063:伝染
入口の扉の前で人の気配を感じた。
寝台にうつ伏せに倒れていたカカシは、もそと顔を扉に向ける。
(‥‥やっと帰って来たよ、あの人)
そんな事を考えながらため息をつく。安堵か諦めか分からないが、迷惑な男だと改めて思う。
イルカは、三日も帰ってこなかった。
「‥あんたね、オレのこと飢え死にさせる気?」
やっと姿を見せたイルカに、カカシはたまりにたまった不満をぶつけた。
カカシを繋ぐ鎖は長い。狭い小屋の中なら動き回れるが、繋がれた身では不自由は多い。
まず食料がない。水だけで耐えられないことはないが、体力は格段に落ちる。
次に薬。敵か味方か知らないが、イルカの作る薬の質はいい。一日飲まないだけで、回復には遅れが生じる。
治そうとしたり、放置したり、いったい何がしたいのかと半ば呆れてイルカを見上げると、相手は愁傷な顔をするどころか強いまなざしを向けてきた。
「‥あなたなんか‥‥、どうせ忘れてるくせに‥‥っ」
荒げる声。
ここまで感情を剥き出しにするイルカを見るのは初めてだ。
いなくなっていた三日間に何があったのか、目の色が違う。伝わってくる隠さない怒気に、
――だから、その被害者ぶった顔がむかつくんだって。
カカシもまた、苛立ちを感じた。
戻ってきたら、今度こそと決めていた。
生きるためだ。抗うなら容赦しない。――最悪、殺す気でもいた。
「‥‥っ」
突然動いたカカシに、イルカははっと息を飲む。
三日ぶりのイルカは隙だらけで、あっさりと押し倒せた。衝撃にイルカが持っていた袋が転がり落ちる。そのまま気を失わせようとしたが、
「‥‥、‥‥う‥‥‥っ」
まだ何もしていないのに、イルカが苦痛の声を上げた。
倒れた体から血の匂いが立ち上る。庇う仕草から腹部に傷を負っていると気づき、
「‥手負い? 誰とやりあったの」
腹に手を置くと、イルカの体がびくっと震えた。
顔を見れば、真横に引きしめられた唇がイルカの意思を見せる。つまり、また何も言わないつもりだ。あーはいはいそうですか。
「言いなさいって」
わざと腹の傷に体重をかけると、イルカが声にならない悲鳴を上げた。唇を噛みしめて声を殺し、反抗的な目が見上げるが、「この前のお返し」と言うと、途端に眉尻を下げた。
――ああ、またその顔。
まるで尻尾を下げた犬を苛めているような気分になり、カカシもまた渋面した。
どうしたもんかとイルカを見下ろしていると、「長く‥‥留守にしてすみませんでした」噛みしめられていた唇がゆるんだ。
「すぐに食事を作ります‥。薬も‥‥」
その言葉に、カカシは放り出された袋を見た。
中から転がり出ているのはフルーツや薬草の類。いや、腹は減ってるけど。
「イルカ先生。そんなことよりオレを見て」
頑なに逃げる目線を捕まえた。
躊躇いが顔中に出ている。イルカは迷っているようだったが、押さえつけられた顎に仕方なく顔を向けた。
瞳を覗きこむと――驚くほど誠実な光が見える。
今のイルカには、いつもの作った無表情が無い。
「‥ねえ、いいかげん話してよ」
できれば、酷いまねはしたくない。
これでも誠実に対応してるつもりだ。――自分でも驚くほど。
見詰め合うことに疲れたのか、イルカが静かに目を伏せた。
体温が高い。傷のせいでかなりの高熱のようだが、話すまで引くつもりはなかった。
イルカは眉を寄せ、「‥すみません‥‥。でも、俺にもわからないんです」瞼を閉じて、苦悩の色を見せる。
「‥‥もう、誰を信じていいのか、わからないんです」
吐き出されたのは、まぎれもないイルカの本音だった。
疲れきった表情に――最初からそういえばいいものを――とカカシは思った。
だから、
「じゃあ、オレを信じなよ」
即答した。
イルカはびっくりしたように目を開けて、「‥え?」と間の抜けた声を出す。
「――だから、誰も信じなくていいけど、オレは信じてよ。あんたのこと悪いようにはしないから、オレに全部話して?」
「‥‥‥‥‥」
イルカは呆気に取られていた。ぽかんと開いた口が隙だらけで、間抜けな顔だなあと思っていると、
「‥カカシ先生‥」
ふいに名を呼ばれた。
イルカの目がじっとこちらを見詰める。熱でぼんやりしていて、焦点は微妙に合っていないが、その顔がゆっくりと近付いてくる。
(――あれ? ちょっと)
あれあれ?と思っている間に――唇にやわらかい感触。
(うわ)
身を起こしたイルカが、もたれかかるようにカカシに抱きつく。
押し付けられる唇にカカシは目を見開いた。なにこれ、キス? この人、なにうっとり目ェつぶってんの?
驚いてはいたが、頭はやけに冷静だった。
まだ質問の途中だったし、なにより互いに怪我人だしそんな場合じゃないだろうとは思ったが――口づけは意外なほど心地良かった。
拙そうな印象とは違い慣れている様子だ。しかし濃厚と呼ぶものではなく、まるで縋るように何度も唇が合わさる。
イルカは首に手を回してきて、本格的に求めてきた。
どうしたもんかとカカシはまた考えた。
好んで男を抱く趣味は持っていなかったはずだが―――鳥肌も悪寒も一切出ないこの己の反応はどういうことか。
(むしろ気持ちいいし)
試しに舌をもぐりこませてみた。
イルカは唇を合わせているだけだったが、するりと入ってきたカカシの舌を抵抗もなく受け入れる。むしろ嬉しそうに絡めてくる様子に、
「‥オレ、抱かれる趣味はないけど」
至極真面目な話のつもりで言ったが、くすくすと面白そうに笑われた。
(‥笑った)
その笑顔に、腕の中の人は一変して可愛い生き物になる。
そうか。
この人を抱いてもいいのか。
そもそも怪我人だってのに、何をやってるんだか。
なりゆきだったが、いざ始まると体は飢えたようにイルカにがっついた。
服を脱がせば、腹部の傷の深さが露になる。身体に負担をかけるのはまずいと分かっていたけれど、誘ったのはそっちだしと勝手に決めた。
気を失われて置いてけぼりになって、やっと頭が冷えてくる。
血で汚れたシーツを見て、
(‥ろくな手当てしてないじゃない)
イルカの腹部の適当な応急処置に眉を顰めた。
転がっていた林檎を拾って齧り、先にイルカの手当てをしようとカカシは袋の薬を出す。
しっかり繋がったままの鎖が音を立てたが、もう気にならなかった。
(‥‥なんでこの人、何も言わないんだろうね)
寝台に横たわったイルカを見下ろして、カカシは首を傾げる。
抱いて分かった。初めてじゃない。前にもイルカを抱いたことがある。つまり、イルカとはそういう仲だったのだ。
ただ、記憶を失っている以上、イルカとの関係が本気だったかどうかは怪しいものだが。
(イルカ先生って情に深そうなのに、かわいそ)
己の浮き草のような性格を知っているカカシは、イルカに同情した。
自分のような人間と関わって、幸せになれるはずがない。
どんな経緯があったのか気になったが、それもこれも明日には話させてみせる。
(やっと本当の顔を見せてくれたもんね)
こんな鎖とは明日でおさらばだ。
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