094:釦
重くまとわりつく闇。目を開けると、音もなく存在する川があった。
もう二度と見るつもりのなかった夢。いや、今度は夢じゃなく本当に来てしまったのもかも知れない。
爆発の衝撃がまざまざと思い出される。体が引き千切れるかと思ったが、少なくとも外傷は見当たらない。イルカは自分の体を見下ろし、ぼんやり霞む頭を振った。
意識がはっきりしてくると、カカシが川の傍に立っているのが見えた。
カカシもこちらに気づき、ふっと笑う。ひらひらと手招きされ、急いで駆け寄った。
「また来ちゃったね。あの鳥もしつこいなぁ」
「‥今回は危ない気がします。早く目覚めましょう」
「同感。悠長に寝てる暇なんかないもんね。――あのガキに鉄槌をくらわせないと」
「‥‥フヨウ」
はっと少年の事を思い出したイルカは、カカシをすがるように見た。
「‥大丈夫ですよ、少なくとも死ぬほどの傷は負ってない」
わずかな沈黙の後、カカシは穏やかな声で説明した。
その沈黙の意味にも気づかず、イルカはほっと安堵の息をつく。
――では、とにかく戻らなくては。
どうやって目覚めようかと考え込むと、カカシが身じろぎした。
「イルカ先生、あれ」
川の先を指差す。何事かと視線を転ずると、遠くに見える一艘の舟。
枯れ葉のように見えた小舟は、誰も乗っていないのにゆっくりとこちらへ近付いてくる。
イルカは、言い知れぬ不安に駆られた。
川の向こう側からやってくる舟に、初めてこの場所に恐怖を抱く。
頭では分かっていたが、今、全身で思い知った。ここは、人間の来ていい場所ではない。
近付いてはいけない。あれはきっと――迎えの舟だ。
「カカシさん‥っ」
逃げようとカカシの腕をつかんだ。が、
「‥‥‥?」
イルカはきょとん、と自分の手を見た。
つかんだはずなのに。
困惑し、もう一度カカシの腕に手を伸ばしたが、その手がすいっと、通り過ぎた。
「‥え?」
もう一度。
しかし、カカシの手は実体がなく、通り過ぎてしまう。まるで――幻のように。
「‥‥‥」
イルカは視線を上げ、問うようにカカシを見た。
カカシもまた、自分の手を見て困惑していたが、「あれ?」と首を傾げて苦笑する。
口が閉じられない。イルカは呆けた顔で、触れられない相手を見詰めた。
「‥‥ん、なんかね。さっきから舟が呼んでるなぁとは思ってたんだけど」
カカシは頭を掻き、
「ごめん。オレ、どうも死んじゃったみたい」
あっさりと言った。
イルカはすぐに言葉を発せられなかった。話す術を忘れたように口を蠢かせ、どんどん近付いてくる舟を視界の端で見る。
舟が呼んでる?
そんなもの、自分には聞こえない。
死んだ? 誰が?
「でも‥、でも‥‥俺は‥‥」
自分はどうなのだと思った。けれど、すぐに思い出す。爆発の時、抱きかかえてくれたカカシの腕の強さを。
この人は、すべて受け止めてくれたというのか。
「でも‥‥っ」
後悔が押し寄せる。
全部、全部自分が招いたことだ。自分と関わらなければ、カカシはこんな目に遭わなかった。そして、元を正せば、フヨウの人生を狂わせたのも己の偽善だ。
自分の甘さのせいで――。
「カカシさん‥っ、川から‥離れてください! 俺が‥俺が行きます‥っ」
必死に呼びかけた。けれど、カカシは彼方の舟を見たまま、どこかぼんやりしている。
「―――‥っ」
突然、鳥の声が高く響く。
天井を見上げたイルカは、闇から一羽の鳥が舞い降りる様を見た。妖しく輝く紫の目が、遠くからでもはっきりと見える。――名無し鳥だ。
舞い降りた死神を乗せて、舟に刻々と近付いてくる。
「カカシさん‥っ、逃げてください‥! カカシさん‥っ」
イルカは必死に声を張り上げたが、カカシは舟を見詰めたまま動かない。これほど傍にいるのに声が届かないのか。――しかもそればかりか、
「‥駄目だ‥っ、まだ‥っ」
馴染みのある感覚に、イルカは悲鳴を上げた。
目覚める。
体が、名無しの夢から覚めようとしていた。
イルカは急激に霞んでいく頭を押さえる。現実に戻るわけにはいかない。カカシを置いて、いけるはずがない。だが、カカシはゆっくりと川の中へ歩き出した。
「カカシさん‥っ」
慌てて後を追おうとしたが、何故か足が進まない。何かが邪魔をして、イルカは川の中へ一歩も入れなかった。
「駄目です、カカシさん‥! 行ってはいけない‥っ」
行かないでくれ、とイルカは何度も呼びかけた。
叫ぶたびに意識が浮上する。
闇からの覚醒は抗いようが無く、イルカはいつしか眩い光に包まれていた。
痛みで目が覚めた。
意識は混濁していたが、すぐに跳ね起きる。
整えられた和室に、イルカは横たわっていた。全身に巻かれた包帯に、助けられたことを知る。傍にいた医師が動いてはいけないと注意するが、
「ここは‥っ、他の者は‥っ」
「大丈夫ですよ、ここは琵琶花の療養所です。フヨウ様があなたを運んでこられたのです」
「違う‥っ」
訊きたいのは、フヨウのことではない。
イルカは感情に突き動かされるまま、医師の胸倉を掴んだ。
「銀髪の‥っ、忍びの姿をした彼は‥‥っ」
「‥生きておられたのは、あなたとフヨウ様。それとお付の護衛忍ふたりのみです」
医師の口から、カカシの名は出なかった。
――信じられない。
医師の体を押しのけ、イルカは療養所を飛び出した。
全身の傷が痛む。裸足で、開いた傷口から血が滲むが、全速力であの場所へ向かった。
巨大な爆発の跡は、すぐに見つかった。
カカシと過ごした小屋は跡形もなく、森の木々も根元からなぎ倒されている。
「‥‥カカシさん‥‥っ」
名を呼び、イルカは抉られた地面に手をついた。
川の向こうからやってきた舟など、ただの夢だ。
カカシが死ぬはずなどない。自分よりずっと強く、賢い人だ。どこかに隠れているに違いない。だから、あんな夢はただの夢に違いないのだ‥!
「‥‥‥」
イルカの視界の隅に、焼けた釦が映った。
見覚えがある。――カカシの服の、釦。
握りしめて、イルカは泣いた。
嘘だ。信じない。
――でも、
イルカは森に向かって叫んでいた。
「返せ、カカシさんを‥‥返せ!!」
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2004.05.10