070:ベネチアングラス









 色鮮やかな光が視界いっぱいに煌いていた。
 それは割れたガラスの欠片のようで、万華鏡のようにイルカを取囲む。
 ――ガラスの牢獄。
 イルカは立ち尽くし、必至に自分の存在を意識した。
 あまりに美しい色の洪水に、どんどん自分の影が薄くなっていく。
 飲まれてしまう。その危機感は正しい。
 これは敵の幻覚だ。




 トラップを使って確実に敵の数を減らしていたけれど、途中から景色は一変した。
 ガラスの牢獄は、敵の術中に違いない。
 実際の体はどうなっているのか。無防備な状態が何より恐ろしい。
 焦りが出るのが当然なのだが――不思議と心は安らいでいた。
 このままガラスの中に取り込まれてしまいたいと、そんな誘惑がイルカの心を蝕む。
 まるで夢の中にいるようだ。
 イルカはいつしか、敵の術にはまっていることすら忘れた。
 美しいガラスをぼんやり眺めていると、誰かの声が耳元で囁く。

 ――”はたけカカシを殺せ”と。

 言われても、すぐに誰だか分からない。
 不快に眉を顰めると、目前のガラスが透き通り、一人の男を出現させた。
 銀髪に色違いの瞳の男。
 自分を見つけて、ゆっくり歩いてくる男に、イルカはこの男がはたけカカシだと思い出した。
 そうか。
では殺さなくては。
 イルカはゆっくりクナイを取り出し、それを構えた。
 傍までやってきたカカシはこちらを見下ろし、

「イルカ先生。迎えに来たよ」

 抱きしめられ、ぽんぽんと背中を叩かれた。
 ――唖然とした。
 背に突き立てるべきクナイが、静かに地面へと落ちる。
「‥カカシ先生?」
「うん、そう。大丈夫? くらくらするでしょ。ガラス見ないでオレの目見て」
 左目ね、とカカシが紅い目を指差す。
 写輪眼の瞳。ではこの人は、間違いなくはたけカカシだ。
「‥‥なんで、ここにいるんです」
「それはオレの台詞。オレから離れるなって書いてたでしょ」
「‥記憶、戻ったんですか」
「結果オーライ。長らくお待たせしました」
 にっこり目を細めるカカシを見つめ、イルカは朦朧とする頭で言葉を探した。
 戻ってきた。
 自分の知っているカカシが戻ってきた。
 どうして記憶が戻ったのだろう。
 聞きたいことはたくさんある。なのに――言葉が何も出ない。
 見知らぬ他人のようなカカシの世話をしながら、それでも希望は捨てなかった。
 もしも記憶が戻ったら、あれをしようこれをしようと予定を立てて、冷静に対応しようと思っていたのに。
 戻ってきたカカシを前にして、この恐ろしいほどの空洞な心はなんだろう。
 疑問は、すぐに答えを用意する。
 そうだ。
 だって、自分はもう、

 ――何度も諦めたから。

「‥‥もう、会えないかと思いました」
 ため息のような声がもれた。
 吐き出した息がカカシの身体に届き、そこに鼓動を感じる。
「うん、ちょっと危なかった」
 低い声が笑いを含み、また空気を動かした。イルカは手を伸ばし、その身体を確かめる。
「‥本当に、本物ですか」
「本物ですよ。でも後でじっくり確かめ合いましょうかね」
「‥そうですね」
「聞きましたよ。撤回はナシですからね。‥‥でもねえ、イルカ先生。間に合ったからいいものを、約束破るなんて酷いよ。オレから離れるなんて。見放したも同然ですよ」
「‥‥‥」
「や、文句が先になってますけど、感謝もしてますよ? 愛ゆえだから勘弁してね。色々世話かけちゃってごめんなさい」
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥えーと‥‥、まだぼうっとしてますね。しっかりしてくださいよ、イルカ先生。あいつら片付けるの手伝ってください」
「‥‥‥あ‥‥‥」
「術はもう平気。コピーしてるから、オレが全部ぶっこわします」
「‥‥‥‥‥」
 ぼんやり彷徨っていたイルカの瞳に、徐々に力が戻り始めた。
 眼にはっきりとカカシが映り、それが現実だと鮮明に理解する。
「カカシ先生?」
 今度こそはっきりした驚愕をこめて訊ねると、カカシは眉を下げて苦笑した。
 帰って来た。
 ――戻ってきた‥‥!!
 イルカの強烈な思考に、二人を取囲んでいたガラスの牢が砕け散った。
 音もなく、きらきらと消えていくガラスの眩しさに、イルカは目を細める。
「平気? イルカ先生」
 穏やかなカカシの声に、喉が震えた。
 目を覆い、
「今は、優しい言葉をかけないで下さい」
 必死に虚勢を張った。
 でないと、自分は倒れてしまう。
 安堵のあまり、みっともなく泣き崩れてしまうかもしれない。
 カカシは何も言わなかった。
 目の端から滲んだ涙を拭い、イルカは息を整える。
 手伝えと言った。
 この人が自分を頼りにしてくれているなら――全力で応えよう。
「行きましょう」
 仰いだ眼差しは、もう微塵も迷いを抱いていなかった。

 生き残って、帰るのだ。
 一緒に。










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