084:鼻緒
「や、イルカ先生」
「‥‥こんばんは」
手を上げて挨拶するカカシに、先に来ていたイルカは沈んだ声で返答した。
今日は両手あるよ、とふざけて両腕をぷらぷらさせると、やっと口元がほころびる。しかし、どうも塞ぎ込んでいる様子だ。
いつも通り川を前にして隣に座るが、会話がない。いつもなら心地良い静けさだが、今日は掴み所が無く落ちつかない。いっそ訊ねてみればいいと思うが、イルカは秘密が多かった。下手につついて警戒されるのは嫌だし、どうしようかと脇腹を擦る。すると、イルカが急に身を乗り出した。
「どうしたんですか? 痛いんですか?」
カカシの脇腹を覗きこみ、緊張した声で問う。
「いや、ちょっと痒いだけ。怪我はしてるけど今は痛くないよ」
「負傷されたんですか‥」
「まあね、暗部のくせにみっともない話。誰にも言わないでね」
からっと笑って言ったが、イルカの顔は晴れなかった。
変わらない固い表情に(落胆されたかな)とカカシは思う。ツキに見放されているが今回の戦いは我ながら無様だ。何も言わないが、仲間の落胆ぶりは嫌と言うほど伝わっていた。
写輪眼のカカシ。期待していた戦力なのに。
そんなため息が聞こえるたびに、うるさいよと苛立つ。
「――悪かったね。ご期待にそえなくて」
つい、言葉に出た。
イルカがはっとした顔をする。まずい、この人は関係ないのに。
カカシはすぐに弁解の言葉を探したが、
「‥あ‥‥」
口を開けて絶句する。
「‥‥なんで泣いてんの?」
「す、すみません‥っ」
イルカは急いで顔を隠した。しかしカカシは見た。瞳から浮き出た涙が、すぅと音もなく頬に落ちる様子を。顔をそむけるイルカは袖で涙を拭いているが、その足元にころころと透明な玉が転がる。カカシは手を伸ばしてそれを摘んだ。固く澄んだ玉は、もしやイルカの涙だろうか。どうして固まるのか疑問だが、カカシはそれを胸元のポケットへ入れた。
イルカがなぜ泣き出したのか。カカシには皆目検討もつかないが、この男が優しいからだというのは分かった。それに触れられただけで、カカシはもやもやした気分が薄れていく。
もう少し拾っておこうかと砂利を見ると、
「――お」
今まさに、涙の玉を拾おうとしていた小さな手がぴたりと止まる。
そのまま視線を上げると、五、六歳ぐらいの男子が大きな目でカカシを見ていた。
イルカ以外に初めて見た人間だが、その頭には小さな角があった。まさか子鬼というやつか。
物珍しさにじっと見ていると、子鬼はカカシを警戒しながら再び玉を拾おうとした。カカシはふと悪戯心が生まれ、
「があ!」
両手を振り上げて脅かしてやった。
子鬼はびくっと体を揺らし、あわてて逃げ出す。同時に、泣き止むのに必死になっていたイルカも顔を上げた。
「え? え?」
走って逃げる子鬼の姿に、イルカは目をぱちくりさせた。
子鬼は途中でぴたりと止まり、こちらを振り返る。未練がましいような顔をしていたが、
「があ!」
再びカカシが大声で驚かせた。
「ちょ‥」
びっくりして逃げる子鬼に、イルカは目を剥いてカカシを見た。
「なに脅かしてるんですかっ。相手は子供ですよ!」
「だって〜、オレの盗もうとしたんだもん」
「は‥?」
イルカは怪訝な顔をする。――と、子鬼が砂利に足を取られて派手にこける。
「ああ、ほら見なさいっ」
イルカは急いで立ち上がり、子鬼の所へ駆け寄った。
うずまくまっていた子鬼はイルカの姿にぎょっと目を見開くが、逃げようとして再び転んだ。
「ちょっと待って」
しくしくと顔を覆う子鬼の傍にかがみ、イルカはその足を掴んだ。
「草履の鼻緒が切れてる。これで走ったらまたこけるぞ」
砂利道には尖った石もある。履物が無ければ辛いだろう。
紐が無いか着ている忍服を探ってみたが適当なものがない。仕方がないので髪結いの紐を解き、手際よく切れた鼻緒の部分を繋げた。
