095:ビートルズ









 ――なに、その歌は。

 どこからか聴こえてくる幼稚な歌に、カカシはふと目を開けた。せっかく気持ちよくまどろんでいたのに、歌は覚醒を促すように耳に張りついて離れない。
(あれ? でもオレなんで寝てるんだっけ)
 ぼんやりしながら考える。
 横たわった体がゆったりと揺れていた。腕に当たる感触は木だ。これは舟だ。川の向こうからやってきた黄泉へ渡る舟。いつの間に乗ったのか。
(この歌なんだったけなぁ)
 カカシの思考は、いつしかずれていた。
 幼稚な歌には聞き覚えがある。昔流行った歌だったか。
 思い出そうとすると、意識が次第にはっきりしてくるのが分かる。いい具合だ。体の感覚も戻ってくるが、邪魔をするように舟の先端にいる名無し鳥が鳴いた。
 歌が途切れ、カカシは再び舟底へ沈み込む。体が重い。動くのが億劫だ。
(ああ、もういいや。――‥えーと、何がいいんだ?)
 記憶がとけるように消えていく。
 このまま眠ってしまおう。舟の上は気持ちがいい。
 再び目を瞑ったカカシだったが――また歌が。
(うるさいなあ)
 眠りから引き戻そうとする歌に、カカシは苛々しながら身じろぎした。
 力を入れると、上体を起こすことができた。顔を覗かせると、視界一面に真っ黒な川が広がる。一瞬ぞくりとした。黄泉の舟に乗っている自分に、改めて気づく。
(やばい。オレ、死んだんだ)
 記憶がいくつか消えていた。視線を惑わせると、淡く光る岸辺が映る。誰かを思い出しかけた。けれど、誰であったか分からない。――この優しげな顔をした男は、いったい誰なのか。
「‥‥‥?」
 歌っていた人物を見つけた。
 人と呼んでいいものか。岸辺に立っていたのは子鬼だった。
(思い出した)
 あれは、イルカが鼻緒を直してやった子鬼。
 ――イルカ‥っ。
 頭の霧が一気に晴れた。舟の端を掴んで身を乗り出すと、子鬼が歌を止める。
 大きな目をした子鬼は、じっと舟を見つめていたが、ふいに、小さな手で頭の角をぽきりと折った。
 大きくふりかぶった腕が、鬼の角を舟に向かって投げる。角は、キンッと空気を切ってカカシの後方に――名無し鳥へと命中した。
 名無し鳥の悲鳴が闇の中に木霊する。ぐらりと揺れた体は、音もなく川の中へ落下した。
「‥‥‥っ」
 呪縛が解けたように、カカシの体がふっと軽くなった。
 岸辺の子鬼が手招きをする。泳げ、と身振りをしていた。
 カカシは迷わず舟から飛び降りた。
 川の水は、人間の体温のように生暖かい。全身を舐められているようで震えが走った。それどころか、幾つもの手が川の底から現れて、カカシを底へ引きずり込もうとする。
(冗談じゃない。――冗談じゃないよ)
 カカシは歯を食いしばり、無我夢中でもがいた。
 死んでたまるものか‥!
 重くまとわりつく川をかき、カカシは死に物狂いで泳ぐ。
 方角なんて分からない。ただ生きたいと願って泳ぎ続けると、いつの間にか輝く岸辺が目の前に見えた。伸ばした手が砂利をつかむと、やっと息ができる。
「は‥っ、‥‥は‥‥‥」
 全身で呼吸を繰り返した。ここまで必死になったのは久しぶりだ。
 仰向けに倒れこむと、子鬼がおそるおそる覗き込んでくる。
「‥あり‥、がと‥‥」
 切れ切れに礼を言うと、子鬼がぱっと頭を隠した。恥かしがっているのか、もじもじと体を揺らしている。
 鬼の角を撃たれた名無し鳥はどうなっただろうか。あのまま川の底に沈んでくれればいいが。
「‥‥それ、‥また生えてくる‥?」
 子鬼の頭を指差して問うと、こくんと深く頷いた。
 カカシは笑い、胸の内ポケットから小さな透明な玉を取り出した。
 以前、イルカが落とした涙の結晶。子鬼にやるまいと欲張って手に入れたものだ。
「‥あげる」
 カカシが結晶を差し出すと、子鬼はぱぁっと顔を輝かせた。
 きらきらした目で受け取った結晶を眺め、にっこりと微笑む。
 大事そうに抱え、ぱたぱたと走り去る後姿を眺めていたら、不覚にも涙が出そうになった。
(助けられた)
 子鬼に。
 ――イルカ先生に。
 あの人に言ってやらないと。
 あんたの優しさは無敵だって。


 さあ目覚めよう。










○ BACK ○
2004.05.11

inserted by FC2 system