□ 帰ってきた男
殺される。
逃げなければ。
歩きなれた帰り道を、イルカは全力疾走した。
汗が吹き出る。
震えがさっきから止まらない。
インチキだ!
死んだはずではなかったのか!
あの人の死を聞いて、一週間泣き明かした。
残された遺品を見て、更に一ヶ月ぐずぐずと泣き続けた。
完全に立ち直るまで半年。
忘れるのに更に半年。
一年かけて今の生活を取り戻したのに――いまさらどうして生きて帰ってくる!
(殺される‥‥絶対に殺される)
言い訳をさせて欲しい。
独りでいられなかったのだ。
一生愛すると誓った人が突然死んで、残された自分は見てのとおり感情的な人間で、ぽっかり空いた胸の隙間を、誰かに早急に埋めてもらう必要があった。
女は抱けない。
そういう身体にあの人がしたから。
だから二番目に愛した人も男。忍びの世界とは何の関係もない管理職で、任務で死んだりしない人。
あの人のことを思い出して泣いていると、優しく慰めてくれる尊い人なのに、彼もきっと殺される。
言い訳はいくらでもある。でも、あの男にはきっと通用しない。
(追ってきた――)
聞こえない足音。息も感じないが、イルカには分かった。
皮肉なほど晴れ渡った空が憎い。
こんなに死にそうなのに。
「――‥‥っ」
がっと腕をつかまれ、バランスを崩したイルカは土手を転げ落ちた。
つかんだ相手も一緒に、雑草の坂を落ちていく。
土の匂いがした。そして、
肺を激しく動かすたびに香る、カカシの匂い。
恐かった。
生前、いやこれは正しくないが、ずっと前から言われていた。
自分以外の人間を愛したら殺すと。
カカシが死んだと思って、他の人間を愛した自分をカカシがけして許すはずがない。
恐かった。
――さっきまでは。
イルカの視線はゆっくりと移動した。
自分を押さえつける指から腕へ。汚れた忍服から覆面へ。
斜めの額宛の横で見下ろす――青い目に。
あとは、
涙で見えなくなった。
「カカシさん‥‥っ、‥‥」
無我夢中で抱きついた。絞め殺してもいいぐらい、腕の中の人を感じたくて。
「‥‥なによ。さっきまで殺されそうな顔で逃げてたくせに」
低い声が呆れたように呟いたが、
イルカはひーひーと泣き続け、猿みたいにしがみついた。
「‥男とは今日中に別れんのよ。そうしたら許してあげます」
子供に言い聞かすようにカカシは言った。
イルカは何度も頷いて、
またこの男に囚われていく己を実感する。
そうか。
逃げだした本当の理由は――失う恐怖を二度と知りたくないから、
また囚われるのが恐かった。
だって今度失ったら、
まちがいなく自分は息をすることをやめる。
どちらにしろ殺されるんだ、と赤い目でつぶやくと、
帰ってきた男はにやりと笑ってキスをした。
○ BACK ○