096:溺れる魚
ずいぶん長く放心していたイルカは、近付いてくる気配に気づいた。
誰であるか確かめる必要はない。ずっと追ってきた、少年の気配。
するりと伸びた手が、イルカの首に巻きつく。
「可哀想な先生。あの男が好きだったの?」
囁く声に、イルカは歯を食いしばって耐えた。でなければ、フヨウを殴ってしまいそうだ。
この怒りは筋が違う。やつ当たりであり、本当に殴りつけたい相手は自分自身だった。
「ぼくを追いかけて、たくさん辛い目にあったんだね。ごめんなさい。でも、どうしてもぼくは、イルカ先生が欲しかったんだ」
「‥やめろ、フヨウ。‥お前は、俺と里へ戻るんだ」
「戻らないよ。ここで死ぬ」
イルカは息をのんだ。はりつく手が、凍るように冷たい。
「イルカ先生、ぼくと一緒に死んで。先生と一緒なら、ぼくは大人しく死んであげるよ。―――先生だって、分かって来たはずだ」
「‥‥フヨウ」
その通りだった。だが、途中からイルカの考えは変わった。名無し鳥に魅入られ、三途の川でカカシと出会って、自分が、本当はずっと生きていたいと思っていたことを知った。
もう、何もせずに死を受け入れることはできない。
手の中の釦を強く握ると、ぼろぼろと崩れて壊れた。カカシを想い、イルカは唇を噛み締める。
「俺は死なない。お前の罪を半分背負って生きていく。フヨウ、お前にもそうして生きていてほしい」
しっかりした声で伝えると、巻かれていた腕がすっと離れた。
振り返ると、フヨウはなんともいえない顔でイルカを見つめていた。その瞳の中に、迷いと呆れが揺れ動いている。
「それって、ぼくとずっと、一緒にいてくれるってこと?」
「そうだ」
イルカは迷いなく答えた。
「俺の偽善が、お前の人生を狂わせた。俺は一生をかけて償う」
すっとフヨウが眉を寄せた。目を伏せて、渇いた赤い唇を舐める。
「イルカ先生は‥‥本当に変わらないね。ぼくを追っている間に、少しぐらい歪んでくれれば、ぼくは何の呵責も抱かなかったのに。まっすぐすぎて、恨めしい。‥‥本当に、馬鹿正直すぎて、泣けてくるよ」
泣いているかと思った。声は細く、フヨウは寂しい目を、イルカへ向けた。
「偽善なんて、言わないで。――ぼくが、どれだけ救われたか知らないくせに」
泣き笑いを浮かべ、フヨウは光るクナイを取り出した。
「できれば、イルカ先生の願いをかなえてあげたいけど、ぼく自身がもう、生きることに飽き飽きしてるんだ。先生に拒まれたことは、単なるきっかけに過ぎなかった。‥‥でも、一緒にいたいのは本当だ。‥‥だから」
クナイの先端を向けられ、イルカは悲痛な顔を浮かべた。
フヨウは心を閉じていた。何も受け入れまいと頑なに。
深い脱力感が、イルカを襲う。疲れていた。ここまで闇雲に駆けてきて、最後に生きる望みを見出したけれど、それを教えてくれた人はもういない。イルカのかわりに、死神に浚われてしまった。
このまま死んだら、名無し鳥が自分の魂をさらうだろう。
(そうしたら、またカカシさんに逢えるだろうか)
それは甘い誘惑に思えた。フヨウと一緒に死んで、あの川へ行こうか。
じんわり指先が冷えてくる。暗い思考はイルカを包み、死への恐怖を鈍らせていった。
近付いてくるフヨウの足をぼんやり見ていたが――ふと、その歩みが止まった。
フヨウの目が驚愕に見開き、イルカの後ろを凝視する。
イルカも気配に気づいた。振り返る前に、ぎゅっと強く抱き寄せられる。
フヨウよりもずっと大きくて固い、あたたかいその腕は、
「お前にはやらないよ」
ざらりとした低い声が、笑いを含んで言った。
ぽたぽたと落ちる水に、イルカはすべてを悟る。彼から香る水の匂いは、あの流れない川と同じ。
戻ってきた。――帰ってきた。
「カカシさん‥‥っ」
腕に縋りつき、イルカは歓喜の声を上げた。
消えかけていた命の火が、燃え上がるように熱くなっていった。
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2004.05.17