうしたことかと考えて、はたと思い当たる。カカシの目を見て、
「もう怒ってませんよ?」
言ってはみたが、
「うっそだ〜」
カカシが仏頂面で言った。
竜の牙の村が落ちた夜、強引に組み敷いたカカシに、後に冷静になったイルカが激怒した。負い目があるのでつい流されたが、不謹慎極まりない。
振り回されたカカシにも言い分はあったが、最終的にはいつものように収まった。
つまり、主導権はイルカへと戻った。
あの夜以来触ることを許されないカカシは不満をぶちぶちとこぼすが、それでも無体は強いなかった。珍しいことだと感心していたが、カカシなりに、体調の戻らないイルカを気遣っていたのだ。
わかり難い心遣いに、イルカは苦笑を浮かべた。
「お言葉に甘えてゆっくりさせてもらいます」
「ん」
「でも、カカシさんもせっかくだから温泉につかるぐらい‥‥」
言葉途中でイルカは口を噤んだ。
「――失礼いたします」
声をかけて仲居が入ってくる。その手に持った籠に、自然と二人の視線は注目した。
「お邪魔して申し訳ありません。こちらの品をお預かりしました。‥ええと、イルカ様は」
「あ、俺です」
そうですか、と仲居は微笑み、籠をイルカに手渡した。
「‥‥‥‥‥これ‥葡萄‥?」
「はい。季節外れですのに、見事な実りですねえ」
「あの、これは誰から預かったんですか」
「はあ。‥‥すみません、私は直接には‥。ご本人はもうお立ちになられたようで。お名前はたしか‥」
――オン。
(‥‥‥あの男‥‥)
葡萄を見た時、まさかと思った。
竜の牙で別れてからは一度も顔を見ることはなく、足取りも掴めない他里の忍。
「メッセージもお預かりしています。”息災あれ”とのことで‥‥あの‥‥」
籠を持ってぷるぷる震えるイルカに、仲居は顔を強張らせた。「何か問題でも‥?」と困惑する声に、イルカは我に返った。
「い、いえ。ありがとうございました」
礼を言うと、仲居はほっと息を吐き、「ではこれで」席を立った。イルカは再びカカシと二人きりになり、
「誰からですって?」
棘だらけの声に身を竦ませる。
ちらりと振り返ると、あぐらをかいたカカシが胡乱な目を向けていた。
「例の主犯格の男ですか」
「‥‥‥はい」
「ずいぶん味な真似しますね。オレ、帰して来ましょうか? 今なら追いつくでしょ」
「え‥っ、でもそれは‥‥」
「なんで? イルカ先生はオレの返しに行ったでしょ。当然オレも、恋人としてそれを誘拐野郎に突き返して絞める権利があるわけでしょ」
「‥‥‥‥」
もっともな口調で過激な発言をされ、イルカは複雑な思いで籠を見下ろした。
憎らしい男だったが、最後の最後まで人に迷惑をかけてくれた。挙句、贈り物が葡萄で、息災あれとは皮肉以外なにものでもない。いや、あの男にとっては存外本気なのかも知れないが。
(‥俺をからかって楽しんでたんだろうな)
葡萄いっぱいの籠を持ち、カカシの視線を避けながらイルカは思う。
憎らしいけれど――実は心から憎めない微妙な状況になっていた。
オンが属する里は判明しなかったが、別口の任務で良戯の葉を探していた事実を得た。
良戯の葉が流出する場所を発見したまではいいが、竜の牙の強固な守りに侵入を阻まれる。あくまで穏便に事を進めたかったオンの隊は雇われ者を装って村人と交渉した。
その後、ならず者を雇って木の葉へ侵入。村の依頼によって櫻井家の一人娘を誘拐した。まわりくどい方法であったが、娘を連れてきたら村の中へ入れる条件だったようだ。
情報だけでは不足だ。その目で良戯を確認しなければ、忍びの任務は終わらない。
イルカを木の葉の忍と知りながら同行させたのは、木の葉の里にそれとなく情報が渡ることを狙っていたらしい。木の葉とは関係の無い他里の忍びたちは、一応の後始末はつけるつもりだったのか。最終的には、村を木の葉の里に管理してもらいたかったようだ。
木の葉の部隊が早く村に到着できたのは、カカシたちの足が速かったこともあるが、なにより抜け道に目印があった。そして、阻む敵の数も少なかった。
戦火に包まれた村では、イルカだけでなく――去ったはずのオンたちも、実は動いてくれていたのだ。
(‥‥お礼を言うのは‥‥筋違いだよな)
むしろ謝って欲しいぐらいだ。
任務が無事に達成できた彼らは良かっただろうが、こっちは散々に引っ掻き回された。結果的に良い方向に動いたが、迷惑極まりない。
皮肉な贈り物も、オン自身が持ってきたかどうかは分からないが、
(‥‥でもまあ‥‥)
――葡萄に罪はないよな。
イルカは葡萄を一粒つまみ、千切って口の中に入れた。
「カカシさん」
まだ不満顔のカカシに顔を寄せ、口移しで実を渡す。
「じゃあ、これはあなたが全部食べてください」
にっこり笑うイルカに、カカシはもごもごと咀嚼しながら「‥言われなくても」手を伸ばしてイルカを引っ張った。
「あんたはオレだけ貪ってればいいんですよ」
唇が合わさり、カカシの手が鬱陶しげに籠を押しのける。
やっぱり浴衣に着替えてゆっくりします。イチャイチャします、と断言するカカシに、イルカは笑うしかなかった。
貪ってればいいなんて、それはこっちの台詞だ。
カカシが、別の誰かの想いを口にするなんて嫌だ。それぐらいなら、奪い取って、自分の腹で消化してやる。
覆い被さるカカシの体重にほっと息を吐きながら、
あれ? と思う。
(‥‥これって‥‥もしかしてバカっぷるってやつか‥‥?)
先行きを少し、不安に思ってみたりした。
そんな、のどかな休日だった。
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