097:アスファルト









 水が欲しかった。
 これまで歩んできた道は、まるでカラカラに乾いたアスファルトだった。
 特異能力を持っていた母は、不当な扱いを受けていた。里の人間たちは、フヨウの容姿と才能に目をつけて女の真似をさせ、さんざん汚い仕事を押し付けてきた。ずっとフヨウを守ってきた母は決意した。里を抜けて、能力者を疎まない木の葉の里へ逃げようと。
 母は逃亡の最中、体を壊して、長く生きることはなかった。
 フヨウは母の特異能力は受け継がなかったが、かわりに忍びの才能を得た。
 木の葉の里は住みやすかった。今まで生きてきた場所に比べれば天と地の差だが、それでも差別は存在した。面と向かって罵る真似はしない。木の葉の里では、忌まわしい者の存在は無視するのだ。
 だが、それでもフヨウは良かった。誰も自分と関わらなくていい。一人の方がずっといい。
 子供の時から、達観して自分の人生を見てきたが、ある日それは一変した。
 母の慰霊碑の前で、何も考えずにぼうっとしていたら涙が出てきた。泣く、という行為を、ずっと忘れていたので、それはまったく意識していなかったけれど、イルカが抱きしめてくれたのだ。
 偽善だと、思った。
 一時的な優しさなど、自分には無意味で、残酷だと、イルカを恨んだ時もある。
 けれど、フヨウはたった一回抱きしめられたあのあたたかさを、忘れられなくなってしまった。
 言いがかりだと自覚している。そこまで馬鹿じゃない。もうイルカと関わってはいけないと思ったけれど、もう一度抱きしめられたくて、わざと泣いてみせたこともある。
 偽善なんて言葉は、周りが決めることだ。
 イルカはただ、本当に優しいだけ。
 カラカラに渇いたアスファルトの道で、出会った大事な水。
 欲しい。殺してでも欲しい。
 自分だって、もう後には引けないのだ。――それなのに、死んだはずの男が帰ってきた。
 生きているはずはない。だが、そこにいる。
 この男は、黄泉の世界から戻ってきたのだ。
 イルカのために。
(‥悔しい‥‥)
 フヨウは歯噛みした。
 銀髪の男が憎かった。この男は、自分にできなかったことを成し遂げるに違いない。
 男の腕を抱きしめて、その口元に穏やかな笑みを浮かべるイルカ。
(ぼくだって本当は、笑顔でいてほしかった)
 イルカが笑ってくれただけで、心があったかくなったのだ。泣きたいほど。 
(ああもう)
 ――潮時だ。




 じゃり、と土を踏む音に、はっとイルカが顔を上げた。
 フヨウから、押し迫る空気が消えている。どこか諦めた虚脱感に、イルカは一歩踏み出そうとしたが、フヨウは皮肉な笑いを浮かべ、
「もういいよ、先生。――それだけしつこい男がいるんじゃ、連れて行けない。諦めてあげる。里へお戻りよ。でも、ぼくの首は諦めて。誰かに弄られるのは嫌だ」
 里の忍びの遺体は、処理班の手によって葬られる。里を抜けたフヨウは、とくに洗いざらい調べられるに違いない。
「心配しなくても、ちゃんと死ぬよ。後腐れなく。‥麝香獣のことが知りたければ、ぼくが使ってた情報屋を探すといい」
 後半の言葉は、カカシに向かって話し掛けられていた。
「フヨウ‥っ。駄目だ。俺と一緒に里へ‥‥っ」
「最後ぐらいかっこつけさせてよ、先生。‥馬鹿なことでも、これがぼくなんだ」
 まだ、喉は乾いている。
 でも、あの時にこぼしてくれた涙だけできっと十分。

「――さようなら、イルカ先生」

 さっと自分たちの前から消えたフヨウに、イルカは急いで後を追おうとしたが、カカシの手が阻んだ。
「追わないで。――あいつは、誰にも救いを求めていない」
「なぜ分かるんです‥っ」
「似た者同士だから。それ以上追い詰めるのは酷だ。死なせてやりなよ」
「‥‥違う、‥‥違う!!」
 イルカは激しく叫んだ。カカシの腕を掴み、
「それでも、死ぬのは違う。‥俺は、怒ってるんですよ、カカシさん。死ぬことは、逃げることだ。諦めることだ。本当にひとりぼっちになることなんです‥っ。フヨウには、まだ未来がある。償わなくてはならない罪もあるけれど、あの子に、もっと色んな未来を見て欲しい。ひとりじゃないことを、いつか知って欲しいんです‥っ」
 一気に訴えたイルカは、肩で息をして、カカシの目を見つめた。
「行かせて下さい」
 カカシは、何も答えられずに、ただその真摯な眼差しを受け止めた。
 行かせたくない。いっそ気絶させてしまおうか。
 しかし、目覚めたらまた、フヨウの後を追うだろう。
 今は、イルカを止める術を知らない。
「‥あんたに話したいことが山ほどあるんです。これからあんたと一緒に生きていきたいとか、‥‥あんたの優しさは無敵だとか」
 そこまで言って、長いため息をついた。
 思い出したのは三途の川での出来事。イルカの優しさは危うい。けれど、それは間違いではない。フヨウの件に関しては、カカシが判断することはできないが、それでも、イルカはもう死ぬことは選ばないだろう。
「‥‥きっと、また会うと約束する?」
「します」
 即答だった。カカシは笑いを噛み殺す。
「いいよ、行ってらっしゃい。あーあ、旦那を見送る妻の気分ってこんなんかね」
 カカシの冗談に、イルカも口元をほころばせた。
 どちらからか寄り添って、強く抱きしめ合う。カカシは、離したくないと願う腕をむりやり外し、イルカを逃がした。
「先にあの川を渡ったら、承知しないよ」
 呼びかけると、イルカが振り向いて、強くうなずいた。

 その笑顔を忘れまい。
 カカシは強く、脳裏に焼き付けた。









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2004.05.17

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