073:煙
薄暗い空が白く滲んでいた。
なんだろうと注意して見ると、それは煙だった。
どこから昇っているのか分からない。不思議な煙だ。
だがそんなことよりも、今現在自分のいる場所が一番不可解だ。
(‥これは、あれか。三途の川ってやつか?)
カカシは目の前に広がる波のない川を見た。
自分の立つ岸辺は砂利に覆われ、淡く光を放っている。照らされる川は表面だけは明るいが、すぐに闇色に変わる。小魚も何も見えない、死んだような川だ。
縁起が悪い。
あの世と言われても頷ける奇妙な場所になぜ自分がいるのかカカシにはわからなかった。気がついたらここにいた。
足の下の砂利の感触。鮮明に伝わってくるが、微妙に鈍い気もする。
さてどうしたものかと、カカシは岸辺を歩き出した。
岸も川も延々と続き、薄暗い天井の煙は時折赤く染まる。
嫌なところだと改めて思っていると、目の端に人影が映った。
人間だ。
(――しかも、お仲間さん)
初めて見つけた人間は同年代の男だった。年のころなら二十歳ぐらいか。
忍者の服装に、額宛は――木の葉の印。
黒髪を高く結った男は、ぼーっと川を見詰めて突っ立っていた。
「あ〜もしもし」
カカシは何の躊躇もなく声をかけた。呼びかけに、男ははっとこちらを振り向く。
真横に走る鼻筋の傷が印象的だが、見た目は普通の青年だった。温和そうな黒い目に、カカシはひょこひょこと近付いた。
男はびっくりした目でカカシを見ていたが、
「‥こんばんは」
口元を緩めて笑った。その笑顔に、
(おやまあ、かわいい)
ずいぶん優しく笑う男だ。近くで見ると自分より少し小柄だ。年下かも知れないが、なんにせよ、こんな陰気臭い場所には似合わない。
「なにしてんの?」
ここは何処かと訊こうと思ったのに、この男の存在があまりに不自然なのでつい言った。
男はぱちくりと瞬きし、首を傾げ、
「さあ。‥実は俺も困ってまして。ここは何処なんでしょう」
先に言われた。
カカシは思わず落胆のため息をつく。まあ予想はしていたが。
「‥けっこう歩いたんですが、何処まで行っても同じです。疲れたんで休憩してました」
男はそう言って、ぺたんと岸辺に腰を下ろした。
のん気な、とは思ったが、男の言うとおりなら歩いても無駄だ。倣って隣に座る。
しばらく二人で何もない川を眺めていたが、
「‥‥あの‥‥」
男がふとこちらを見た。
「‥そのお召し物。もしかして‥暗部に所属する方ですか?」
「うん、まあ」
カカシは全身黒ずくめだった。面こそは身につけていないが、自分でもどうしてこんな格好をしているか分からない。移動の時は普通の忍服なのに。なぜわざわざ戦闘用の服なのか。
「服の型からして‥木の葉?」
「正解。もうずいぶん長く帰ってないけどね。木の葉は変わりない?」
暗部に所属してから外回りの任務が多い。今回もまた、ある森に長期の任務で訪れていた。
「木の葉は穏やかです。小さなことでは揺らぎません。あなたのように遠くで頑張っている人がいるおかげです」
「‥そう?」
率直な言葉に、カカシはちょっと戸惑った。
頑張ってるなんて言われたのは、今までの人生を振り返っても数えるほどだ。
「‥‥あんた、名前は? 木の葉のどこに所属してんの?」
「俺はうみのイルカといいます。‥‥アカデミーで、教職を」
「へー、先生なの」
少し間があったのが気になったが、カカシは殊更大袈裟に反応した。アカデミーや先生、というものには、忍であれば誰もが馴染みある。
「は〜い、イルカ先生。ここは何処ですかー? あの世ですかー?」
手を上げて子供のように質問すると、イルカは苦笑いを浮かべた。
「‥そうですね。――どう見ても、三途の川ですよね」
彼もまたそう思っていたらしい。ため息交じりに返答し、
「でも、まだ川を渡ったわけではないですし。平気ですよ」
「すでに渡った後かもよ?」
「――あ、それは考えなかったです」
イルカは笑って言った。
その自然体は素なのか。
最近接触しないタイプの人間だとカカシは思った。
(まったりして悪くないねぇ)
いつも気が抜けず、極力人との接触を避けてきたが、意外な発見だ。
こういう人間もいるのか。
「‥でも困りましたね」
「へ?」
「‥‥まだやり残した事があるのに、俺‥本当に死んでしまったんでしょうか」
「‥‥‥」
からかおうかと思ったが、イルカがあまりに真剣に呟くので何も言えなくなった。
ここが何処か自分もはっきり分からないのだが、
「――夢じゃないの、きっと」
「‥夢? そうでしょうか」
「うん、平気平気。そのうち目が覚めるって」
カカシは自信を持って答えた。
そうすれば、イルカも安心するだろうと思って。
「‥‥‥そうですね‥‥」
イルカは目を伏せて呟き、カカシを見て笑った。
「――では、もう起きましょうか」
まるで、その言葉を合図にするかのように空気が揺れた。
風ひとつ無かった空間にあたたかい風が舞い込む。
「‥あれ? ‥なんだか、あたたかい‥‥」
イルカが訝しげに空を見上げ、カカシも「ほんとだ」と言った――その瞬間。
どこかで鳥が鳴いた。
(嫌な声)
同意を得ようとイルカを見たが、そこにはもう彼の姿はなかった。
びっくりして閉じた瞬きが、異様に重い。
体も鉛のように沈み、
逆らえなかったカカシは、引っ張られるように瞼を閉じた。
次に瞼を開けると――いつもの朝が訪れていた。
澄んだ早朝の空気。葉の間から差し込む陽光がカカシを照らしていた。
背を預けていた樹木から離れ、
(変な夢)
カカシは頭を掻いた。
――変な夢だ。
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