「さあ、これでいいぞ」
ぽんぽんと子鬼の頭を叩くと、角が掌に当たる。子鬼は上目遣いでイルカを見て、にっこり笑った。
元気よく走っていく後姿を見つめていると、隣にカカシがやってくる。
「さすが先生、子供の扱いが上手いね〜。しかし、ほんとにわけの分からない世界になってきたなぁ。もしかしてもう地獄?」
「‥‥カカシさん、そのことですが」
イルカは立ち上がり、カカシと向き合った。
「この世界は、名無し鳥の夢の中だと思います」
「へ? 名無し鳥って、あの縁起の悪い生き物?」
「鳥の声を聞きませんか。眠る時、目覚める時に」
「‥‥‥‥」
「人の魂を餌とする名無し鳥は、どうも俺たちを餌にする気です。こうして自分の見る夢に引きずり込んで、現実世界から切り離すつもりなんでしょう」
「‥‥どーりで最近ツイてないと思った」
カカシはあーあとため息をついた。思い当たる事はいくつもある。イルカの話は間違いないだろう。だが――どうして自分なのだ。
「死は平等‥か」
己を過信している部分があったことをカカシは認めた。
話すべきだと思っていたが、カカシの疲れた横顔に後悔が生まれる。
あやかし退治の経験はない。なんとか出来るなら追い払いたいけれど、まずは名無し鳥の夢にのみこまれないよう気持ちをしっかり持つことが大事だと思った。
”――悪かったね。ご期待にそえなくて”
さっきのカカシの言葉が耳に残る。
半分ではカカシの無事を祈りながら、半分では期待し、利用した。
内心の罪悪感を見抜かれたようで、辛くなって泣いてしまった。しかも自分のために泣いたのだ。――いったいどこまで醜いのか。
イルカはすぐ傍にあるカカシの手を握った。
「‥‥ん?」
問いかける目を俯いて避け、握る手に力を込める。
――カカシに全部話したい。
本当はもう忍びじゃなく、先生でもなく、麝香獣の黒幕を追って里を出てきたのだと。
自分の持っている情報はきっとカカシにとって有利になる。
話したい――でも、言えない。
この件に関しては、どうしても自分で決着をつけたい。つけなくてはいけないし、
追い詰められて足掻くみっともない自分を、この人には知られたくない。
抜け忍と分かれば、カカシはどうするだろうか。
利用していると分かったら。
「――‥、‥」
視界が翳り、ふにと唇が押し付けられた。
油断した。
尚食いつこうとする唇に跳ね除けようとしたが、
――抵抗するだけの理由がイルカには無かった。
ぬくもりが嬉しい。だから自分もカカシの唇を味わった。
「‥ん‥‥、‥‥」
下ろした髪をまさぐられ、イルカが抵抗しないと分かると覆い被さるカカシの口づけがみるみる濃厚になる。生き物と化した舌が入り込んできた時は心臓が跳ね上がったが、ぞわぞわとした感覚にじんわりと汗が出た。
「カカシさん‥‥っ」
「――やだ。止めないでよ」
不満気なカカシに、イルカは苦笑を浮かべた。
「駄目です。こんなあの世に近い場所で淫猥な真似はできません」
やんわり押しのけると、カカシはがっくり肩を落としながらも引いてくれた。誘ったつもりはないが、一応イルカもそんな空気を出した。ごめんなさい、と謝りながら、自分が不快に思わないことを不思議に思う。
――教え子に対しては、あれほど手酷くはねのけたというのに。
それから、二人で川を前にして座り込んだ。
肩を寄せて、目が覚めるまでの時間を惜しむように。
会おうと約束を交わした。
夢の中じゃなく、現実の世界で。
断るべきだったけれど、イルカにはその勇気がなかった。
自分もまた、会いたかったから。
○ BACK ○
2004.04.03
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